第十二話 遠回り
「須藤くんっ……須藤くんってば!」
その場に固まってしまった彼の腕を掴み引っ張って逃げようとするが彼は一歩も動こうとしない。ゾンビはすぐそこまで近づいてきている。そのゾンビの肩越しにこちらに向かって駆け出す佐伯くんが見える。だが、間に合いそうもない。
須藤くんを置いて自分だけ逃げるなんて考えは思い浮かばなかった。一晩あけてまた再び出会ったこの人の姿をした化け物に、私も恐怖していた。もしかすると昨日以上に。気づけば須藤くんの腕を痛いくらい強く掴んでいた。逞しい腕。あんな化け物でも殴れば意外とどうにかなるのかな、などと思い始めたとき、ふと須藤くんの腕が不自然に震えているのに気付いた。
「須藤くん?」
「……ふふふ、ははははっ!」
突然笑い出した彼に一瞬呆気にとられたのと同時。彼は私の手をぱっと払い、次の瞬間、鈍い音と共に目の前で今まさに私たちに襲いかかろうとしていたゾンビが大きく仰け反った。
「…………!」
私も、ゾンビを背後から攻撃しようと竹刀を大きく振りかざしていた佐伯くんも、何が起きたのかすぐに把握できないでいた。
ゾンビが後ろ向きに派手に転倒する。顎の部分を鉄パイプで強く突かれたようだ。自分の歯で噛みきった舌がベロンと垂れ下がっていたが、それでもなお頭をもたげようとするゾンビの眉間に突如鉄の棒が生えた。
振り返ると、口を大きく歪ませてぎこちなく笑う須藤くんがいた。ゾンビの頭に打ち込まれた鉄パイプをズルリと引き抜く。
私達の目の前の通りには三体のゾンビが見るも無残な姿で転がっていた。よく見ると髪を染め流行モノの服に身を包んだそれらは、この大学の元学生のようだ。露出した腕や足には紫色に変色した生々しい噛み傷がいくつもあり、肉がえぐれ骨が見えている箇所もあった。須藤くんが鉄パイプで撲殺したゾンビの頭部から漏れ出た脳味噌を見て私は吐きそうになった。血も骨も日常生活で見かけることはあるが、脳味噌は動物のものでも滅多にないだろう。カニみそは……あれはみそといっても脳味噌ではないし、今はこんなこと考えている場合じゃない。
死体の細部から目をそらし、全体を眺める。朝日に照らされたそれらは、かつては私たちと同じ普通の人間であったことを主張していた。
「くっくっ……殺っちまった。あーあ、殺っちまったよ。おっかしいなぁ……今になって、か。あっはっはっ!」
先ほどから狂ったように笑い続ける須藤くんをどうすればいいのか対応に困り、佐伯くんと顔を見合わせる。
「須藤くん……」
「おい須藤、大丈夫か?」
私達の声が届いたのか、須藤くんは堪えるように笑いを止め、同時に顔から表情が消えた。
「あんたらのいった通りだったな。こいつらは化け物だ」
「……気が触れたのかと思ったぞ」
どうやら正気を取り戻したらしい須藤くんに安心したのかゆっくりした足取りで近付いてくる佐伯くんの肩越しに、何かが見えた気がした。
「……! ねぇ、ヤバイよ! いっぱいこっちに向かってきてるよ……!」
二人が慌てて私の指差す方向を見る。通りの奥、横転した車を避けながらゾンビの群れが迫り来ていた。
「幸い駅とは逆方面だ、行くぞ!」
「うん!」
いつの間にか鞄を拾いあげ準備を整えていた佐伯くんに従って私はゾンビの群れとは反対方向に走り出した。しかしすぐにもうひとつの足音が追ってこないのに気づく。
「須藤くん?」
須藤くんは大学の門の前に立ち尽くしていた。佐伯くんも足を止め、足早に引き返す。
「考えるのは後だ。今はここから離れよう」
「早く行け」
「……え?」
こんなことしてる場合じゃないのに。さっき間近でみたゾンビの姿を思いだし気持ちが焦る。
「どうしたの、行こうよ」
「言ったろ、別にあんたらと行動すると決めたわけじゃない。俺はあっちに行く」
須藤くんが指差す先はゾンビの群れ――ざっと十体はいるだろう。何を言っているのかわからなくなって、言葉が出てこない。
「何を言っているんだ、死ぬぞ」
「ああ。色々世話になったな。じゃあな」
淡々とした別れの言葉もそこそこに、須藤くんはゾンビの群れに向かって走り出した。手には鉄パイプが力強く握られている。薄情にも思えたが、私も佐伯くんも彼を追うことはしなかった。もし彼が自らすすんで死ぬ気なら、明らかに追っても無駄だった。それほど須藤くんは迷いなく駆け出しており、瞬く間に群れの先頭を歩くゾンビと須藤くんの姿が重なった。
やめて!
