第二十二話 転生
少年の後ろに、長い黒髪にゆるくパーマをかけた女の子が青白い手を車のドアの縁にかけ、同じく血色の異常に悪い顔を覗かせていた。
「……優子っ、大丈夫なのか?」
少年が背後の気配に気付き振り返った。襲われるのではと身を固くしたが、彼女が少年に飛びかかることはなかった。自分の身体を抱き締めるように腕を回し、小刻みに震えている。目に生気がないが――白く濁ってもおらず、生きた人間のものだった。
「……すごく、寒いの。でも奥の方は、燃えてるみたいに、熱い。……身体が、変。どうし、ちゃったのかな……?」
彼女が息も絶え絶えに絞り出すようにして声を発する。もしかして、身体がゾンビに変化し始めているのだろうか。
「優子、駿の家に戻ろ。大学やってなさそうだし……結構ヤバいことになってるみたい。向こうで傷を手当てして、落ち着いて考えよう」
奈美さんが彼女を労るように優しい声で言った。駿とは少年のことだろうか。ということは彼女たちは今までずっとそこにいたことになる。この三人を異常事態に気付かせないなんて、一体どんな家なのだろう。
「もうこの車、使えないよなー……」
「そだね。フロントガラスがひび割れて真っ白。歩いてくしかないか。優子、捕まって」
奈美さんが肩をかし、優子さんが車からヨロヨロと出てきた。サンダルを履いた白い足――左の足首に歯形がくっきりとついている。
「おい、お前らどこ行く気だよ」
「駿の家。ここから結構近いの。とにかく落ち着いて状況を把握しなきゃ」
「武器も何も持たずに行くのか?」
「……来るときは見なかったから大丈夫だよ。そこに転がってるのだけだった。あなたたちには本当に感謝してる。色々ありがとね。なんかあなたたちも大変だろうし、迷惑掛けるわけにはいかない。もう行くから」
そう言うと奈美さんと駿くんは優子さんを連れて歩き始めた。
「ねぇ、絶対危ないよね? 運よくゾンビに遭遇しなかったとしても優子さんが……」
「まぁ間違いなくあいつら全員死ぬだろーな」
「だ、だったら引き留めよう! 途中まで着いていってあげよ。二人みたいに力のない私が言うのもあれだけど……あれが音に反応することくらいなら教えられるから」
須藤くんの「俺には関係ない」とでも言いたげな冷たい言葉に少しカッとなってしまった。本当に私なんかが何言ってるんだろう。自分がひどく滑稽に思える。
「俺は伊東さんがどうしても行くというのなら反対しないが……ただいちいち人の面倒をみていたらいつまで経っても弟くんのところに辿り着けないかもしれないぞ」
「ごもっともだな。それにあいつら助けても力になるとは思えないぜ……まぁ俺も強く反対はしないけどよ」
そうだ、二人の言う通りだ。確かに戦争にしてもこういう時にしても、薄っぺらな正義を振りかざして他の人のことに構っていたら自分の命がいくらあっても足りないだろう。……でも。
「でもやっぱり見捨てられない。私だって自分の命は大切だし、二人を危険な目に合わせたくないよ。あの女の子がゾンビになって大変なことになるのは目に見えてる。だけど……それでも今なら防げるはずだから。無謀なことじゃなかったら、出来るだけ助けていきたいなぁ……なんて」
元々口下手な私にとってこんな臭い台詞を長々と言うのは一苦労だ。顔に血液が急激に集中するのを感じながらつっかえつっかえ言葉を紡ぎ出す。二人とも無言なのが辛い。やはり無力なくせにって呆れているのだろうか。
「……やっぱ、大変だよね。ごめんね、二人を弟のことにも付き合わせてるのに」
「さ、追うか」
「へ?」
さも当然かのように発せられた須藤くんの声に、無意識に伏せていた顔を上げ、二人の顔を伺う。二人とも笑ってこちらを見ていた。嘲笑じゃなく、優しい笑顔で。
「今は助けるべき場面かもしれないな。行こう」
「……うん!」
私達は奈美さんたちの歩いていった方に向けて走り出した。
この通りには死体がなかった。時々血痕が目に入るがそんなに目立つほどではない。元々こじんまりした住宅街だったのだろうから、ここだけ元の平和だった世界のようだ。車に乗っていて異常に気付かなかったのも納得できる――何故三日間無事だったのかは未だに謎だが。
三人の後ろ姿が見えてきた。奈美さんが優子さんに肩を貸しながらゆっくり歩き、小柄な少年――駿くんは三人分の荷物を運んでいるようだ。
「あのっ!」
周りにゾンビの姿がないのを確認して三人の背中に向けて声をかける。駿くんがびくっと大きく肩を上下させ真っ先に振り返る。少し遅れて奈美さんもこちらに顔を向けた。
