第三十七話 変異体
校舎を出ると外はもう既に日が傾いており少し薄暗かった。外気がむき出しの腕を撫でつけ、肌寒さに体が縮む。
よくよく考えると佐伯くんと二人きりになったのはゾンビが現れた最初の日、大学で初めて出会ったとき以来だ。その後すぐに須藤くんと合流したため、佐伯くんと私は口下手なタイプなのもあってか、普段は何気ない会話のほとんどを須藤くんが喋っていた。実際二人になってみると何を話せばいいのかわからず少し気まずい。しばらくの間私たちは一言も発さずにいたが、本館に通じる広い道に出たとき佐伯くんが話しかけてきた。
「誠くんはどこにいたんだ?」
「あ……体育館の近く、校舎裏の草むらにいたの。血だらけで倒れてたから最初は死体かと思ったんだけど、すぐにわかったんだ、誠だって」
「そうか……再会できて本当に良かった。それにしても誠くんもだいぶ辛い目にあったようだな」
「うん……一緒にいた友達がみんなゾンビに、だって……」
佐伯くんにたどたどしくそう話しながら改めて誠に再会できた幸運を噛み締めると共に、ふと藤井くんの存在を思い出した。友達を見捨てたという罪の意識に苛まれ項垂れて、魂の脱け殻のようだった彼の姿。誠が生きていたと知ったらきっと喜ぶだろう。
「ねえ義嵩くん、用件が終わったら体育館に寄ってもいい?」
「ん……ああ、わかった」
思い悩むような表情で目を伏せていた佐伯くんは突然の申し出に軽く目を見開くも、理由も聞かずに快く承諾してくれた。
*
「さて、ここだな」
本館の玄関口には見張りの自衛隊員が二人おり、避難民らしき老人と何やら口論しているようだった。少し待っていると老人は渋々といった様子でこちらに引き返してきた。どうやら交渉に失敗したらしい。道をあけようと脇に退けると、老人は私たちの前で立ち止まった。
「おや、君たちも本部に用かな?」
「あ、はい」
はきはきとした口調で話しかけてきたこの老人は人のよさそうな顔をしていたが、やはり相当辛いことがあったのだろう、目は落ちくぼみ血色も悪く憔悴しきった様子だった。
「どうやらあちらは取り込んでいるようだ。私も受け入れ避難民の一覧を見せてもらいにきたのだがね、だめだったよ。後にしてくれと。君たちは?」
「……似たような用件です。お話を聞いた限り無理のようですが……何人もが同じことを要求すればいつかは自衛隊も動くでしょう。ダメもとで行ってきます」
本来の目的を明かさないよううまく濁しながらそう言ってのけた佐伯くんに老人も納得したらしい。うんうんと深く頷くと話を続けた。
「要求をのんでくれるといいな。私もまた後で来るとしよう。では」
老人が校舎の中に消えたのを見届けると佐伯くんは私に行こうと目配せした。
「なんだ、君たちは。避難民同士のトラブルは巡回している見張りの隊員に言ってくれ」
余程余裕がないのだろう、若い自衛隊員は私たちの姿を目にとめた瞬間早口で捲し立てた。その有無を言わせぬ威圧的な態度に私は少し怯んだが、佐伯くんは意にもとめない様子ではっきりとした強い口調で言い放った。
「ゾンビの変異種のことでお話があるのですが。上部の方とお話させてくれませんか」
隊員は佐伯くんの言葉に明らかに動揺の色を見せた。何か知っているのに違いない。一瞬口ごもってから抑えた声で話し始めた。
「……なぜそのことを知っているんだ」
「ここに来る道中、実際に遭遇したのです」
「なんだと」
「私に知っている情報を全て教えて。このことは他に漏らしてはだめよ」
割り込んできた聞き覚えのある凛とした声にもう一人の自衛官の方に目を向けると、私たちの検問を受け持った女性隊員だった。険しい表情で私たちを見ていたが、私の顔を見て思い出したようだ。
「あら、あなた……また会ったわね。この際名乗っておきましょう。藤原美佐子三等陸尉よ。私が必ず上部に伝えるから安心して」
どうやら一般人が本部に入るのはどうしても許されないことらしい。その場で佐伯くんは藤原さんたちに屋敷での出来事、硝子越しに見た化け物の形状を簡潔に伝えた。
「……集団で閉じた門を突破したと。知恵が芽生えたゾンビ……変異体に間違いないわね。北海道のに特徴が一致してる」
「ただ、門は施錠されていました。大きな門で、たしかかんぬき式でしたが……」
「奴の姿を見たでしょう。大きな背丈に長い手。知能もあるし、常人にはできないことでもやってのけてもおかしくないわ」
「……しかしお前たちよく生き残れたな」
隊員の反応を見るに私たちが遭遇したのは今まさに自衛隊の間で問題になっている変異体であるようだ。そしてその変異体がこの高校の近くに迫り来ている――その情報が彼らに伝えられれば十分だった。