心が痛々しく叫んだ。しかし次の瞬間倒れたのはゾンビだった。続けて横に大きく薙ぎ払われた鉄パイプがもう一体のゾンビにヒットし、転倒したゾンビの頭が次の一打で窪んだ。一打一打に力を大きく磨り減らすような刹那的な戦い方だった。
どうやら彼はすすんで化け物に命を捧げる気はないらしい。それを察してか佐伯くんが竹刀を構えた。
「よくわからないが、助太刀した方がよさそうだ」
「そ、そうだね」
すごい戦いぶりではあるが、須藤くんは戦闘民族でも棒術のプロというわけでもない。攻撃の間に隙が多かった。そして少し離れて歩いていたゾンビたちが密集してきている。どう考えても一人で切り抜けられる状況ではない。
あと数メートルというところまで近付いてきたそのとき、前のめりになって接近してきたゾンビが鉄パイプの射程距離をくぐり抜け、須藤くんの両の肩を掴んだ。
「ぐっ! 離せ、薄汚ねぇ化け物が!」
須藤くんの顔が痛みに引きつる。手から力が抜け鉄パイプがコンクリートの地面に転がった。ミシミシと音が聞こえてきそうなくらいがっちりと捕まれ、体を反らして避けようとする須藤くんの首にゾンビの恐ろしい顔が迫る。
ゾンビの額を押さえつける須藤くんの腕が曲がり、押し負けそうになったとき、佐伯くんの竹刀がゾンビの頭を打った。ゾンビが大きくのけ反り、同時に肩を押さえつけていた力が一気に抜ける。その隙を逃すものかと須藤くんがゾンビの顔面を思い切り殴る。首がグリンと回転し、そのままゾンビは転倒した。
「今だ、逃げるぞ!」
戦闘の音につられ数体のゾンビが迫ってきていた。今だ、と先ほどから握りしめていた空き缶を、ゾンビの群れの奥目掛けて投げる。その軽やかな音にゾンビの進行方向が変わったのを確認し、ほっと息が漏れた。
道路が広かったのは幸いだった。私たちはゾンビの群れを避けて先へ進んだ。
*
通りに沿って並ぶ商店はいやに静かだ。そういえば、昨日まで耳がじんじんするほど鳴っていたサイレンや銃の音は聞こえない。人の気配はないが、地面には赤黒い染みがあちこちに広がり、血塗られた硝子の自動ドアの向こうには複数の影が動いていた。
「くそっ、馬鹿みてぇな力しやがって」
回りにゾンビの姿が見えない位置まで来たとき、押さえつけられ痛めた肩を擦りながら須藤くんが呟いた。
「あ、須藤くん……これ」
立ち去るときに拾ってきた鉄パイプを差し出すと、少し戸惑ったような表情を浮かべながらも乱暴にひったくられた。怖い人だ。
「なぜあんなことをしたんだ?」
「……殺しの味を徹底的に身体に叩き込んだのさ。もう躊躇することがないようにな」
「だからといって……死ぬところだったぞ」
「うるせぇな。死んだら死んだだ。あんたらは自分の命のことだけ考えてな。他人のことにいちいち構ってるようじゃ早死にするぜ」
「ほっとけるわけないじゃ……っんが!」
嘲笑の混じったその言葉に反発を覚えて思わず大声をあげてしまい、佐伯くんの手に口をふさがれる。変な声をあげてしまったのが恥ずかしい。
「すまない、伊東さん。……それでだが、少し先に進めば普段人の少ない住宅街がある。とりあえずそこまで進もう。須藤もいいな?」
「…………」
須藤くんは複雑な顔をしているが、異論はないようだ。とはいえまた何をしでかすかわからない。怖い人だ。
*
駅から離れたこの辺りは民家が多い。あれから須藤くんもおとなしくしているし、あたりを見渡してもゾンビの姿は見られないので、とりあえず一安心といったところか。
