番外編 須藤英雄
白いタイル張りの、少し古めなアパートの三階。佐伯は砂が大量に入り未だ涙を流し続ける両の目を瞬かせ、鞄から手探りで鍵を取り出すとドアを開けようとするが――なかなか鍵穴に入らないようだ。
「いい、俺がやる」
「……ああ、すまない」
俺は手にした斧とスポーツバッグを床に下ろすと前傾姿勢になって、おぶっている伊東を落とさないよう片手で支えながら鍵を開けた。
ギィッと錆び付いた音をたてながらドアが開く。中は古い外観に見合わず予想外に綺麗だった。リフォームしたばかりなのか――壁が眩しいくらい白い。いや、これは部屋の持ち主の几帳面な性格の表れだろう。家具も少なく、必要最低限の物しか置いていないようだ。
「お前、女連れ込んだことないだろ」
「……そんなことどうでもいいだろう」
図星だな。疲労で弛緩した顔に自然と笑みがこぼれる。別に部屋から推測した訳じゃあなく鎌かけただけだが、思った通りひっかかってくれた。
俺は靴を脱ぐと清潔感漂うリビングに上がり込んだ。小型なテレビの正面にソファーと、その間に低いテーブルがあった。
「おい、伊東はどこに寝かせればいい?」
「俺の部屋にベッドがある。ドアは一つしかないからすぐわかるはずだ」
佐伯は俺が置きっぱなしにしていた斧とバッグを部屋に運び、ドアを閉めた。
「わかった。お前、目洗っとけよ」
辛そうに目を手で覆う佐伯にそう声をかけると俺はドアを開け部屋に入った。白いシーツに紺の掛け布団。洗濯したてであろう、皺も染みも一つもないその上に伊東を下ろす。
伊東は口を僅かに開け静かに息をしていた。睫毛が目元に濃い陰をつくり、赤い唇から白い歯が覗く。俺はシーツに広がった長い髪を撫で付けると掛け布団をかけようとして――捲れ上がった青いワンピースから見える無防備な白い太股に目が釘付けになる。
「おっと」
俺は身体の奥からこみ上げてきた邪な気持ちを振り切るように一人呟くと伊東の首もとまで掛け布団をかけた。
「彼女は落ち着いている様子か?」
「ああ、ぐーすか寝てやがる。……体育館で見た時も少しは思ったけどよ、改めて見ると伊東ってなかなか可愛いよな。思わず襲いかかりそうだったがこらえたぜ」
もはや癖となっている軽口を叩きながら部屋のドアを閉めソファーにドカンと腰を下ろす。体のあちこちが軋むように痛い。女(それも、ちんちくりんな)背負ってちょっと走ったくらいで……いやその前からの緊張だとか色々あるだろうが、俺もまだまだトレーニングが足りねぇな……。
「互いを想い合っているなら構わないが……無理矢理は止めろよ。こんな世の中だ、愚かなことを仕出かす暴徒のような輩も現れるだろうが……身近な人間を殺された辛さの上にそんなことをされたら立ち直れないくらい心に傷を負うぞ」
眉間に皺を寄せて苦々しい顔で説教し始めた佐伯をぽかんと見つめる。おいおい、そんなに俺が信用できねぇのかよ。
「しねぇよ。つーかお前ら付き合ってんじゃねぇのかよ」
「なっ……お前もしかしてあれからずっと勘違いしてるのか?」
「違ぇのか?」
「違う。伊東さんとはこの騒動の最中に出会ったばかりだ」
少し頬染めてやがる……わかりやすい奴。野郎が照れたとこなんて見たくもねぇけどな。まぁそんなとこは面白いし、くそ真面目でいい奴だとは思うが。
「まぁ……素直でいい子だとは思うけどな」
あっ、早くもデレやがった。色恋事にどんくさそうなこいつらの行く末を思い浮かべ、はぁーと重い溜め息をつく。すると佐伯は突然真剣な表情になり、言い辛そうに口を開いた。
「……あまりこういうことに首を突っ込むのは好かないが状況が状況だ。須藤、お前交際している女性はいないのか? 興味本位で聞いているんじゃあない。会いに行くべき人はいないのか」
「いねぇよ」
心底意外そうな顔をされたが構わず続ける。
「真剣な交際した相手なんざ一人もいねぇな。食って捨てるような相手ならいくらでもいたが」
「お前って奴は……」
呆れたように首を振る佐伯をよそ目に俺は今まで相手にしてきた女たちを思い返そうとするが、誰一人顔を思い出すことができなかった。ただ一つ覚えているのは、どいつもこいつも薄っぺらで男に媚びることしか能がない卑しい女だったってことだ――あの女のように。
「須藤……?」
無意識にすげぇ顔をしていたらしい。あの女のことを考えるといつもこうだ。精神が未熟である表れだ。そんな俺に佐伯は射るような視線を投げかけてくる。何となく気まずくなってさっと目を逸らす。
