第二話 出会い
外に出るにはエレベーターという選択肢もあったが、階段と逆方向の廊下の突き当たりにあるため、待っている間に追い詰められてしまう危険性があった。普段便利なものは緊急時となると途端に頼りなくなってしまう。
階段は既に人でごった返していた。さっきの教室から私より先に逃げ出してきていた学生の他に、隣の教室からも続々と人が出てくる。中には衣服が破れ腕や足が露出し、生々しい傷口を覗かせる人もいる。あのおかしくなった人達にやられたに違いない。だとしたら、隣の教室でも同じようにおそろしいことが起きているということになる。一歩引いて様子を見ていた私は、見る見るうちに長くなる階段への列に入り込むこともできず、行く手を完全に遮られてしまった。
「おいっどけよ!」
「早く! 早く行って!」
悲鳴と怒声が絶え間なく飛び交い、鼓膜がビリビリと震えるのを感じる。このパニックを起こした状況を見ていると、もう終わりなんじゃないだろうか、と早くも不吉な予感が頭に浮かぶ。
背後から呻き声が聞こえ背筋が凍りついた。あの人達が出てきたんだ! 振り返るとやはり、いた。人々の間からわずかに見えるあの人たちは、目は白く濁り、赤黒いモノで汚れた口をだらしなく開け、服を返り血で真っ赤に染めていた。早く外に逃げなくちゃ……。人に囲まれ動けない状況の中、緊張は極限に達していた。
下へ続く階段は使えない。あの人達が追い付いてきたのを知った学生たちは、悲鳴をあげ、我先にと押し合いながら階段を下っている。あれではドミノ倒しになるのは時間の問題だ。彼らはすぐそこまで迫ってきている。足を引き摺るようにして、ゆっくり、ゆっくり。
考えている時間はなかった。どうにか開けている唯一の道――上り階段に足をかけたその時、下の方で悲鳴があがった。
階下にもあの人達がいるのだろうか……! 絶望的な気持ちになりながらも思わず下り階段の方を覗く。学生が学生を襲っていて――それは信じられないことに人混みの中心で起きている。ということは、逃げる学生の列の中にあの人達が混じっていたことになる。そんなことがあり得るのか……? 混乱しながらもあたりを見渡していると、襲っている学生の首筋につけられたばかりであろう深い傷が見えた。
引き返そうとする学生を、教室から出てきたあの人達――いや、もう普通の人と考えていいのかわからない――あの狂人たちが待ち構えていた。焦りと恐怖とで痛いほど体内で鼓動する心臓の音を感じながら、私は地獄の光景を背に階段をかけあがった。
先程の大教室があったのは三階だった。ここ五号館は七階建てで高いかわりに、各階の部屋数が二、三しかない縦長の建物だ。そしてちょうど中央の階である四階は、隣接する六号館へと続く渡り廊下がある。私はそこから脱出しようとしていた。
階下から聞こえる何十もの絶叫が私の足元から頭頂部まで突き抜ける。震えのあまり力が入らない身体に鞭打ち、やっとの思いで階段を上りきり四階に着いた。
四階は学生専用のPCルームがあるだけで、授業を受ける教室はない。そして今日は授業の少ない土曜日だけあって利用者もあまりいないようだ。廊下にいる人といえば、私と同じように三階から上がってきた人達で、一目散に渡り廊下を走り抜けていった。
鳴り止まぬ悲鳴に突き動かされるように、私も渡り廊下へと向かう。緊張と日頃の運動不足で足がガタガタと震え、思うように動かない。ついにその場にへたりこんでしまった。その時、さっと影がさした。
「すみません」
「ひゃああーっ!」
唐突にかけられた声に、私はまたしても情けない悲鳴を上げた。逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 立ち上がって走り出そうとするが、焦りすぎて生まれたての小鹿のようにうまく立ち上がることができない。
「大丈夫ですか、落ち着いて。……さっきから皆さん必死な様子で階段を駆け上がってきてますが、何かあったのですか?」
はっとして顔を声のする方に向ける。私に手を差し伸べていたのは、見知らぬ男子学生だった。背が高く、小柄な私を険しい顔で見下ろしている。この人はおかしくなってないようだ。
