第三十話 追跡者
「うん、わかった。誠のことは私に任せて。お母さんも気をつけてね。また明日ね」
私はお母さんとの通話を終えると携帯を閉じふうっと軽く溜め息をついた。誰もいない廃ビルの三階は真っ暗で、月明かりと携帯のライトだけが頼りだ。そして携帯の明かりが消えた今、私の回りを照らすものは何もない。……正直幽霊が出そうですごく怖い。変な話だ、存在自体怪しい幽霊なんかを怖がるなんて。昼間はそれよりもっと恐ろしいものを相手にしているというのに。そう考えると馬鹿馬鹿しく思えてきて私は早く寝ようと下に降りる階段へ向かった。
「…………!」
背筋がぞくっとした。何だろう、今のは。獣の咆哮のような低い唸り声。ゾンビではない――なら何なのか? ふと屋敷の曇りガラスに映った大きな影が思いだされる。冷や汗がこめかみから頬を伝う。すると廊下の直線上に一つの黒い影が現れた。
窓から差し込む青白い月光に照らされたのは――色素の薄い髪を逆立てた浅黒い肌の青年。
「須藤くんかぁ……」
私の声に気付いたらしい、須藤くんがビクリと身体を震わせこちらを向いた。……様子が変だ。私の方へゆっくり歩み寄ってくる須藤くんに私も小走りで近付いた。
「須藤くん、まだ私の見張りの番だよ。どうしたの? あれ、なんか顔色、悪いよ……?」
「名前で呼び合うんじゃねぇのかよ」
「あ、そうだった」
「ったく……」
無理に作った笑顔でそう言う須藤くんの声はひどく掠れて苦しそうだった。本当に何があったのか? 問いかけようとしたその時、須藤くんの体がふらりと揺れ、いきなり私にもたれかかってきた。彼の熱い体温を感じ、ドキドキしてしまう。
「え? な、なになに?」
「……感触が手に残ってる」
耳元で囁かれたその言葉を辛うじて聞き取る。仄かに漂う酸の匂い。感触――ここに来るまでの間のサイコパスとの戦闘が思い返される。そうだ、須藤くんは生きた人間を相手にして、斧で切りつけたのだ。ゾンビと違って新鮮な血が噴き出し、相手は激痛に悲鳴をあげていた。
「あれは、しょうがないよ……。だって無抵抗のままでいたら相田くんは殺されてたし、私たちは……凌辱されてたかも。今日本に法は機能してないし……誰もああいう人たちを裁かないんだよ。……英雄くんがあの時行動してくれてなかったら、さっきの平穏な時間はなかった。英雄君のおかげだよ」
虚ろな目で天井を仰ぐ須藤くんにできるだけ柔らかい声で言葉を掛ける。しばらくして私の肩に軽く寄りかかっていた須藤くんがゆっくりと離れた。
「……悪い。情けねぇとこ見せちまって」
「ううん」
「でも、違うんだよ」
「え?」
「俺はお前たちと約束した通り、後悔なんかしてない。ただ、変な恐怖感があんだよ。お前が言ったように犯罪者が裁かれることのない……暴力が支配するようなこの世界で俺はおかしくなりゃしねぇかなって」
須藤くんは血の気のない唇を震わせて囁くように言った。
「……ならないよ、英雄君は本当は優しいから。絶対にならない」
「……そうだといいよな」
須藤くんは口許に弱々しい笑みを浮かべると、こちらに背を向けしばらく一人にしてほしいと告げた。須藤くんがこんなに弱いところをみせるなんて初めてだ。……皆心が欠壊しそうになりながらも必死にバランスを保っているんだ。誰かに頼りすぎちゃいけない。その人が壊れちゃう。皆で背負っていかなきゃ。私はあまり遅くならないようにねと彼の背中に声を投げかけると再び階段へ向かった。
「…………?」
何か物音がしたような気がした。そして誰かに見られているような変な気配。でもここには私たち以外に人はいないはずだ。気のせいだろう。疲れているんだ……。私は早く寝ようと歩を速めた。
*
朝、アラームの音で目が覚めた。寝起きが悪い私は重たい瞼が重力に負けて閉じようとするのを何とか堪えながらも、ごろんと寝返りを打ちなかなか起き上がれずにいた。
「ほーら、起きなさい!」
「うぎゃっ!」
突然腹部をくすぐられ私は変な弾みをつけて飛び起きる。ゴツンと壁に頭をぶつけ何が起きたのかすぐには把握できずにぽかんとしているとクスクスと笑う奈美さんと目があった。
「もう出発するって。はい、朝ごはん」
軽く放られた細長い包装を慌てて受け取ろうとするが掌にあたって床に落ちた――大豆のスナック菓子だ。そういえば昨日は何もご飯を食べていない。その時今まで忘れていたかのようにおなかが鳴る。恐怖と緊張で空腹に気付かなかった。
いつの間にか奈美さんの隣にいた相田くんがぷっと吹き出す。私は起きてから少しの間にした自分の挙動が恥ずかしくなり火照る両頬に手を添える。恥ずかしさを紛らわすために包装を破って大豆バーをかじっていると奈美さんがそっと私の隣に腰掛けた。
「えっと、奈美さんと……駿さんはよく眠れた?」
