第三十五話 諦め
体育館の外壁に備え付けられた水道の蛇口をひねる。グラウンドに面したそれは普段体育会系の部活動に勤しむ多くの生徒たちが利用していたのだろう。サッカー部員である誠もその一人であったに違いない。日常が失われて4日が経った今の時点ではまだ電気も水も使える。しかし使えなくなる日が来るのは時間の問題。そう遠くないはずだ。
文化祭の準備でペンキを被ったにしてもここまでにはならないだろう――真っ赤に染まったシャツを脱がせ、誠は血をたっぷり被った頭を洗い始めた。透明の水が誠の頭を伝って排水溝で赤い渦を巻いた。
このシャツは洗っても使い物になりそうもない。臭いがきついし、何より誠が着たがらないだろう。皆がいる教室まで急いで戻った方がいい。そう考えているうちに頭を洗い終えたようだ、手で念入りに水気を落とす誠と目が合った。
「とりあえずここは寒いから部屋に行こっか……。途中で出会った人たち何人かとここまで来たんだけど、皆私が誠を探すのに付き合ってくれたんだよ」
「……やっぱ俺を探すためにここまで来てくれたんだ。すごい危険だっただろ?」
「そりゃあね……」
途中で命を落とした清見さんや寺崎くん、渡部くんの顔が次々と浮かんでは消えた。数々の犠牲の上に成り立った再会であることは確かだろう。
「ホントにありがと……姉ちゃん」
「誠……」
「俺、正直生きる気なくしてた。苦しすぎて」
喉の奥から絞り出すようにそう言う誠は泣き笑いのような表情だった。
「俺……っぐしゅっ!」
「ほら、やっぱ寒いんでしょ。話は後でゆっくり聞くから、まずは校舎に入ろ。皆誠のクラスの、2年B組にいるから」
その時誠の表情が明らかに強ばった。目を大きく見開き、ゆっくりと首を横に振る。
「いやだ……行きたくない」
「え……?」
「俺行かない。ここにいる」
誠はそんなに人見知りするタイプではない。現に近所に住むおじいさんおばあさんとはすぐに仲良くなり、「まぁちゃん」と呼ばれ飴をもらったりして可愛がられている。ここまで拒否反応を示すのには何か訳があるのだろう。
「とりあえずこのままじゃ風邪引いちゃうから……体育館行こうか」
*
俯いて黙り込んでしまった誠の手を引き体育館に入り、隅の方に腰を下ろした。誠は何か恐ろしいことが頭から離れないようで、虚ろな目で血の気のない紫の唇を震わせている。
「いつここに避難してきたの?」
「……昨日」
やはりゾンビ発生からずっと高校にいたわけではないようだ。昨日までゾンビの目を掻い潜りながらやってきたのだろう。改めて再会できたことを幸運に思った。
「それまでどこにいたの?」
「……スポーツショップ。三階建てのビルの二階。キーパーのやつが……グローブ買い換えたいって言ったから帰りに寄って、それきりそこにこもってた」
「サッカー部の友達といたんだよね。藤井くんとかでしょ」
誠は頷くと体育座りして抱えた膝に顔を伏せてしまった。加代ちゃんは誠はあの日六人くらいで帰っていったと言っていた。一緒にいた友達はほとんど死んでしまったのだろう。
「……俺のせいだよ」
誠は顔を伏せたまま小さな声で呟いた。
「あいつら、声に反応するんだろ。俺、逃げるとき皆を励まそうと思って大声出してたんだ。あれがかえってあいつらを呼び寄せてたんだよな」
「…………」
「大量のあいつらに囲まれて、一人ずつ捕まって食われていった。一人襲われる度にあいつらが悲鳴をあげるそいつに集まるから、道ができて、俺たちは逃げて、また一人が襲われて……。いつの間にか半分になってた」
誠は淡々と喋り続けた。
「いつも馬鹿みたいなこと言って笑ったりさ、時には大会目指して真剣になって練習してさ、そんなやつらが……聞いたこともないような、恐ろしい声出して食われてった……。助けてって何度も言われたけど、もう助からないの見ただけでわかるからって自分に言い訳して……怖くて見捨てて逃げたんだ」
「誠……」
「藤井と、キーパーの宮里と、俺が残ったんだ。でもあと高校まで少しってところで宮里が首元を食い千切られて、すごい血が出て……」
誠はそこで一拍置き、続けた。
「でも化け物は一体だけだったから俺、店から持ち出してきた鉄の棒を化け物の首に思い切り突き刺したんだ。化け物は動かなくなったけど、藤井は血塗れの俺たちを助からないと思ったのか逃げたみたいだった。それから宮里を一人で支えて、途中何度も転んで、内臓とかぐちゃぐちゃの水溜りに飛び込んで血塗れになりながら、ここまで来たんだ」
誠はようやく顔を上げた。意外にも平然とした顔付きだったが、頬には涙のあとがあった。
「でも着いた途端宮里は自衛隊に連れてかれちゃってさ。たぶんあいつダメだったんだろーな……」
「……誠、よく頑張ったね」
「姉ちゃん、俺、生き残ってよかったのかな……」
「何言ってるの」
「俺なんかが生き残っちゃいけなかったんだよ。もうこの世界は終わりだ。死に損ないは大人しく死んだ方がいいんだよ」
