第三話 遭遇
目と目で合図を交わしながら、忍び足で教室を一つ一つ覗いていく。音が聞こえない様子から予測はしていたが、幸い三階までの間に狂った人間たちの姿は見えなかった。しかし安心したのも束の間、二階へ降りて長い廊下の直線上に来た時、私達は絶句した。
「……っ!!」
白い廊下を汚す赤黒い血溜まり。生々しいそれは、つい先ほどまでここで殺戮が行われていたことを証明していた。強烈な生臭さが鼻をつく。
「うぷっ……!」
血の海に浮かぶピンクの肉片や、蛍光灯の光を反射してテカテカ光る臓物が見えた。魚の内臓を見ただけでも気持ち悪くなるのに、まさか人間のこんなものを見せられてはとても堪えられない。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。俯いて口に手をあて、未だ込み上げる吐き気を抑える。足元の白い廊下が涙で霞む。
「あまり視界に入れない方がいい」
彼が背中を擦ってくれた。しばらくそうしてもらったおかげで吐き気も少しおさまったようだ。
「ありがとう……」
私は彼に礼を言うと、目の前の異常な光景から逃れるため、もと来た階段の方を向いた。あんなにぐちゃぐちゃになっているんだ。あれらの持ち主が無事な訳がない。
「こんなの、普通じゃないよね……」
「そうだな……俺たちが知っている殺人事件や、戦争とは違う。人間性、理性というものがまるで感じられない……そっくり抜け落ちてしまっているようだ。まるで、獣……だな」
あまり動じた素振りを見せずに淡々と見解を述べる彼だが、その表情は重く、内心かなり動揺しているようだった。
ふつう人を殺す時はその人間の存在を消すことが目的であり、人を殺すという意思を持ち、様々な感情が付きまとう。しかしあの狂った者たちにはそれが感じられない。その人を殺すことに対して何の心の動きもないのだ。その人が生きようが死のうが考えも及ばない。どうでもいいのだ、ただ血と肉にありつければ。
私が落ち着いたのを確認すると、彼はより緊張した面持ちで私の耳元で囁いた。
「聞こえるか? 階段の下だ」
耳をすますと、下り階段の方から不気味な呻き声が聞こえる。
ァアァー……ゥアアァー……
喉の奥から絞り出すような、低い声。狂人たちに違いない。階段を下りたすぐ近くにいるようだ。
「この階段は使えない……ね」
「ああ。あっちのを使う必要があるな」
彼は血塗られた廊下の奥、こちらと反対側の突き当たりを指差す。この建物は長い廊下の両端にそれぞれ一つずつ階段がある。この階を無視して手前の階段から下に降りたかったが、危険なのならばやむを得ない。ここまでと同じようにこの廊下を端から端まで安全を確認しながら歩かなければならない。
「……大丈夫か?」
複雑な顔をしているであろう私を気遣って彼が声をかけてくれた。ここで躊躇して迷惑をかけるわけにはいかない――いつ追い詰められて食い殺されるかわからない危険な状況なのだから。私は無理矢理口角を上げて頷いた。
「奴らはまだこの階に潜んでいる可能性が高い。注意して進もう」
そう言うと彼は手にしていた荷物を降ろした。状況が状況なので今まで気付かなかったが、彼は鞄の他にも渋いえんじ色の大きな袋と、同色の布で包まれた私の足元から肩ほどまでの長さの棒状のものを持っていた。
「竹刀?」
「ああ。剣道部なんだ。今日も午前中は練習だった。殺傷力は低いが、リーチが長い分丸腰よりはましだな。いざとなれば相手の動きを封じるくらいはできるだろう」
袋の紐を解き、彼が竹刀を構える。シャツから覗く逞しい腕と全身から放たれるその気迫が、彼の剣道の実力を物語っており、心強く感じた。
竹刀を持った彼を先頭に、血溜まりを避けながら廊下を進む。あまり直視しないよう視界の隅に入るようにしていたが、やはり気分が悪い。彼は両手が竹刀で塞がっているので私が持つことになった彼の荷物は結構重く、気持ち悪さも相まって少しふらふらする。
見なくてもいいと言ってくれていたが気になって、彼が安全を確認した教室を恐る恐る覗くと、授業中に惨事が起きたようだ――ノートや筆記用具など持ち物がそのまま残っており、血にまみれて床に散乱していた。
次いで幾つか教室の中を確認したが、狂人たちの姿はなかった。逃げる人々を追って一階へ行ってしまったのだろうか。
あと少しで階段にたどり着く、という時。もうこの階にはいないのだろうと少し安心していた私の耳が、聞きなれない物音をとらえた。
クチャ……クチャ……
静かに響く湿った音。断続的に聞こえてくる。階段の向かいにある端の教室からのようだ。嫌な予感がする。
「ねえ……聞こえる?」
「ああ。おそらく、奴らだろうな」
彼の竹刀を握る手に力が入ったのがわかった。……どうする? 気付かれなければそのまま素通りしたいところだが、一階がもっと危険で引き返さなければいけなかったらのことを考えると、挟み撃ちになるのだけは避けたい。今のうちに危険は排除しておきたいところだが、「排除」の行動内容が曖昧なまま部屋のすぐ側にまできてしまった。
私達は音をたてないようにドアに近付き、そっとその教室の中の様子を伺った。
私たちの正面に、狂った人間がいた。心臓がドクンと一際大きく鼓動し、その衝撃で短く悲鳴をあげそうになったが、堪えた。元々ホラーが好きだったのである程度耐性があると思っていた。しかし廊下の時点で気付かされたが、実際目にするのとは違う。
狂人は、人を食べている最中だった。目の前にある肉の塊を、犬のように這いつくばり顔を近づけてむしゃむしゃと頬張り咀嚼している。それが人だということは、何も状況を知らずに今この光景を見た人にはわからないだろう。何故なら、それはもはや原型をとどめていなかったからだ。白い骨にこびりついた僅かな肉を、あれは貪っていた。
「うぐっ……」
じっと観察していると戻しそうになって慌てて口をおさえる。こちらの存在がバレやしないかと背筋が凍る思いだったが、狂人はこちらを気にも留めず食事を続けている。
音をたてなくとも、私たちの姿は視界に入っているはずなのに。何故?
その時。教室の開け放たれた窓から風が入り込んだ。机の上に放置してあった空き缶が転がり落ちる。
カラン……カッカラカラカラ…
乾いた音をたてて私の足元へ転がってきた空き缶を見つめ、視線をまた正面に戻す。
狂人が、ゆっくりと顔をあげた。少々長めの茶髪でラフな格好をした男子学生だった。新鮮な血でぐっしょり濡れた半開きの口から赤黒く染まった歯が覗く。白く濁った瞳はピクピクと動き、焦点が定まらない。
「下がって、廊下の様子を見ていてくれ」
彼が正面を見据えたまま私に言う。本当に大丈夫なのだろうか。あれの力は……強い。言われるがまま二三歩下がったが、気が気じゃない。
そう考えている間に狂った男子学生が緩慢な動作でのっそりと立ち上がった。
ゥアアァァ……
こちらに手を伸ばし、前のめりの体勢になりながら、不安定な足取りでふらふらと彼の方に近付いてくる!