「おかげさまでね、すっきりしたよ。てか駿さんって……あはは、なんか新鮮!」
「笑うなよ~。どうせ僕は年上の威厳なんかないさ。まぁそれはともかく、皐月ちゃんたちのおかげだな。僕たちがこうして生きて、笑っていられるのは」
奈美さんや相田くんが朗らかに笑っていることに安心した。ゆっくり休んで元気を取り戻してくれたみたいだ。私も自然と笑顔になる。
「……うちの両親、機械の操作が大の苦手で携帯を持ち歩く習慣とかないんだよね。そう考えると大丈夫かなって。いつもあっけらかんとしてる人たちだし。関西に住んでるから会うのは簡単じゃないけど……あたし信じるよ。もう迷わない」
「また無事に会えるようにまずは私たちが生き残らなきゃだね。そういえば……、彼氏さんはどうなの?」
「あー、実は早い段階であいつからはメール届いててさ。友達数人とアパートに籠ってるんだって。食べ物は近所のコンビニから取ってきたらしいし、うまくやってるみたい」
弾む声で嬉しそうに語る奈美さんに私まで明るい気持ちになってくる。
その時佐伯くんと須藤くんが部屋に入ってきた。もう既に荷物を抱え武器を手にしている。
「そろそろ行くぞ……ってまだ食ってんのかよ。早くしろ!」
「うぅっ、タンマタンマ!」
「ふふっ、なんか懐かしい言葉だね」
無理やり残りを全部口に押し込んでむせかえる私の背を奈美さんがぽんぽんと叩く。ようやく飲み込んで涙目になりながらも床に転がっていた警棒を拾い立ち上がる。
「ここから晃東学園まで順調にいけば一時間、よほどのことがない限り日没までには到着できるはずだ。落ち着いて行こう」
私たちは互いの目を見て頷く。そしてすぐに高校へ向けて出発したが、元来た隠し扉を通って廃ビルを出るとき須藤くんが小さな声を上げた。
「どうした、須藤」
「……何か違和感が、いや、何でもない」
須藤くんが自己解決したので私たちは何もそのことについて気にすることはなかった。すぐにその違和感は解明されることになるのだが。
*
廃ビルを出て寂れた通りをしばらく進み、私たちは一戸建てが立ち並ぶ住宅街に出た。その間ゾンビに遭遇することはあまりなかった。当り前のようなことだが、やはり人がたくさんいた場所にゾンビは現れるのだ。要するにゾンビはあまり自発的に移動しないということになる。
ゾンビを寄せ集めないよう無言で進んでいたが先頭を進む佐伯くんが突然道の真ん中で立ち止まった。
「義崇くん?」
「……誰だ」
佐伯くんのよく通る低い声が静かな住宅街に響く。さっぱり意味がわからなかったが私たちに言っているのではないことは確かだ。須藤くんはわかっているらしく、じっと後方に目を向けている。二人の視線の先を辿ると民家を囲うコンクリート塀の陰に何かがいるようだ。
「そこにいるのはわかっている。出てくるんだ」
少しして戸惑いながらも学生服に身を包んだ二人の男女が姿を現した。私は思わず目を見張った。サラサラの金髪に冷たいほど青い瞳をしたすらっとした美少年に、柔らかそうなライトブラウンのストレートロングヘアをなびかせる愛らしい顔立ちの美少女。テレビから抜け出てきたような美しい容姿をした二人に私はしばらく目を離せずにいたが、佐伯くんはそんなこともお構いなしといったように二人に問いかけた。
「答えろ。お前たちは何者だ? 何故俺たちをつけてきた?」
「…………」
二人は顔を見合わせ渋っているようだったが観念したのか少年の方から話し始めた。
「ボクは渡部・キリーロ・一輝。私立晃東学園に通う高校生です。この娘は大宮紗莉南で同級生です。黙って後をつけていたのは謝りますが、あなたたちを陥れようと悪さを企んでいたわけじゃありません。ただ助けてほしくて」
なにやら長々しい名前を名乗った美少年が淡々と聞かれたことに答える。少女は少年の後ろでもじもじとして大きな瞳を瞬かせこちらの様子を覗っている。そういえば二人の制服には見覚えがある――誠の着ているのと同じだ。
「ハーフか。生意気な名前しやがって」
「ちょっと英雄くんっ、怖がらせちゃだめだって」
「そうか。晃東学園に向かおうとしているんだな?」
「はい。ボクたちだけじゃ無事辿りつけるか不安で」
「なら黙って付いてくるといい。当然現状は把握しているだろう?」
ごちゃごちゃといらない無駄話をする私と須藤くんをよそに佐伯くんが二人と話し合いを続ける。最後の佐伯くんの言葉には奈美さんと相田くんが同時に反応し苦々しい顔をしていた。まぁ、そんなこんなで二人の美形さんと行動を共にすることになった。
「今までどこにいたんだよ? こいつらみたいに何も知らず呑気に家に籠ってたわけじゃねーよな?」
「ちょっと、呑気は余計でしょっ」
