第十六話 亀裂
私達は会議室の椅子に腰を下ろした。少ししか歩いていないのに下半身がずっしりと重い。……そして喉がカラカラだ。外を歩いているときはゾンビのことで頭が一杯で自分の体の状態に気付かなかった。
皆も同じだったようで、佐伯くんは寺崎くんが担いでいたスポーツバッグからミネラルウォーターを取り出すと私に差し出した。
「水は重いからあまり入れてこなかったんだ。一本を四人で分けよう」
透明の水が入ったペットボトルを受け取り、キャップを開ける。本当は全部一人で飲んでしまいたいくらいだったがしょうがない。二、三口含むと、生ぬるい水が喉をトクトクと流れ内側を潤すのを感じた。
「はい」
「……ありがとう」
隣に座る清見さんに蓋の空いたペットボトルを渡す。彼女は少し俯いたまま僅かに微笑むとそれに口を付けた。
私の向かいには佐伯くん、その隣には寺崎くんが座っている。須藤くんは疲れていないからと率先してドアの外の見張りをしてくれている。開けたままのドアから彼の後ろ姿が見える。ゾンビが侵入してきた出口のある右の方向に特に注意を向けているようだ。
「そういや何も聞いてないんすけど。俺たちこれからどこの避難所に行くんすか?」
残り少なくなった水を佐伯くんに渡し、寺崎くんが口を開いた。ゾンビの特性と避難所に向かっていることについて話しただけで詳しいことは何も伝えていなかったのだ。
「駅の向こうの小学校だよ。でもその前に佐伯くんのアパートに寄るつもり。食料もあるし、そこで落ち着いて考えようって」
水を飲んでいる佐伯くんに代わって私が答える。
「だったら今色々話してくれてもいいでしょ? 知ってるぜ、何か俺たちに隠してんの。大変なことになってるかもしれないのにさ、他人の家でのんびりしてる余裕ねーよ!」
寺崎くんが切羽詰まった様子で喚きたてる。確かに彼の置かれた立場からすればもっともだ。私の隣の清見さんも彼を止めることなくじっと話を聞いている。佐伯くんは無表情に声を荒げる寺崎くんを見ていたが、少し間をおいてから口を開いた。
「君たちは自分の判断で俺たちに付いてくる、と言ったはずだが」
静かな口調だった。穏やかな声色をしているが目はすっと細められ、底知れぬ威圧感がある。寺崎くんも圧倒されたのか押し黙ってしまった。
「俺たちにも計画というものがある。生き延びるためにも予定が狂うのは避けなければならない。こちらの都合に付き合うのが嫌なら今からでも自由にしてくれて構わない」
「…………」
佐伯くんらしくない、容赦なく突き放した言い方。二人との間に冷たい空気が流れ込むのを感じておろおろしていると、佐伯くんがまた私に水を手渡した。
「ええっ!? 私はもう飲んだよ? 大丈夫、佐伯くん飲んじゃってよ」
傍観していた私に急に対象が向けられ、間抜けな声をあげてしまった。顔の前に両の手を掲げ「結構です」と身振り手ぶりでも伝える。
「いや、俺ももう大丈夫だから……須藤に渡してきてほしい。よく働いてくれているからな」
「……あ、了解でーす」
勘違いしたオーバーリアクションが恥ずかしくなった。ちょっと困ったように頭をポリポリと掻く佐伯くんから、私は赤面しながらそれを受け取った。
「須藤くん?」
廊下に響かないよう小さな声で須藤くんの背中に話しかける。そういえばさっきの寺崎くんの叫び声はゾンビの耳に届かなかっただろうか。まぁ異変は須藤くんが見逃さないだろうから大丈夫か。
「揉めてるみてぇだな」
須藤くんは顔だけをこちらに向け、ニッと口角を上げた。なんだか人を馬鹿にしたような笑みだ。しかし私は気付いた。彼はもともとこういう顔をしているのだと。私は部屋から出て彼の隣へ移動しペットボトルを渡した。
「サンキュー。……これゾンビ来たら投げろってんじゃねぇよな?」
「違うよ~。ペットボトルはそんなに音鳴らないし」