「……! 肩から血が……!」
彼は真っ赤に染まった私の肩を見て、驚いた声をあげた。とりあえず簡単な応急処置を、とその場に跪き、手にした鞄から何やら探し始めた彼に私はなんとか立ち上がって弁解した。
「あ、いや、これは私の血じゃないので大丈夫です。それよりもっ! 早く、早く逃げなきゃ!」
「逃げる……? 誰からですか?」
「えっと、私にもわからないんですが……おかしくなった人たちです。で、でもまぁとにかく危険なんです!」
悠長に話してなどいられなかった。いつあの狂人たちがここに来るかわからない。それにいつの間にやら階下から上ってくる人も少なくなり、聞こえる悲鳴も弱々しく途切れ途切れになっている。とても人間のものとは思えない、弱った獣のような細く甲高い声だった。
事態の異常さを感じ取ったらしい――彼は眉をひそめ意識を集中させて階下の様子を探っている。
「……銃声はしない。となると、刃物か?」
「いえ、武器は持ってなくて……でもすごい力なんです」
くる、と彼が私を見る。決意したような眼差しで、ゆっくりと立ちあがる。
「少し様子を見てきます。先に行ってください」
「だ、だめっ、絶対に危ないから! 一緒に逃げよう!」
実際に見なければ信じがたい現実だが、彼を行かせるわけにはいかない。名前も知らない人だが、このような状況下で普通に話せる存在がいるのはありがたい。いなくなってほしくなかった。
もう誰も階段から上がってこない。あんなにたくさんいた人が全員下り階段から逃げられたとは思えない。逃げそびれた人がどうなったか……すっかり静かになった階下のことは考えたくなかった。
アァ……ァアアァ……
微かだが聞こえてくる地の底から轟くような呻き声。あの狂人たちに違いない。そのうちこちらに近付いてくるだろう。
「……確かに、君の言う通り逃げた方がいいかもしれない」
迫り来る危険を理解してくれたようだ。視線を向けてきた彼に、私は頷き返した。
渡り廊下を二人で駆け抜ける。不気味なくらい静かな空間に足音が響く。窓から地上の様子を確認すると、門を目指して走る学生がちらほら見えた。そして、地面に倒れた誰かに群がる複数のあの姿も。
「嘘でしょ……外にもいるなんて」
立ち止まって思わず口走っていた。私より少し先を走っていた彼も引き返してきて隣に並ぶ。硝子越しに地上の人々の様子を他人事のように眺める――あれは、人を……。
「何だあれは……人が人を喰らってるのか……?」
隣で彼が呟いた。信じられないといった様子で、固唾を呑んで状況を伺っている。そう、あれは人を食べている。噛みついて、肉を食いちぎっているんだ。
外にもいるとわかった今、ここから出ても安全とは言えない。頑丈な扉のついた部屋で救助が来るまで籠っていた方がいいかもしれない。
「や、やばいよね? これ……。どうしよう、外、出ないほうがいいかな……?」
「……いや、とりあえず進もう。ここは狭い建物だ……逃げられる場所もそうない。PCルームに籠城するのも手だが、今引き返して安全かどうかは保障できないし得策じゃないな。あの人食いどもはまだこの階に上がってきていないようだが、この渡り廊下で挟み撃ちにされたら一巻の終わりだ。この先の六号館はここよりは広いし、何人か向かったにも関わらず悲鳴が聞こえないということは……少なくとも今来た場所よりは安全だろう」
このような状況下で冷静に現状を分析する彼に少し驚くもその説得力に同意せざるを得ず、私達は再び走り出した。今見た光景からこの建物を出ても安全ではないことはわかっているが、彼の言うとおりできるだけ逃げ道を多く確保できる場所に行かなくてはいけない。
渡り廊下の反対側に着いた。六号館は比較的小さな教室がたくさんある五階建ての校舎だ。今日はこの階で授業は行われていなかったらしく、人の気配を感じない。
「階の安全を確認して可能な限り下に降りよう。外に出れそうもない場合も考えて安全な部屋も確保しつつ……だ。」
彼は冷静だった。もと来た方向に注意を向ける横顔は頼もしい。彼に出会うことなく一人だったらと思うとぞっとする。
私達は一部屋一部屋を注意深く確認しながら下の階を目指した。