「あれと遭遇したのはここからそう遠くない……立星大学と和泉商店街の中間地点です。今日明日あたりは特に警戒してください」
「ありがとう、貴重な情報だわ。じゃあ、あなたたちは安心しておやすみなさい」
「あ、あと……受け入れ避難民の名簿の公開に対応してあげてください」
佐伯くんに続けて私も先ほどのおじいさんのことを伝える。藤原さんは「もうすぐ対応できると思うわ」とにっこり笑った。
藤原さんに全てを伝え、目的を達成した私たちは早々に校舎へ戻ることになった。礼を言って立ち去ろうとすると、藤原さんが私たちを引き留めた。
「いい、この情報は絶対に他に漏らしてはダメよ。ただでさえ避難民は耐え難い傷をおってギリギリのところで生きようとしてる。これ以上彼らを刺激するようなことをしたら……団結が乱れ、未知の危険に対処できなくなる。約束よ」
「もちろんです、約束します」
女性隊員に固く約束し、私たちは本部前を後にした。
「さて……もう俺たちの出る幕はない。一安心だな」
「そうだね。あとは自衛隊の人たちがなんとかしてくれるはず……だよね」
「ああ……」
何気なく上を見やると、校舎と校舎の間から地平線に吸い込まれていく赤く染まった空が見えた。もはや当り前のように死体が転がるような世界だが、自然だけは何も変わっていない――そう思うと目の前の光景に言い知れぬ感情がこみあげてきた。
しばらくそうしていたと思う。ふと隣を見ると佐伯くんも同じように空を仰いでいた。シュッと通った鼻筋が凛々しい横顔にしばらく見とれていると私の視線に気付いたらしい、彼と目があった。
「あっ、いや、なんでもないよ……ゴメンね」
両手を振って慌てて弁解するも、佐伯くんはずっと私を見てくる。涼しげな目元から注がれる視線は少し熱がこもっているようにも思えて、みるみる顔が赤くなっていくのを感じる。何かついてるのかな?――しかし声を出そうとしても声がでない。
「皐月さん」
「え、なあに?」
声がひっくり返ってしまった。恥ずかしさのあまりいっそのことお笑いにしてしまいたくなり、おちゃらけた風を装い小首を傾げる。佐伯くんは柔らかく微笑むと、私に向かって手を伸ばしてきた。
「えっ、あ……」
彼の大きな手は私の髪を滑り、何かをつまみ上げた。
「髪に虫が」
「あ、なんだ虫かぁ……」
なんてベタな展開! あからさまに落胆したような声を出してしまった。自意識過剰すぎて恥ずかしい。佐伯くんが指先を軽く開くと、蛾のような小さな羽虫が少しの間のあと飛び去っていった。
「あの、さ……」
少しの沈黙の後、意を決して切り出した。ずっと頭のどこかを占めていて、いずれははっきりさせたかったことだ。
「やっぱりいつまでも一緒ってわけにはいられない……のかな。義崇くんには義崇くんの家族とか友達とかいるんだし。他にももっと大切な人いるだろうし。それなのに、今まで私が余計な負担を強いちゃって。義崇くんは気にするなって言ってくれるけど、やっぱりいつ死ぬかもわからない状況で、いつまでも義崇くんに甘えていられないなって思う。それに今日だって私は……」
渡部くんを見殺しにしちゃった。頼りなくてダメな人間なんだ。そう言おうとして、喉に、目に色々込み上げてきた。これじゃあ卑怯な人間だ。必死にこらえようとする。
そのとき、左のこめかみから頬のあたりに温かい感触がした。
「義崇くん……?」
手だった。彼は私の頬に軽く手を添えると、自分でも困惑したような様子だった。
「そんなに自分を責めないでほしい。今日のことだって君に責任はない。それに俺は……」
彼の薄い唇が僅かに開き、塞き止めた息が漏れる微かな音が聞こえた。しかしすぐに唇は閉じられ、手は静かに離れていった。
「いや……、なんでもないんだ。すまない。それにしても、弟くんが見つかって本当に良かった。皐月さんは大切な家族と会えたんだ、俺たちのことは気にせず今後のことを考えてほしい」
「あ、いや、ちがう、そうじゃなくて」
もしかして誠が見つかったことでもう私は不安から解放されて佐伯くんたちと別れたいと思っていると誤解されてしまっただろうか。決してそんなこと思っていないのに。むしろ……。慌てて言葉を続けようとするが佐伯くんに遮られる。
「遠慮は無用だ。もちろん、これまで助け合ってきた大切な仲間なのだから、別れるべき時がくるまで一緒にいよう」
意図的に距離を置かれたように感じた。さっきの言葉を最後まで聞かせてほしい――そう思ったが口に出すことはできなかった。それから私たちの間に微妙な空気が流れ、会話を交わすことはおろか目を合わせることさえなかった。