「須藤、お前何か気に病むことがあるのか。無理強いはしないが……心に隙があるとこれから思わぬ事態を招くことにならないとも言えないからな」
「なんでも……」
なんでもない。そう言いかけて、俺は何を思ったのか考えを変えた。気付いたら自然と口に出ていた。
「……正直言って俺は怖い。無茶苦茶なことやらかしそうでよ」
「……お前がか?」
「ああ。昔から興奮が高まるとコントロールがきかねぇ。大学でも散々迷惑かけただろ。破壊衝動っていうのか……何もかも壊してやりたくなる。……育ちが悪かったからな」
佐伯は黙って俺の話に耳を傾けていた。こいつは一見他人のことをよく気遣える優等生的な優男だが、かなり合理的なタイプの人間だ。危険分子は容赦なく切り捨てる冷酷さも兼ね備えているように思う。それなら俺は危険視されるだろうが、なぜこんな話をしているのか。自分がよくわからない。ただ心身の疲れに任せて感情を吐き出していた。
「そういや、なぜ俺が家族を気にしないかってのはよ、ありがちだが家庭環境が最悪だったからだ。俺の親父は身内の弱い人間が己の意に沿わない行動をするとはいというまで暴言暴力で攻め立てるDV屑野郎で……今いるのは新しい母親だ。兄弟も下に四人いるが、全員腹違いのガキどもだ」
佐伯は尚も真っ直ぐな瞳を向けてくる。不思議と嫌な気分じゃあなかった。
「信じられねぇだろうが、俺の家は結構裕福な家柄でよ。親父は最高峰の大学を出たエリート官僚だ。当時一人息子だった俺も当然ながら幼少から熱心な教育を受けてきた……。だがこれまたありがちだが家庭は冷めきっていた」
『あなた……ひでちゃんは遊びたい盛りなんですから』
小学四年の頃だったか。新しいゲームソフトの発売日か何かで遊びたい気持ちが叱られるのを恐れる気持ちを勝り、俺は英会話のレッスンをサボった。平日も休日も毎日毎日、親の望む人間になるための訓練をこなしていたが、遊びたい盛りの俺はとても耐えられなかった。弾む足取りで家に帰った俺を待っていたのは容赦ない親父の鉄拳だった。いつもは割と素直に親父の命令に従っていて今回初めてこんな暴力を受けた俺は茫然として、泣くことも忘れ心から親父に恐怖した。その時お袋が言ったのがこの言葉だ。あの頃の記憶はほとんどないが何故かこれだけは今も忘れない。そしてその後の出来事も。
親父は美しい日本人形のように整ったお袋の顔を、思い切り平手打ちした。お袋は衝撃に耐えられず柱に勢いよく頭をぶつけ倒れた。そして泣きながら駆け寄った俺の頭をお袋は涙一つ流さず、悲しげな笑顔で撫でた。
機械のように冷酷な父親だった。体裁だけを気にする男で、自分の意に反することは絶対に認めなかった。ほとんど家で顔を合わせることもなかったし、帰ってきたと思えば恐怖で俺と母親を支配する。ただ血の繋がりがあるというだけで俺は親父に反抗できずにいた。今にしてみればそんなDV野郎にへこへこしてた俺を殴りたい。
だが皮肉にも俺の学力は天性のものがあった。難関と言われる私立の小学校、中学校とエスカレーターで上がり、成績も学年で三番以内に入らなかった日はなかった。あの頃の俺は従順で……何も疑うことを知らなかった。その愚かな純粋さが母を殺したんだ――今になってわかる。
忘れもしない中学一年の夏。夏休みだと言うのに遊びもせず塾に通いずめだった俺が、その日間違えて休講日に塾に行ってしまった。授業が無いことを知り嬉しくなった俺は冷凍庫に冷やしてあるアイスを思い浮かべ、にんまり口笛を吹きながら家へ向かった。
家へ帰ると妙な空気が漂っていた。リビングからすすり泣くような声が聞こえる。
『何故ですか! 私たちよりその女の方が大切だとでも――』
お袋の声はそこで途切れた。親父が殴ったのだ。閉められたドア越しにでもわかった。テーブルの上のものが派手な音をたてて床に落ちる。親父は少しでも反抗的な態度をとられるとすぐに手がでる。それは今でも変わらない。自分をいい気持ちにさせる相手にしか興味がないのだ。
お袋が半狂乱になって叫び声をあげる。耳をつんざくようなその声が恐ろしくて、恐ろしくて……俺はその場から逃げ出した。
「実のお袋は死んだ。俺が中学に上がってすぐの……夏だったか。交通事故だった。それからおふくろの保険金ですぐにやたら豪勢な高級住宅街に一戸建てを買ってよ。のこのこと俺の前に姿を見せやがったんだよ、あの女が」
