第十七話 恐怖
大通り沿いにガラス張りの小洒落たカフェや飲食店、ブティックが並ぶ。奥にファッションビルや高架鉄道が見えてきた。駅に近付いてきたようだ。それにつれてゾンビの数も増加する。消防署までは通りに疎らに点在していたが、通りの向こうではゾンビが塊となって私たちの目の前に立ちはだかっている。
「はぁ、はぁ。ヤバいよ……ゾンビが多くなってきてる! 前、見て。あんなの突破できないよ……」
「すみません、寺崎くんは……決して悪い子じゃないんですけど……熱血漢で、思い立ったら居ても立ってもいられないんです……。店長とも、言い合いが絶えなかったり……」
もう既に息切れしている私に、走りながら清見さんが言う。消えてなくなってしまった日常の日々を思い浮かべているのか、遠い目をしている。彼女も精神的に相当きているはずだ。私だって佐伯君と出会って体育館で休息を取らなかったらどうなっていたかわからない。
その時、前を走る佐伯くんが左に曲がった。どうやら通り抜けるのが不可能と見た寺崎くんが左の路地に入ったようだ。私たちも続いて左に曲がる。と、先に走っていたはずの須藤くんと佐伯くんが入ってすぐの位置に立ちつくしていた。
「ど、どうしたの? 寺崎くんは?」
――いぎゃあぁぁあぁっっ……! やめろっやめろぉぉっ……!
突然聞こえたこの世のものとは思えない悲鳴に、びくっと身体が大きく震える。……まさか。
「……ぁあ、あ、て、寺崎……く、ん……」
清見さんが両手を口に当て、真っ蒼な顔をして目を大きく見開いている。その目の先には――寺崎くんの血肉に群がるゾンビの山があった。寺崎くんの姿は見えない。ゾンビの数が多すぎるのだ。ざっと二十体はいるだろう。湿った咀嚼音と、ゾンビの間から漏れ聞こえる彼の悲鳴。次第に弱くなっていく。
――おやじぃ、おふくっ……ひぎゃあぁぁっ……ぎぃぃぃっっ……
一体のゾンビが血にまみれた腸のような臓器を引きずり出し……同時に獣のような甲高い悲鳴――断末魔の悲鳴を上げて声は途絶えた。長いように感じられたが、実際は一分にも満たない出来事だった。
何も考えられず茫然と立ち尽くす私の腕がぐいと力強く引かれる。
「奥には……奴らの姿はないようだ。このまま真っ直ぐ行って、向こうの通りに抜けよう」
そう言う佐伯くんの声は機械のように無機質で、目は私の顔を視界に入れるのを避けるように伏せられていた。後ろを振り返ると、魂が抜けてしまったような清見さんをどうにか連れ出そうとする須藤くんの背後に、あれの姿が見えた。当然だ。大通りにはあれだけゾンビが溢れていたのだ。こんな悲鳴を聞いたら獲物を求めてわんさか寄ってくるに違いない。
私たちは寺崎くんに集る醜悪なゾンビの群れを避けながら路地の端を静かに通過した。その横を通る時、隙間から彼の顔が見えた。目が大きく見開かれ、そこに湛えられた涙は筋となって彼の頬を流れ落ちた。
「……うぐっ」
胸がギューっと締め付けられる。苦しい。悲しい。彼は両親に、家族に本当に会いたかったのだ。それも最後まで叶わなかった。私は彼を助けられなかった、死なせてしまった。
こんなことってあるのか? ゾンビってそんなにたいしたことないとか、仲間が増えて心強く思ったときからそう時間は経っていないはずだ。生存者もたくさんいて、もしかしたらこの異常事態は収束に向かうのかもしれないとかも考えたりした。家族の無事にも希望が持てた。なのに。いや、それがいけなかったのか。そうだ。気が緩んでいたのだ。もし私が最初の緊張感をもってあの場にいたのなら、寺崎くんは助かったのかもしれない。私はいつもそうなのだ。受験のときだって、油断して対策を怠ったから第一志望に落ちたんだ。あの時はそれなりに落ち込んで反省もした。大学生になったら気を引き締めて頑張ろうって思った。でも結局は変わらなかった。今、私のその悪い癖が彼を殺した。私のせいだ。
「伊東さん、考えるのは後にしよう。今、気を取り乱してゾンビに囲まれてからじゃ何もかも遅い」
はっとした。見上げると私の腕を引きながら走る佐伯くんは前を見据えたままで、その目には焦りが浮かんでいた。そうだ、今こそ気を緩めてはだめだ。まだ生きている人はいる。
「うん……」
返事をするも、覇気のない声が漏れた。
路地を抜けると、コンビニやマンションが立ち並ぶ狭い通りに出た。佐伯くんが言うには、この通りを真っ直ぐ進めば駅に近付くことなくアパートまで行けるようだ。早くも日が傾き、空が朱色に染まり始めている。街が夕闇に飲まれるまであと少し。しかしそれまでには彼の部屋に着いているだろう。
