第一話 異変
気怠い空気に満たされた大教室。一人廃墟にいるような静寂の中、遠くの方から教授のぼそぼそとした小さな声のみ微かに聞こえる。……マイクが遠すぎるのではないだろうか? 教室が広いせいもあり、話が部分的にしか聞こえない。学生も学生で授業に対して無気力で、教授の目の前で堂々と惰眠を貪っていたり、スマートフォンの小さな画面上に繰り広げられる人間模様に夢中の様子だ。
そんな様子を眺める私は、今激しく後悔していた。なぜ土曜日に授業を入れてしまったのか。四月病は新学期開始直後から順調に回復の兆しを見せ始め、ついこの間全快した。
ふうと静かに息を吐く。頭がほわほわするし、瞼はずっしりと重い。あと少し気を緩めれば忽ち私も夢の世界だろう。
この大学に通いはじめて、はや1年と3ヶ月。特に目的意識もなく、周りの雰囲気に流されるがままサークルに入ってそれなりに楽しくやってきた。しかし本当の意味で充実しているかと言われれば疑問を抱かずにはいられなかった。
自分が今していることは意味があるのか? 明るい未来につながっているのか?
母子家庭で弟ひとり、都営住宅に三人暮らし。とても裕福とは言えなかったが、そこそこ物覚えが良かったようだ。高校は進学校に進み、行きたかった国立大学には落ちたものの、現役で第二志望だった私大に入学した。少し前の時代だったら女であるという理由で大学へ行くことさえままならなかったに違いない。しかし私の家は金銭的な問題はあったが、大学へは当然のように進学させてもらえた。それだけ陰で母が私へかける期待は大きいのかもしれない。
よくある成功者の物語に照らし合わせれば、貧しさという逆境を乗り越えようと毎日何かを必死で努力するところだろう。しかし私はそのような境遇であるにも関わらず熱意を持って何かに取り組むことができないでいた。
学問は、専攻を間違えたかもしれない。授業を聞いていると、とてつもなく強引な性格の睡魔が襲ってくる。
サークルは、必死に取り組んだ先に何があるのだろう? 絵が好きで美術系のサークルに入ったが、プロになれるわけでもないのだ。運動系でもないので、就活でアピールするには弱い。ずばり将来に向けた実用性はほぼゼロである。仲良しの昭子と由美と好きな男性のタイプについて語る時間は楽しいのだが……(ちなみに三人とも生まれてこのかた彼氏なしだ)。
何に関しても言えることだが、今は楽しくても、未来が見えてこない。私は何をするためにここにいるのだろう。
そんな考えは甘えだと心の底ではわかっている。今できること、やるべきことはたくさんあるのに、何をすればいいのかわからないと言い訳して何もせずにいるのだ。成功者の理想像を思い描けば描くほど、自分がひどく価値のない存在に感じる。ああ、憂鬱だ。落ちてくる瞼の重みを感じながら、何やら堅苦しい用語を交えて話し続ける教授の姿をぼんやりと見つめ、ふと虚しく思った。
と、その時だった。ガタンと大きな音をたて、私の席から斜め前の方向にいた女子学生が椅子から転がり落ちた。四方八方から、わっと一瞬どよめきが沸き起こる。数列隔たっていたので学生が疎らで空席が目立つにも関わらずよくは見えなかったが、床に倒れた彼女の長い黒髪が通路に広がっていた。
教授が急ぎ足で女子学生に近寄り、容態を尋ねる。幸い意識はあるようだ、彼女は教授の肩を借りながらどうにか身を起こした。
「バイトで寝不足が続いていて……すみません」
「そんなに辛いのなら授業を受けていても仕方ないだろう。帰りなさい」
「いえ、大丈夫です……すみません」