こんな時でもパニック映画の外人ばりに冗談を連発してくれるのは彼のとても良いところだ。逆に不快に思う人もいるだろうが、少なくとも私は救われる。
人間の破片が転がる真っ赤に染まった廊下に血生臭い風が吹く。そんな中水を飲み終えた須藤くんはふうっと重い溜め息をついた。微妙な雰囲気の変化を感じて見上げると、彼は固く口を結び、冷ややかな目で何もない正面を見つめている。
「環境の変化に適応できねぇ生物は滅びる……学校で習ったよな」
須藤くんは暗い表情とは真逆のはっきりとした口調で話し始めた。
「普通は長い時間をかけて変わってくもんだろうけどよ。そうは言ってらんねぇよなぁ。たった一日の間に世界はがらりと変わっちまった。今まで慣れ親しんできた日常は、跡形もなく消え去っちまった。もう戻ってこないかもしれねぇ」
「……そうだね」
「これまで世界を成り立たせてきた秩序なんてもう意味ねぇだろうな。こうなっちまった以上、古いものは……これまでの人間らしさはかなぐり捨てて、俺たちはかわらなきゃならねぇ」
まるで自分自身に言い聞かせているような口調で語る須藤くんの瞳は――光を飲み込んでしまいそうなくらい――深く暗く、底無し沼のようだった。
いきなり真剣に語り始めた須藤くんに面食らっていると、彼は沈黙する私の顔を見て可笑しそうに吹き出した。
「なんだよその顔。とにかく俺はな、今までの自分を捨てる。生き残るためなら躊躇わず殺す。やっぱりまだ俺は死にたくねぇんだよ……。まぁ捨てるっつっても、今までは殺しをしなかったってだけの違いだけどな」
「そう……だね。生き残らなきゃ」
「なに頬ひきつらせてんだ。……あ、勘違いするなよ? 俺は一度手を組んだ仲間は大切にするからな。他はしらねぇけど」
そう言って白い歯を見せ、軽く声を出して笑う。……須藤くんも変化に苦しんでいるんだ。だけれども中途半端なあり方は身を滅ぼす。私もこの一日でそれは理解できた。
「それでいいと思うよ、私は須藤くんを支持する」
彼の仲間宣言にほっとして笑いかけると――部屋からガタンという大きな物音と悲鳴が聞こえた。
「日本中……世界中で……こんなことが……?」
「ふっ、ふ、ふざけてるよなぁっ!? じゃあ何? 俺これからゾンビに囲まれて暮らしてかなきゃいけないのかよ? ははは……」
寺崎くんがこちらに向かってくる。そして私と須藤くんの間を通り抜け出口へ向かおうとしたが、その腕を須藤くんが捻りあげる。
「いっ……何すんだよっ!!」
「大声あげるんじゃねぇ。武器も持たずに……死にてぇのか?」
「武器持たなきゃ死ぬのか? なら俺のお袋は、親父は、妹は弟はどうなるんだ!?」
「…………」
その時須藤くんの顔が苦痛に歪んだ。動揺の色を見せた一瞬の隙をついて寺崎くんが思い切り蹴りあげたのだ。
「……畜生! おい馬鹿、戻ってこい!」
寺崎くんは出口から飛び出して行ってしまった。正常な精神状態ではない。血の気が引いた。早く連れ戻さなきゃ、殺されてしまう。
「捕まえることができなかった……申し訳ない」
もう既に荷物を抱えここを出る準備を整えた佐伯くんが言った。後ろには虚ろな目をした清見さんがいる。きっと彼女も出ていくことがないよう見ていたのだろう。
「くそっ、行くぞ!」
須藤くんが走り出す。佐伯くんも竹刀を片手に後を追う。部屋を出ていく時私に清見さんの手を離さないよう言い残していった。私もモップとスポーツバッグを担ぐと、清見さんに手を差し伸べた。
「大丈夫だから。行こう?」
彼女は青白い顔で頷き、私の手を取った。
消防署を出ると駅へ向かう大通りに向かって走る二人の姿があった。その先には寺崎くんがいるのだろう。私たちも追いつかなきゃ。それにしても、なぜこんなことに? 疑問を胸に残したまま私たちは走り出した。