「ボクたちは早くにゾンビの存在を知ってずっと家に隠れていました。でも昨日食料が尽きて……このままじゃあまずいと思って体力のあるうちに避難所に移動しようと思ったんです」
歩きながらも私たちは小声で話し続ける。そういえばさっきから美少女――紗莉南ちゃんは一言も喋っていない。緊張しているのだろうか。シャイな娘なのかな……。いや、そうじゃなくてもこんな事態だ、周囲を警戒するのは当り前だろう。どうにか警戒を解ければよいけれど。
「えっと、紗莉奈ちゃん……だったよね?」
「…………」
紗莉奈ちゃんは少し困ったような表情を見せると小さく頷いた。よく見ると渡部君ほどではないにしろ日本人離れした外見をしているような……彼女も外国人の血が入っているのだろうか。
「誠、伊東誠って知ってる? 私の弟で晃東に通ってたんだけど……。あ、今高校二年生」
「……知ってる」
「本当に?」
「クラスメートだったから」
鈴を転がしたように可愛らしいか細い声で彼女は答える。しかしあまり話したくないのだろうか。気怠げというかどこか不機嫌な感じがする。きっと外見通り繊細な娘なのだ。気分を害してしまったのかもしれない。自分の無神経さに落ち込む。
「あとどのくらいかわかるか?」
「もうすぐ着きますよ。それにしても案外ここらへんにはゾンビいませんね」
渡部くんが汗ばんで顔に貼りついた髪を払う。そんな仕草さえも様になっているからすごい。その時私たちの耳に久しく――といっても一日にも満たない間だが――聞いていなかった不気味な呻き声が飛び込んでくる。
「ひぃぃっっ!」
呻き声を聞いてそんな高く小さな悲鳴をあげながら真っ先に列の最後尾に回り込んだのは――これまた渡部くんだった。涼しげな顔をして、この若さで人生を達観しているような態度をとる彼が……実は極度の怖がりだったとは。結構怖がりな相田くんでさえ彼の反応を見て面白がっている。まぁまだ高校生なのだから変に慣れてしまっているよりはよっぽど自然なのだが。
紗莉奈ちゃんは大丈夫かなとチラと様子を覗う。彼女はなにも動じていなかった。それどころか眉間に皺を寄せ怖い表情をしている。まるで何かを嫌悪しているような。彼女になにか底知れぬ恐怖を感じた。おかしなことだ、ゾンビでもない普通の女の子だというのに。
それからゾンビの声を聞いたり姿を見かけることはあってもどうにか戦闘になる事態は避けられた。それは本当によかったと思う。この二人を連れたまま木刀や斧でガシュガシュとゾンビの頭を叩き割ることはできない。きっと酷いショックを与えることになる。
「見えてきたな」
しばらくして住宅と住宅の間から高い塀が姿を現した。その頑丈な塀が落ち着いたクリーム色の壁のモダンな建物を囲んでいる。そういえば晃東学園は割と最近創設された学校なのだと聞いたことがあった。もうすぐだ、もうすぐ高校に着く。誠に会えるかもしれない。いや、会える、会うんだ。
少し離れた所から塀をぐるりと見渡すと門にかけて結構な数のゾンビが辺りをうろついていることが分かった。しかし十分突破可能な範囲だ。
「ちっ、ゾンビ共がいやがる」
「すまないがこれから門までゾンビのいる道を進むことになる。俺たちがまず先に進むが、酷く凄惨な光景を目の当たりにすることになる……堪えられるか?」
「だ、大丈夫。堪えますよ、もうすぐ高校なんですから。……おそろしく怖いですけど」
二人の同意を得ると(紗莉奈ちゃんは何も言わなかったので勝手に同意とみなしたようだ)佐伯くんが私たちに向き直る。
「俺と須藤が前線で戦う。相田さんは後方から援護をよろしく頼む。あと二人のどちらかに渡部くんと大宮さんの護衛を頼みたいんだが」
「そういうことなら皐月ちゃんがいいよ。人を落ち着かせる雰囲気あるから。一方であたしはダメダメ。それに警棒よりあたしのバットの方がゾンビを殺りやすいしね」
奈美さんに強く推されて私が二人の護衛をすることになった。そして間もなくゾンビとの戦いが始まった。順調に前線の三人がゾンビを倒していく。ゾンビの数が多く密集しているところは相田くんがスリングショットで的確に打ち抜き数を減らしていった。数秒の間、戦闘にすっかり目を奪われていた。はっとして私は慌てて二人に目を戻す。
「大丈夫? 気持ち悪くな……い……?」
近くの民家から一体のゾンビが姿を現した。死人のように青白い肌。露出した肋骨からは内臓が今にも零れ落ちそうだ。そしてゾンビの眼前には渡部くんと紗莉奈ちゃんがいる。なぜそこにいるの? さっきまで私のすぐ傍にいたはず……。
民家に背を向けている渡部くんはゾンビの存在に気付いていないが紗莉奈ちゃんの目には入っているはずだ。次の瞬間私は信じられない光景を目にすることになる。紗莉奈ちゃんが渡部くんを――ゾンビの方に向かって強く押した。