つらそうな声だった。よほど体調が悪いのだろう。その証拠に彼女が椅子に座り直すとき一瞬見えたその横顔は、恐ろしいほど真っ青だった。教授は何度も大丈夫かと確認していたが寝不足なんですと再度強調され、苦笑いを浮かべて教壇に戻って行った。女子学生はしばらくの間頑張っていたが、やがて机に突っ伏してしまった。
意識を保つのに精一杯で気づかなかったが、回りを見渡してみると今日はやけに寝ている学生が多い。それも大胆なことにほぼ全上半身を机に投げ出すようにして。
そのあと何事もなかったかのように授業は再開された。そして同時に帰宅したかのように思えた睡魔さんも再来した。母親が汗水流して稼いだ学費を無駄にしたくはない。そう思っていても先に述べたようにそんなにできのよい孝行娘ではないので、気がつけば意識が飛んでいた、なんてことはよくある。そして今日もその例に漏れなかった。
*
目が覚めた時にはホワイトボードに全く覚えのない板書がしてあって、最後に時計を見てからもう30分近く経っているのに気づく。ああ、やってしまった。何だかとても申し訳ない気持ちになる。
姿勢を正し、目を大きく見開いた。最後に熱心な学生を演じよう――そう思った矢先、視界の隅で何かが動いた。あの女子学生だった。あれからずっと眠っていたのだろうか。
彼女の様子が変なのにはすぐ気づいた。上半身を左右にふらふらと揺らしている。まだ調子が悪いのだろうなと可哀想に思いつつ、視線を教授に戻そうとした。
その時。彼女が横を向いた。同時に揺れがぴたりと止まる。私の体に瞬時に緊張が走った。横を向く彼女の目は虚ろで膜が張ったように白く濁り、口は弛緩してだらしなく開き涎が垂れていた。どう見ても普通ではなかった。
彼女のその目の先には真面目にノートをとる女子学生がいた。何故だかわからないがその時叫ばなければいけないと思った。そして私の勘は正しかったのだと思う。
それはゆっくりと私の目に映った。彼女が、女子学生の首に……噛みつくのは!
「い、痛ああああぁいっ!!」
私が噛んだと認識してからしばらく間があったように思えたが、実際は一瞬だったのかもしれない。耳をつんざくような女子学生の悲鳴。彼女の細い首は深くえぐれて血が大量に吹き出していた。
傍にいた背の高い男子学生が女子学生二人を引き離す。噛まれた彼女はその場に崩れ落ちるようにして倒れこんだ。
目の前で起きた衝撃的な出来事にしばらく硬直していたが、はっとして辺りを見渡す。驚いたことにこんな状況下でも顔を伏せて眠り続けている人もいたが、回りのほとんどの学生は身を乗り出したり立ち上がったりして困惑している様子だった。声が上擦りちょっとしたパニック状態になっている人もいる一方で、彼女に駆け寄り声をかける人や、電話を取り出す冷静な人もいた。
黒い長髪の女子学生は背の高い男子学生に拘束されていた。口の周りを真っ赤に染めて、剥き出しの歯にはピンク色の肉片がこびりついている。そして顔は能面のような無表情で、眉ひとつ動かさない。噛まれた女子学生は抱き起こされたものの、呼びかけに応じずピクピクと痙攣している。首からはドクドクととめどなく血が溢れだしている。ここでようやく目の前で起きたことの異常性に気付き、さっと血の気が引いた。
「大丈夫か!? ひどい傷だ……誰か救急車を! 急ぐんだ! 君、一体なぜこんなことをした!?」
いつもは穏やかな教授が切羽詰まった大声で黒髪の女子学生に問いかける。女子学生は何も答えず、ただ僅かに口を動かしていた。赤い歯が見えた。咀嚼しているのだ……人の肉を。
なんとも言えない悪寒が走った。これは、普通じゃない。それに目の前で起きている出来事も信じられないくらい恐ろしいが、これは悪夢の単なる一部分にすぎない。そんな気がした。
