第十九話 家族
じんじんと痛む頭を持ち上げ、どうにかこうにか上半身を起こす。焦る指で何度もボタンを押し間違えながらも、ようやく着信履歴から発信を選択した。――鳴り響くコール音に胸が高鳴る。
『……皐月!? 皐月なの!?』
「お母さん……?」
懐かしい声がした。もう何年も声を聞いていなかったように思える――実際はたった1日とちょっとなのだが。
『あんたさぁ、災害用伝言ダイアル使えってあれほど言ったでしょー? ……あぁでも本当よかった』
「あ、ごめん! 忘れてたぁ……」
お母さんは言葉の最後で涙声になって鼻を啜った。私も話しながら段々と涙が込み上げてきた。それにしても災害用伝言ダイアルの存在をすっかり忘れていた。心配性のお母さんから日頃あんなに言われていたのに。冷静に物事を考える時間は結構あったはずだが、やはり常に緊張していたようだ。
『今どこにいるの?』
「大学の近く。安全なとこ」
『一人?』
「一緒に逃げてきた人といるよ。同じ大学の」
ちらっと二人の方を見ると、佐伯くんは口元に微笑みを浮かべ頷き、須藤くんもニッと笑顔をつくった。
「お母さんたちは大丈夫?」
『…………』
「お母さん?」
あることに思い至って急に心臓がドキッとした。お母さんの無事は確認したが――誠。誠は無事なのだろうか。佐伯くんが私の様子の変化に気付いたのか、眉をひそめ心配そうな顔をしている。
『……お母さんは大丈夫。近くの小学校が避難所になっててね、自衛隊の人達に守ってもらってるから。各地域に指定された避難所があるはず。あんたたちも早くそこに行きなさい。一週間以内に安全な場所に連れていってもらえるそうよ。今まで上手く生き延びてやってこれたんだから……大丈夫よね?』
「……うん」
お母さんは努めて明るい声を出しているようだった。言いたくないことがある。そう確信した。悪い予感が頭の中を駆け巡る。
「ねえ、誠は?」
思いきって単刀直入に尋ねる。息を飲む気配が電話越しに感じられた。少し間が空き、お母さんは軽く息を吐き出すと話し始めた。
『誠はね、こんなことになった時、まだ家に帰ってきてなかったの……』
「……! じゃあまだ高校にいるってこと?」
『そう。正午頃公衆電話から電話がかかってきて、お昼は友達と食べるって……。全く、こんな時に携帯家に忘れるなんて信じられない、あの子は! ……でももうしょうがないことだから。あんたは自分の身を守ることに専念しなさい。いい?』
どう考えてもしょうがないと思っている声ではない。気丈な母が今にも泣きそうな声で無理してはきはき喋っている。
『お母さんだって誠のこと諦めたわけじゃないからね。誠の高校、設備が整ってるでしょ? 不審者対策だっていって校舎は高い塀で囲まれてるし、地域の避難所にも指定されてたはずよ。だったらきっと無事でしょ。あんたも誠も運の強さはお母さん譲りなんだから』
「高校……か」
誠は都心の私立高校に通っている。もともと都立高校が第一志望だったが、部活(誠はサッカー部だ)に入れ込みすぎて落ちてしまったのだ。家計を圧迫すると言ってお母さんに散々愚痴を言われ、罰として毎日皿洗いの約束をかわされたが。それでも部活に熱心である意味真っ直ぐな弟をお母さんは本気で責めることはなかった。
『……あっ自衛隊の人が来た。配給かな? ごめん、もう切らなきゃだわ。毎日夜にメールを一本ちょうだい、いい? 電池が切れないよう普段は電源きっときなさいよ』
「わかった」
『……絶対生き残ってね。皐月が危険な目にあうと思うとどうにかなっちゃいそうなくらい辛いけど、お母さんには、何もできないから……』
「大丈夫だよ。お母さんも絶対生きて待っててね」
名残惜しいが、別れの言葉を最後に電話を切った。
「……はぁ」
本当に幸福なひと時だったが、通話を終えて一番に重い溜め息が出た。どうすればいいのかわからなくなった。お母さんは安全なところにいるし、誠は高校にいる。家に帰る必要は無いように思える――。
「弟くんはどこの高校にいるんだ?」
しばらくの沈黙ののち、佐伯くんが突然そう聞いてきた。
「えっ? ああ、聞こえてた?」
「伊東の母ちゃん声でけぇのな。会話内容全部丸聞こえだぜ。恥ずかしい話題するときは気を付けろよ」
「あ……」
それじゃあ――いつの日かトイレを詰まらせたのは誰かについて電話で議論したのは回りの人に聞こえていたのだろうか。結局その時も誠がトイレットペーパーが切れていたときにティッシュペーパーを大量に使ってそのまま流したのが原因だったが。あの時私は気を使っていたがお母さんは大声で好き放題言ってたからな……。恥ずかしい。
「その顔……思い当たることがあるんだな? 何だよ、教えろよ」
「いやいやいや、無理無理無理ですってー」
新しい悪戯を思いついたガキ大将のような顔で詰め寄る須藤くんを本気で避ける。いや、本当に無理です。きっと今の私の顔は真っ赤だ。