「おい、しっかりしろ」
須藤くんの声に振り向くと、清見さんが身体を傾かせ、焦点の定まらない目でぼーっと宙を見上げていた。時々口を動かしぶつぶつと何かを呟いている。須藤くんは彼女の肩を揺すっていたが、やがて無駄だとわかったのか手を離した。
「こりゃ早くアパートに行かなきゃヤバいぜ」
そう言う須藤くん自身の顔も血色が悪く、表情も無理して余裕を装っているが疲れ切っていた。須藤くんのこめかみから大粒の汗が伝ってコンクリートの地面に落ちる。もう皆限界だ。早く行かなきゃ。
「ゾンビはあまり見えない……ね。急ごうよ、走ろう」
黙り込んでその場に立ち尽くしている三人に声をかける。佐伯くんは思い出したように顔を上げると、私を見て頷いた。須藤くんに言われ、私は清見さんの手をしっかり握りアパートに着くまで離さないようにすることにした。
「清見さん、あともう少しだから、頑張ろう」
私の呼びかけに彼女は少しだけ身体を反応させたが、何も言葉を返してくれなかった。正直怖かった。普通だった人間がおかしくなってしまう。ゾンビもそうだが、清見さんのように精神を病んでしまうのは見ていられない。私は言い知れぬ恐怖感を振り切るように彼女の手をぎゅっと強く握った。彼女も握り返してくれた……気がした。
誰もいない通りを走る。消防署からずっと走りっぱなしだ。太ももが重く、足の裏がじんじん痛む。長距離走は何よりも苦手なのだ。もうリタイアしてしまいたい……。でも長距離走の時はいつもそう思うことだが結局最後まで走る。今回も同じだ。しかし清見さんがなかなか走ろうとせず、半分引きずるような状態なのだ。きつい。
「伊東さん、俺が清見さんを引っ張る。だから悪いが俺の荷物を持ってくれてもいいか?」
「あ、うん。ありがと……」
ありがとうなんて。疲れた思考からの無意識な発言だが、まるで清見さんがお荷物のような言い方だ。今のやり取りが耳に入っているかはわからないが、彼女に申し訳なく思った。
そういえばモップはどこかにいってしまった。私が担いでいたはずのスポーツバッグは万能斧と一緒に須藤くんが肩にかけている。時間が早く過ぎ去っていることからも思ったが、もしかして、ところどころ記憶が飛んでしまっているのだろうか。
「おい、前にいる。気をつけろ」
先頭を走る須藤くんが首だけ振り返って私たちに注意を呼び掛ける。前を見ると数体のゾンビが道の真ん中をふらふらとうろついている。女性のゾンビと男性のゾンビの間にいるのは、頭三つ分低い背の子供のゾンビだ。昨日は土曜日だ、親子三人でお出掛けだったのだろうか。幸せな家庭をぶち壊したゾンビの存在が恨めしい。
「あれ、お父さん? お母さん? ……歩美?」
清見さんの声。寝ぼけたような……でもはっきりとした正気の人間の声だ。でも、歩美って? 振り返って清見さんの顔を見ると、彼女はだらんと口を開け、目を輝かせて正面――ゾンビの方を見ていた。
「清見さん、駄目だ!」
清見さんは佐伯くんの掴む手を振り切り走り出そうとしていた。目はギラギラとして、嬉しそうに顔を綻ばせ、白い歯を見せている。何かがおかしい……!
「離して、離してよ……」
「おい須藤、彼女は何か変だ! あのゾンビを家族だと思い込んでいる!」
「そりゃやべぇな。さっさと殺すか? ……いやもっとおかしくなりそうだな」
須藤くんの「殺す」という言葉に清見さんは異常な反応を示した。歯を食いしばり身体をわなわなと震わせている。
「……バケモノ。私の家族を殺すつもりでしょ? そうはさせないんだから……」
彼女から発されたとは到底思えない、低く恐ろしい声だった。彼女はぐいと佐伯くんの手を引き植木の傍に身を屈めると、次の瞬間、彼の顔に何かを投げつけた。
「……うっ!」
砂だ。佐伯くんはそれでも手を離そうとしなかったが、彼女に手首を思い切り噛みつかれ、痛みに手を離してしまった。
「清見さん、待て!」
追いかけようとするが目に相当砂が入ったらしい、噛まれた手首の痛みも手伝って佐伯くんは歩くのも儘ならぬ様子だ。私はこちらに向かってくる清見さんを止めようと身構えた。しかし彼女の必死な形相とその手にしたものを見て身体が固まってしまった。彼女が持っていたのは、血の染み付いた竹刀。佐伯くんから取ったのか。
「バケモノぉぉ!! 死ねぇぇーー!!」
彼女の鬼気迫る勢いと悲しそうな瞳を最後に、私の意識は途絶えた。