お袋はきっと気が病んで注意力散漫だったのだろう。あの女と親父が手を組んで殺したんだと思った時期もあった――いや、今でも心の奥底でそう思っているのかもしれない。
それからの生活は思い出したくもない。家事もできなければ教養もない、若さだけが取り柄のあの女は――天才的な自分を着飾る技術と親父への媚びで――俺の生活を侵食していった。親父もいい気分であの女に好きなだけ贅沢品を買い与え、次々と弟や妹が生まれた。他に子供ができればやつらにとっては俺は無価値だ。視界に入れば暇つぶしに虐げられ、全てを否定されて、俺の自尊心はボロボロだった。もはや家に居場所はなかった。
「そんなある時、俺は親父を殴っちまった。あの時の親父のぽかんとした顔……いま思い出しても笑える」
お袋のことを軽々しく口にした親父を気付けば俺は殴りつけていた。俺は身体だけは成長していたから、痛かったのだろうとは思う。まぁそれよりも従順な奴隷に反撃されて驚いたのだろう。殴り返されるかと思ったがそんなことはなく、ただ次の日から俺は叔父の家に預けられた。親父の兄である叔父は親父と違って平凡だった。むしろ親父が成り上がりで家系的に特殊だったのだ。叔父は親父から大金を受け取り俺を引き取った。そして俺は名門中学は退学し、近所の公立中学に転入した。
全てを失って何もなかった俺は他人のものをぶっ壊すことに喜びを見出し始めた。他人の所有物を壊すことから始まり、あっという間に暴力沙汰を起こすまでに発展した。叔父はそんな俺にはまったくもって無関心で……問題が自分たちに降りかかってきそうな時は如何にも迷惑そうな、ゴミを見るような目で俺を見た。
高校に入ってからも変わらなかった。何人もを病院送りにした。でも俺が相手から奪われることは絶対にないよう、一方的に相手を破壊するため身体を鍛え、牢獄へ放り込まれることがないようギリギリのところで加減した。それでも鬱屈した破壊衝動はみるみる俺の中で膨れ上がって、日に日にその思いはつよくなった。誰かを殺したい。そんな思いが。
「荒んだ日々を過ごしていた俺はなぜかボクシングを始めた。街中で絡んできた野郎をぶん殴ってやったらもう一人が『俺の通うジムにはお前なんかよりもっと強い奴がいる』なんて言いやがったからどんなもんかと思ってな。小汚ねぇビルの1フロアを貸しきっただけのトレーニング施設でよ」
学業に加えこういう才能も俺にはあったようだ。日頃実戦を積んでいたとはいえ何も技術的なものを学んでいなかった俺だったが、そこにいたほとんどの奴がてんで大したことなかった。しかしそこには一人の男がいた――俺が今でも尊敬してやまないボクシングの天才だ。
「やたら険しい顔をした富士さんと呼ばれる初老の男がいた。俺のぼろ屑みたいな人生は富士さんに出会ったことで変わった」
彼は強かった。ありがちな展開なのでそれからの出来事は割愛するが、俺は彼に師事した。俺の頭から破壊衝動、家での孤独感は抜け、ただただボクシングに打ち込む毎日を送った。穏やかな余生を過ごすため急に富士さんが田舎へ姿を消すと、途端に不思議と別の熱意が湧いてきた。
「それからはまぁ足を洗って、一年浪人したもののあの大学に入ったわけだ。で、なんでこんな話をしちまったかというと……人の姿をしたゾンビをぶっ殺してるうちに、またあの時の俺が戻ってきやがんだよ。更生した後も他人なんざどうにでもなれって思ってきたが、お前たちには借りがあるからか……暴走して迷惑をかけたくない、と今は思ってる」
「そう危惧する気持ちがあるなら、まだいい方だ。それに避難所まであと少しだからな……どうにかなるだろう」
佐伯は飄々と答える。本心はどうだか知らんがな。それにしてもあまりにもべちゃくちゃと話しすぎた。きまりが悪くなり用を足そうと立ち上がった俺を佐伯が呼び止めた。
「……ひとつ疑問がある。そんな繋がりのない家庭ならば、お前に連絡なんて寄越さないと思うのだが」
さっき俺が滅多に使わず存在を忘れていた携帯電話が鳴り、家族と連絡が取れたのだ。
「……俺に連絡してきたのはガキどもだ」
「お前の義兄弟のことか?」
「そうだ。あいつらが生まれた時の俺は荒んでいて……視線だけは相手を射殺そうとせんばかりの勢いだったからあの女も俺に近付けたくなさそうだったんだが。妙に懐いてきてよ……大学に上がってからは会うことも滅多になくなったが。親父とあの女の血が流れていると思うと気持ち悪ぃが、まぁ……少しは可愛いと思う……かもな」
なんだか無性にむずがゆくて、俺はそそくさと洗面所に向かった。