第十五話 侵入
学生が主な客層だったらしい、飲食店や古着屋の並ぶ大通りを五人で進む。土曜日ゆえかサークル帰りの学生ゾンビが多いように思われる。ゾンビの間を縫うように慎重に切り抜け、密集している時はタイミングを見計らったり、空き缶を投げて道を作った。やはり駅に近づくにつれゾンビの数は多くなるので、一進一退を繰り返す羽目になった。
緊張感は常に漂うが、音さえたてなければ襲われることはない。時間は思ったよりかかっているようだが、このまま順調に進めばあと一時間もしないうちに佐伯くんのアパートに到着できそうだ。そんな時ゾンビが少なくなったのを見計らってかそれまで静かだった清見さんが口を開いた。
「こんなところまで……。あの、もしかしてこれって、同じことが東京中で起こってたりするんですか?」
痛いところを突かれ、ぎくりとした。悪いことをしているわけじゃない(と思う)のに、ドキドキする。そこは今気にしてはいけないところだ。せめて安全な屋内についてからゆっくり説明したい。私がそうだったように、正常な判断力を失う可能性がある。
「……わからない。身の安全を確保してからゆっくり調べようと思っている」
私がなんて答えようか考えを巡らせているうちに佐伯くんが対応してくれた(失礼かもしれないが、須藤くんじゃなくてよかった)。それもグッジョブな対応だ。東京どころか世界中でパンデミック起こしてるみたいだよ! とは正直に言えまい。これが人類の存続を脅かし得る、地球規模の危機的状況であることを二人に悟らせてはいけない。今真実を知ればあの時の私のように無謀な行動に出てしまうだろう。
「でも、そういう可能性もあるんですよね?」
「おいおい、冗談じゃないすよ……じゃあ俺ら家に帰れないわけすか?」
先程見せた強い意志は揺らぎ、二人は明らかに動揺し始めた。この地域をターゲットにした少し大規模な暴動くらいにでも思っていたのだろう。当然と言えば当然か。
「今は黙って生き残ることに専念しろっての。生きて家族に会いてぇんだろ?」
「か、家族が生きてる保証はあるんですか!?」
心配していた事態が起きた。須藤くんなりに清見さんと寺崎くんを思ってのことだと思うが、その挑発的な物言いは火に油を注いでしまったようだった。
これは、危ない。二人が今パニックを起こして暴走したら……。
「大丈夫だ。警察や自衛隊が動いているだろうし、この地域の多くの人は家に立て籠ったり指定された避難所に避難しているようだ」
私は震える清見さんの背中を擦りながら佐伯くんが落ち着いた声で二人をなだめるのを聞いていた。
「おい! 消防署があるぜ」
突然声を張り上げた(もちろん抑え気味ではあるが)須藤くんが指差す方向に目を向けると確かに消防署があった。消防車も救急車もやはり出動中のようでガレージはガランと空いている。
「隊員はお留守みてぇだが……消防署っつったら掃除用具の代わりにもっと何か使えそうなもの色々あるんじゃねえの? よくわかんねぇけどよ」
「そうだな。周囲に奴らの姿はないし……外から様子見をして安全そうだったら邪魔するか。少し休息をとる必要があるだろうしな」
清見さんと寺崎くんの方をちらりと見て佐伯くんが言った。ゾンビの姿も血痕もないことから、もしかしたら中に消防隊員の人がいるかもしれない。そんな期待もあった。須藤くんと佐伯くんに従って私達は消防署へ向けて歩を進めた。
「疲れちゃったしちょっと休憩したいよね?」
「…………」
おどおどしながらも二人に声をかける。清見さんは黙ったまま頷いてくれたが、寺崎くんは上の空のようだ。
消防署の真ん前まで来た。白い建物の一階部分はほぼガレージで占められているが、右端は壁が突き出ており受付のような部屋になっているようだ。大きな硝子の窓から見えるのは誰もいない殺風景な白い部屋――机の上の物が乱雑に散らばっているのは、この緊急事態に隊員たちが急いでここを飛び出したことを物語っている。
「見た感じ中にも死体どころか血痕もないな……」
「入ろうぜ。そいつらも少し休んで落ち着いた方がいいだろ」
「えっと、入り口はその部屋からのとガレージの奥のと二つあるみたいだよ」
喉渇いたから自販機でジュース買おうみたいなノリで不法侵入を企てる私達を第三者の視点で考えてみるとかなりおかしいだろう。授業態度はあれだったが――素行は至って真面目だったはずの学生が一日でこうも変わってしまうなんて。
確めたところどちらも鍵がかかっていることがわかり、私達は部屋の硝子の窓を割って侵入することにした。
「大きな音出ないかな?」
「出ても見える範囲に奴らはいないし大丈夫だろう」
そう話している間にガシャーンと派手な音が鳴り、見ると窓ガラスに大きな穴が空いていた。須藤くんが鉄パイプを持つ手とは逆の手を穴に突っ込み、器用にロックを外す。