救急車を呼ぶべきか、いや、とっくに他の人がしているし大学の事務員を呼ぼうか? 一瞬頭をよぎったそんな良識的な思考はこのおぞましい事態の前では現実的ではないようにも思えた。
その時、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。ちらと出入り口を見ると、数人が口に手を当て、外へ向かって急ぎ足で歩いていた。どうしよう。一刻も早くこの恐ろしい場所から立ち去りたい。しかし、それも薄情な気がして、自然と浮いていた腰を下ろした。
おとなしく拘束されている女子学生を見る。血の気のない顔にとても正常な人間のそれとは思えない不気味な表情をを浮かべている。そういえば、いつの間にか口の動きは止まっていた。そのかわりに、女の目線が、宙をさまよっている。まるで何かを探すように。
「…………あ、あぶない……」
声が震えてうまく出ない。回りのひとも同じことを思っているのだろう。二人と近い距離の学生が数人、焦ったように席をたった。
悪い予感はあたった。ぐるん、と女の顔が取り押さえている男性の方を向いた。そして、勢いよく彼の顔面に食いついた。
「あ……うあああああ……っ!」
くぐもった叫び声が響き渡った。女の勢いは止まらず、そのまま男子学生を押し倒す。
回りから一斉に席をたつ音がした。私も机に広がるペンケースなどを乱暴にかき集め、鞄に押し込むと、上着を手にして席をたつ。そして急ぎ足で出口に向かおうとしたが、数歩踏み出したところで体がものすごい勢いで傾いた。
「あっ!」
情けない声をあげバランスを崩し、机に手をつく。鞄を引っ張られたということはすぐにわかった。体勢を整えまた歩き出そうと顔をあげた私と、そこに座る男子学生の目があった。私の前の席でさっきまで寝ていたはずの彼の目は、あの女子生徒と同じく白く濁っていた。
「いやああぁぁぁっ!!」
チャイムの音を掻き消すそれが自分の声だとすぐにはわからなかった。理性より恐怖が先立ち、私は鞄を手放すと全速力で駆け出した。
やばい、やばい、やばい!!
既に何人かが飛び出した後の閉まりかけた扉に手をかけたその時、背後で悲鳴が上がった。第一声を皮切りに、続々と悲鳴があがる。
振り返ると、一体何が起きているのか――教室のあちこちで学生同士が取っ組み合いになっていた。本能に突き動かされるように大口を開け、相手に噛みつこうとしている生徒と、それに抵抗する生徒だ。
私のすぐ側には茶髪の女子学生を必死に押さえつけている男子学生がいた。
「あ、あぁ……や、やめろっ、やめろっ……」
馬乗りになって襲いかかる女子学生の手首を掴む男子学生の腕は震えている。女の子なのにすごい力だ。大丈夫だろうと思っていたが、危ないかもしれない。
怖い気持ちを抑え、助けにいこうと数歩近づいた時、女子学生が大きく前へのりだし、男子学生の頬へ噛みついた。
「ひぎゃああぁぁっ!」
悲痛な叫び声をあげ、男子学生の力が抜けた。追い討ちをかけるように首へと食らいつく。
鮮血が、お気に入りの青いワンピースの右肩部分を真っ赤に染め上げる。鉄の臭いが鼻をつく。男子学生に目を移すと、首もとをえぐられ泡を吹いて気絶した彼に、新たに数人が近付いていた。
駄目だ、私も殺される……!
私は教室を飛び出した。
教室から廊下に飛び出してどちらへ行くべきか悩み、下へ続く階段のある右を選ぶまでの数秒間。私の目に、さっきまでいた教室の様子が写った。
白い机に、壁に、血、血、血。最後に見たのは、年老いた教授の恐怖に歪んだ顔。さっきまで自分の授業を受けていた生徒に捕えられて、今にも襲われようとしていた。
「一体、何が、起きてるの……?」
無意識的につぶやいたその声は、自分のものではないような気がした。すぐに我に返り、私は階段の方向に走り出した。