「……もう小声なら話してもいいよね。でさ、佐伯くんの家へはどうやって行くの?」
「駅の向こうの住宅街だ……今は目的地と逆方向に歩いてることになる。別の駅方面へつづく道を見つけて回り道するしかないな」
「はっ、駅っつったら常に人がわんさか集まってんだろーが。今頃ゾンビの巣窟なんじゃねぇの?」
「ああ、だから駅に近付くのはなるべく避けて周囲を大きく回りながら向かおうと思う。そう考えるとむしろこっちへきたのは好都合だったかもしれないな」
「ふん、正直に迷惑だって言ってくれて構わないぜ」
微妙な空気が広がる。その時何気なく二階建ての古い造りの家屋を見上げていてはっとした。窓から老夫婦がこちらを見ている。お婆さんが心配そうな顔でお爺さんに何やら話しかけているようだ。
そうだ……皆ゾンビにやられている訳じゃあない。テレビやインターネットで情報を得た多くの人がひっそりと家に閉じこもって隠れているのかもしれない。
希望に胸を膨らませていると、頭上からガラガラとスライド式の窓を開く音が聞こえた。さっきのお婆さんたちだ。
「あなたたち、そこは危ないよっ! ここは安全だから上がってらっしゃい!」
お婆さんが私達に向けて声を張り上げていた。一階に視線を移すと、お爺さんがドアを開けて手招きしていた。
「……これはヤバイんじゃねぇの」
須藤くんがぼそっと呟いた。案の定、声に釣られてゾンビが近付いてきているのが通りの奥に見えた。
「ほら、早くおいで!」
「ご親切に感謝します! でも俺達は大丈夫です! それよりも、声を出さないでください! 奴らは音に反応するんです!」
佐伯くんがお婆さんに向けて叫んだ。お婆さんは声をあげることの危険性を理解したようで慌てて口を手で押さえた。
「君たち、本当に大丈夫なのかい?」
お爺さんが心配そうに尋ねた。私は危険を冒してまで私達を助けようとしてくれた優しい夫婦に胸が熱くなりつつも、早く施錠して二階に上がるよう伝えた。
「おい、伊東……っていったっけ。缶をよこしな」
「え、あ、はい」
言われた通り缶を渡すと、さっと受け取った須藤くんは迫りくるゾンビたちの真横に向けて空き缶を投げつけた。空き缶は綺麗な弧を描いてコンクリートの道路に着地した。ゾンビは地面を転がる甲高い音に興味を引かれ、方向を変えた。
「もう大丈夫だろう」
佐伯くんがほっと溜め息をつく。私達は二階の老夫婦に手を振って別れを告げ、再び歩き始めた。あのお爺さんとお婆さんが無事に生き残れますように。心からそう思った。
「……おい」
再び歩き出してしばらく経ったとき、後ろを歩いていた須藤くんが呼びとめた。何事かと歩みを止め振り返る。眉間にしわを寄せ不機嫌極まりない顔の須藤くんにあ、やばいかもと佐伯くんと顔を見合わせる。よほど言いづらいことなのか少し押し黙っていたが観念したように口を開いた。
「悪かったよ、危険な目にあわせて」
「ええっ」
驚きから間抜けな声が漏れてしまった。佐伯くんも呆気にとられてぽかんとしている。
「……それだけだ! ったく、行くぞ!」
少し照れくさそうに目をそらす須藤くんの姿を物珍しげに眺めていると、よほど恥ずかしかったのか大股で私たちを追い越すと荒々しく言い放った。そんなに怖い人じゃないのかもしれない――何にしてもこの二人の存在は心強く感じた。