「よし開いた。それにしても結構簡単に割れたな。まったく、平和ボケした防災施設だぜ。おい、ガラスの破片に気をつけろよ」
須藤くんが私のお腹くらいの高さの窓枠をひょいと飛び越し、早く来いよと手招きをする。寺崎くんと清見さんに先に行ってもらい、私、最後まで周囲を警戒していた佐伯くんと続く。
部屋は書類が散乱しているだけで特に何もなく、デスクの奥の扉から中へ入ることにした。
先陣を切った須藤くんが急に立ち止まり、不思議に思って彼の体を避けて顔を覗かせた清見さんと寺崎くんが「ひっ……」と小さく声を漏らす。何事かと私と佐伯くんも背伸びをして(これは私だけか)前の様子を伺う。
絶句した。生活感の全くない白い廊下に広がる散り散りになった死体。赤黒い血溜まりと汚れていない白い床が鮮やかなコントラストを作りあげている。
壁に寄りかかる、服ごと食われ穴だらけになった胴体――引きちぎられた足がかろうじてくっついている。消防服は頑丈なはずだが……すごい顎の力だ。須藤くんの足元には生首が転がっており、皮膚を剥がされて真っ赤になった顔の表面に白い目玉が一つ、虚ろな瞳で宙を見上げていた。もう片方は窪みになっている――ほじくりだされたのだろうか。身の毛もよだつ光景に、残虐な場面に早くも順応してきた私も背筋が寒くなった。
「中に入ってきてんのか、奴ら……。外は全然汚れてなかったのによ。おかしくねぇか?」
「向こうにも入り口があったのかもしれませんね……」
須藤くんの疑問に清見さんが冷静に答える。焦りと恐怖で我を失わないか心配だったので、私は少し安心した。
「さて、行くか」
再び歩き始める須藤くんの背中に寺崎くんが抗議したそうな視線を向けていたが、やがて無駄だと思ったのか黙って歩き始めた。私は清見さんと手を取り合って血溜まりを避けながら進む。
「この部屋はっと……」
須藤くんは右手のドアを僅かに開けたと思ったら、すぐに閉めた。そしてこちらを振り返り首を左右に振る。
「……お食事中だ」
その意味がわかったのか清見さんは不快そうに顔をしかめた。どんな時もこんな調子の須藤くんと、曲がったことが何より嫌いそうな真面目な雰囲気をもつ清見さんは少し馬が合わないかもしれない……。こんな危機的状況でも人間関係は色々あるから厄介だ。そんな私は須藤くんに少し苦手意識というか恐怖心を抱いていたわけだが、須藤くんの様子を見ていて、意外と面倒見がよくさっぱりとした人であることに気付いた。ちょっと破天荒なだけだ。第一印象の悪さを乗り越えれば大丈夫なはず、うん。
正面には上り階段があるが、一段一段がバケツをひっくり返したような夥しい量の血液でびっしょりと濡れていたので上がるのは諦めた。
角を曲がると奥に小さな入り口が見えた。ドアが開け放たれており、そこから私達がいるここまで欠損した死体や肉片混じりの血溜まりだらけだ。慣れてきたと思ったが、ゾンビのいる緊張状態から抜け出した冷静な状態のままで見るとやはり気持ち悪い。
「ん?」
須藤くんが声をあげた。何かを見つけたようだ。血溜まりを器用に避けながら廊下を一人すいすいと進み、上半身だけの男の死体の側に屈み込むとそれを拾い上げた。柄の長い先に大きな刃がついたそれは――斧のようだった。小学校の時の社会科見学で見たことがある。災害時閉ざされた扉などの障害物を突破する時に使う、万能斧というものだ。
「やーりぃ。血や脂でツルツル滑るしよ、もうこの鉄パイプとはおさらばしてぇなって思ってたんだ。」
持ち主の死体の側で嬉しそうに遺品を掲げる姿は不謹慎さが否めないが、確かに大きな収穫だ。
「……ちょ、須藤さんっ後ろ!」
寺崎くんが叫ぶ。斧の持ち主が足のない体を引き摺り床を這ってきていた。貪欲な目をして須藤くんの足にかじりつこうとする。
ドスッ
鈍い音が響いた。何の躊躇もなしに須藤くんが思い切り振り上げた鉄パイプをその後頭部に突き刺したのだ。
「トレード成立だな」
そう言ってニヤリと笑う須藤くんが恐ろしく思えた。朝まではあんなにあれを殺すのを躊躇っていたのに、武器を握る腕が震えていたのに。佐伯くんにしても、今のこの世界に蔓延する狂気は人をここまで変えてしまうのか。どんな凄惨な場面にも冷静でいられるようになった私にも言えることだが。しかしこれは生き残るのに大切なことであるのは間違いない。
「あ、そのパイプ誰か使うか? この斧よりかは軽いと思うぜ」
「いや、いいです……」
寺崎くんがぶるぶると首を振る。
「……そこの部屋はどうだ、須藤」
凍りついてしまった空気を溶かすように穏やかな口調で、佐伯くんが須藤くんの近くのドアを指差す。
「ああ、ここね」
須藤くんが強力な武器を手に入れ強気になったのか、豪快に扉を開く。ドキドキしてしまったが中は会議室のようで死体もゾンビもないようだった。私達はそこで少し休憩をとることにした。