「……私たちも途中までついていきます。あれが出てきても撃退できるし、寄せ付けない方法も知ってるから」
奈美さんと駿くんが顔を見合わせる。小声で私たちの申し出について相談しているようだ。そして割とすぐに結論が出たらしく、奈美さんが言いづらそうに私たちに向けて言った。
「じゃあ、お願いしてもいい? 申し訳ないけど私たちやっぱり何も知らないから……」
……受け入れてもらえてよかった。私たちは小走りで近寄り奈美さんたちに合流した。次に考えなければいけないのは優子さんのことだ。彼女は息が荒くとても苦しそうで着々とゾンビへの転生の道を辿っている。このままではゾンビになった彼女に二人が抵抗できずに噛まれてしまう。何か対応策は無いのだろうか。
「その家はどこにあるんだ?」
「この通りを真っ直ぐ行って突き当たりを左。そこをもうちょい進んだとこに塀に囲まれた林があるんだよね。駿の家はそこ。駿のうちまあまあ裕福だからさ、結構敷地が広いんだよ」
それなら確かに街の騒動に気付かなかったのもわかる。銃声や絶え間なく鳴るサイレンの音が聞こえなかったのだろう。
「ご両親はいるの?」
「いや、僕だけです。父さんも母さんも旅行中で……仲睦まじいのはいいんですけどね」
「あたしたち大学でイベントサークルに所属してるの。で期限が迫ってきたから駿の家で企画の準備してたんだよね。土曜日からずーっとひたすら準備」
なるほど。外の様子もテレビも見ることなく家に籠っていたみたいだ。駿くんが事実を知った時どうなるのだろう。奈美さんもだ。ご両親から連絡がないということは……もう既に……。いや、そんな縁起の悪いことを考えちゃいけない。
「その首の……襟巻を貸してくれないか」
「ん? ああ、ストールのことね。はい」
佐伯くんが急に何を言い出すのかと思ったら(「襟巻」とは……佐伯君らしい)奈美さんが首に掛けていた黄色のお洒落なストールを受け取り、長さはそのままに折りたたみ始めた。そして「失礼」と断ると優子さんの口を覆うように巻きつけた。
「え、何してんの? 大丈夫、優子?」
「…………」
優子さんは力なく頷いた。身体全体がガクガクと震え始めている。ちょっとやばいかもしれない。
「……さっきの化け物のようになりたくなければこうしておいた方がいい」
「なにそれ。どういうこと?」
奈美さんの言葉に答えることなく佐伯くんはストールを優子さんの頭の後ろできつく結ぶ。
「それ貸せ」
「えっ、ちょっ、何するんだよ!?」
続いて須藤くんが駿くんの上着をたくしあげ――ベルトを器用に外すと無理やり引き抜いた。
「おい、そいつの腕を離せ」
「は? 何する気なの? ちょっと……答えなよ」
「いいから言うとおりにしろ!」
須藤くんの剣幕に勝気な奈美さんもさすがに怯んだのか、ゆっくりと肩に回された優子さんの腕を外す。すると途端に優子さんが崩れるように地面に膝をついた。
「優子っ!!」
須藤くんがすかさず彼女の手首をベルトで縛りあげる。奈美さんが抗議の声を上げるが手を止めることはなかった。
「ねぇ、ほんとにどうしたっていうの? 早く優子の手当てをしなきゃっていうのに」
「手当なんてする必要ねぇんだよ」
「なっ……! ふ、ふざけないでよ!」
「……な、奈美、し、しゅ、駿」
弱弱しいその声に、須藤くんと睨み合っていた奈美さんが顔を向ける。
「優子……!」
「優子、大丈夫か?」
二人の問いかけに優子さんは真っ白な顔をただただ震わせるだけだった。目の焦点は合わず、口が弛緩しだらんとしている。もうすぐかもしれない。普通の人間、友達とサークル活動に打ち込むごく普通の学生の女の子が、今自分を失おうとしている。痛々しくて見ていられない。今まで私たちが殺してきたゾンビにもこのような瞬間があったと思うといたたまれなくなる。
「……こ、こわ……い、たす……け……」
ほとんど息のような声。優子さんはそれだけ伝えるとゆっくりと仰向けに地面に倒れた。すかさず佐伯くんが傍に寄り呼吸を確認するが、俯いたまま険しい表情で首を振った。もう息をしていないようだった。
「優子ーーっ!!」
「あぁぁ、どうしたんだってんだよぉっ!!」
泣き叫ぶ二人のすぐ傍で私たちは優子さんが再び起き上がるのを待っていた。悲嘆に暮れる二人の背後、通りの奥からこちらに近付く影が見える。
「他のゾンビが寄ってきている。早めにお別れを済まさないと危ないぞ」
「……くるぜ」
須藤くんの言葉を合図に、ゆっくりと、優子さんが目を見開く。
「……優子?」
――そして濁った瞳が二人を捉えた。