「須藤、やめろ。……で、伊東さん。どこの高校なんだ?」
佐伯も実は気になるんだろーと尚もしつこく言う須藤くんにコホンと咳払いし、私に話の続きを促す。
「え、えと……私立晃東学園。知ってる? サッカーの強豪校だよ」
「ああ、じゃあここから結構近いな。目指している小学校と距離はたいして変わらないだろうし、あちらの方が避難所としての設備が充実しているだろう……行くか」
「え、本当に!?」
自分の住む地域でさえ道を把握しきれていないほど地理が苦手な私は距離も何もわかっていなかった。出来すぎた展開に戸惑いつつも喜びが隠せない。
「伊東のおふくろも無事なんだったらよ、そのままそのなんちゃら学園で救助待つので決定だな」
須藤くんが軽く言う。――でも。私の家族の安全だけ確認して後はしらないなんて許されるわけない。佐伯くんの家族も須藤くんの家族も今どうなっているのだろうか。すると須藤くんは私の胸のうちがわかったのか、話を続けた。
「さっき親父からメール来たんだよ。皆無事だとよ。……ったく、くたばってくれてよかったんだがな」
須藤くんの家族が生きていたことに顔を輝かせる間もなく、憎しみをこめて続けられた言葉に、反応に困ってしまった。一体彼の家庭に何があったのだろう。聞いてもいいのだろうか。
「……あ~、おい佐伯。アレあるか? ほら、やっぱ人間……つーか男か、生命の危機に直面すると本能が働くのな」
「なんだ、さっき食べたばかりじゃないか。まぁ家には災害用に十分にあるから構わないが」
「いや、じゃなくてよ」
話を切り出そうとしたとき、それを見越したように須藤くんが佐伯くんに話をふった。アレとは何なのだろうか。妙に神妙な面持ちの須藤くんに私も気になってしまう。
「あれだよ、ほら。エロいの。本でもなんでもいいからよ」
「お、お前っ……何の脈絡もなく急に何を言い出すんだ……。女性の前だぞ? 控えろ」
「ああ、今時本はねぇか。お前アナログ派だと思ってよ……ビデオでもいいぜ?」
「ないっ!」
「見え透いた嘘はやめとけ……あぁ、お前なんか官能小説とか読んでそうだな。じゃあいいわ」
とても須藤くんの複雑な家庭事情に関してなど言い出せる雰囲気ではなくなってしまった。それにしても須藤くん――ダイレクトすぎる。佐伯くんは真っ赤になって否定している――彼、見るからにこういう話題に弱そうだ。ちょっと可愛い。須藤くんはそれをわかっていてわざと口にしたのだろう。顔が意地悪く笑っている……。
「ねえ、佐伯くんの家族はどうなの?」
佐伯くんが可哀想になって話題を戻したが、あまりにも話の空気に落差がありすぎることに気付く。ちょっと失敗したかもしれない。須藤くんは「伊東あまり動じねぇな」とつまらなそうだ。
「伊東さんが意識を失っている間に両親から連絡があった。向こうでも凄まじい被害だそうだが、軍に救助されたそうだ。……ただ、姉とは連絡がつかない」
流石佐伯くん、切り替えが恐ろしく早い。お姉さんのことは心配だが、佐伯くんが言うには簡単に死ぬような人じゃないそうだ。どのような人なのか気になるところだが、望みを捨てずに気長に待とうということで話は終わった。
「そういえばさ、今国はどう動いてるのかな」
「ああ、さっきテレビニュースを見ていたんだが……官公庁は被害は免れなかったものの機能しているようだ。あそこは普段から警備が厳重だし土日となると人は極端に少ないからな」
「放送局も無事なんだ!」
「いや、いくつかは壊滅したようだぜ。今は半分くらいの局が動いてる。まぁさっきテレビでヘリで中継もしてたし、案外情報網は生きてるみてぇだ」
「ゾンビの発生理由については今調査中らしい。国民の安全への国の対策としては、なるべく避難所に移動し、遠かったら家で待機するようにとのことだ」
二人は得た情報を事細やかに説明してくれた。話を聞く限りやはり思ったよりも事態は絶望的ではないようだ。もしかしたら日常生活に戻れる時が本当にくるかもしれない。
「ところで伊東さん、今具合はどうだ?」
「……うん、大丈夫!」
少し考え佐伯くんに笑顔で応える。正直まだ頭が痛いが明日になれば歩けるようにはなるだろう。
「無理しても危険を招くだけだぜ?」
「う……」
須藤くんに指摘され、三人で話し合い、今日はとりあえず寝ることにした。ゆっくり休んで明日中にルートを決め、時間を見計らって出来る限り早く出発する予定だ。誠の安否を早く確認したいが、今高校で保護してもらっているかどうかでもう運命は決まってしまっているだろう。それにきっと大丈夫な気がする。誠は生きている。
佐伯くんと須藤くんはリビングで寝るそうだ。ベッドを独占してしまい申し訳なく思った。二人は私に「おやすみ」と声をかけると電気を消してドアを閉めた。私は引きずり込まれるように夢の世界へと入って行った。