「そんなこと言わないで。誠を探しにここまで来た私はどうなるの? 簡単に諦めないでよ」
生きる力を失いかけた誠にどうしても言葉が刺々しくなってしまう。私はお母さんと三人で生き延びたいと思っているのに、誠は全く逆の方向を向いている。なんともいえないもどかしさを感じた。しかし私と同じように他者を見殺しにしてしまった自責の念に苦しむ誠に心の奥底では同調していた。このままでは、引き摺りこまれてしまう。二人揃って生きようとする気持ちを失ってしまう。
「こんなところにいやがった」
さっと陰が差し聞き慣れた声が降ってきた。見上げるとやはり予想通りの人物がいた。須藤くんだ。
「ったく。飛び出したきりいつまで経っても戻ってこねぇんだからよ。ゾンビに喰われに行ったんじゃって心配したじゃねぇか」
「ごめんなさい……」
「バカ、謝るなよ。ほら、戻るぞ」
つっけんどんにそう言うと須藤くんは私の手首を掴み引き上げようとする。
「いや、ごめん。今は行けない……」
「…………」
須藤くんは静かに手を離した。神妙な面持ちで私を見つめてくる。
「……わかったよ、今は一人になりたいよな。ただ、ここにいろよ? また迎えに来るからよ」
須藤くんは妙に優しい声でそう言うとふっと目を細めた。彼らしくない。違和感だらけで気持ち悪い。うん、気持ち悪い。……というかもしかして、横にいる誠に気付いてないのだろうか。いや、たぶん、というか絶対私が弟と再会できなかったと思っているに違いない。
「いや、落ち着いたら私がそっちに行くよ。誠連れて」
「あ?」
須藤くんはぽかんとした顔で私をじっと見つめ、それから横へ視線を移した。
「いたのかよ、おい! 早く言えよ! よかったなぁ!」
須藤くんは興奮した様子でバシバシと私の肩を叩いてくる。大声をあげて喜んでくれるのは嬉しいが、回りからの視線が痛いくらい突き刺さる。当の誠も呆然として何も話せずにいる。
「俺は須藤だ。お前の姉ちゃんとは共に死線をかいくぐってきた仲だ。よろしくな」
「……伊東誠っす、どうも」
差し出された大きな手を誠はおずおずと握り返す。
「で、何で来れねぇんだよ? 見つかったならいいじゃねーか。みんな喜ぶぜ」
「それは、その……色々あってね。とにかく、後で必ず行くから」
私がそう言うと須藤くんは軽く溜め息をついた。そして何を思ったか腕を組み誠をじろじろと観察し始める。彼の射るような鋭い瞳に誠は私に助けを求めるような視線を投げかけてくる。
「ええと……英雄くん? 誠、疲れてるみたいだから……」
「お前、自分のせいで人が死んだと思ってるだろ」
「……え」
須藤くんはやっぱりな、と再び溜め息をついた。
「そんなこと言うならここにいる奴らは皆そうだ。目の前で襲われてるやつを見殺しにしながらここまできた。そうだろ? じゃなきゃ今頃骨だけの残骸になってるか肉を求めて外をうろついてるかだ」
「でも……」
「漫画や映画の見すぎなんじゃねぇか? お前はヒーローでもなんでもないんだぜ。ただのガキだ。突然現れたあんな恐ろしい未知のバケモノに、普通の人間が敵うわけあるか」
誠は何か言おうとしたのか、口を僅かに開けたまま黙りこくってしまった。
「それとも何だ、お前誰かをおとりにでもしてわざと殺したのか?」
「……そんなこと、あるわけないじゃないっすか!」
突然張り上げた大きな怒声に周りの人たちが反応する。誠は相当傷つけられたのかブルブルと震えながら須藤くんを睨んでいる。須藤くんはその勢いに驚いたのか呆けた顔をしている。すぐに冷静さを取り戻した誠がすみません、といまだ不機嫌な態度で謝ると須藤くんはニッと笑った。
「……何がおかしいんすか?」
「いや、十分元気あるなと思ってよ」
この期に及んでも飄々とした態度の須藤くんに誠はあからさまにムッとした表情をした。それを見て来てくれたのが佐伯くんだったらな、と折角来てくれた須藤くんに対して失礼なことを考えてしまう。
「悲劇のヒーローぶるなら全てが終わってからにしろ。大切な時は今だ。また母ちゃんと姉ちゃんと三人で暮らしたくねぇのか? そんな調子でいるといつか後悔するぜ」
「…………」
誠は張りつめた表情をふっと解くと俯いてしまった。
「ごめん、英雄くん。今は無理みたい」
「ま、そうだろうな。いいぜ。また後で……」
「行きます」
はっきりした声でそう言うと誠は顔を上げた。会ったときとは別人のような生気の漲る顔だった。
「やっぱ俺生きたいっす。また家族と平和に暮らしたい。学校に通いたいし、サッカーもしたい」
「誠……」
私と目が合うと誠は僅かに笑顔を見せた。やっぱり同じ気持ちでいてくれたんだ。よかった。
須藤くんはくるりと背を向けるとつっけんどんに「行くぞ」と言い残しさっさと体育館から出て行ってしまった。私たちもゆっくり立ち上がるとその後を追った。




