番外編 佐伯義崇
見慣れた剣道部の部室が全く別の空間に感じられる。それは、ここにいるのがいつもの部員たちではないからか。それとも、この非現実的な状況がそう見せているのか。
俺は極度の緊張で疲労しきった身体を壁にもたれかけ、立てた片膝の上で腕を組み、目の前の二人を観察していた。
「湿気てやがるぜ……。おい、これもしかして賞味期限切れてないだろうな?」
そう言って眉間に皺を寄せながら菓子箱の裏を覗くのはさっき出会ったばかりの須藤英雄という男子学生。派手な容貌をしており軽いノリでよく喋る、普段あまりつるむことのないタイプだ。言葉づかいや態度が荒々しく正直言って信用できるかどうかはまだ怪しいところだ。
「大丈夫だよ、持ってくる時確認したから」
困った笑顔で須藤に応じるのは同じく今日出会ったばかりの伊東皐月さん。印象深い目をした娘だ。表情や動作がどこか小動物のようで、彼女の挙動を見ているとこのような状況にあるにも関わらずどうも微笑ましく思えてしまう。
彼女は恐ろしい思いをたくさんしたにも関わらず、人を気遣う気持ちを忘れない。感情的に物事を考え行動してしまうところもあるが、素直で誰とでもうまくやっていけそうな柔軟性がある。彼女とならこれから長い間行動を共にしようと問題ない。
これから徒歩で避難所へ向かう。距離的にはそんな遠くもないが一筋縄ではいかないだろう。そしてそれまでに家族の安否が確認できるか。避難所へ着くまで家族とこんなこと彼女の前ではとても言えないが、家族が生きているかどうかは正直疑問だ。何せよ世界中がこの大学のような状況なのだ。自分の大切な人達が全員生き残っている確率は至極低いだろう。俺の海外にいる両親も、出ていった姉も、今頃食い殺されているかもしれない。
無論そんなことはあってほしくない。しかし……どうしようもないのだ。家族が生きているかどうか。この考え始めたら止むことのない負の思考を捨ててしまうことが今必要なことだ。とにかく今は生き延びて、家族へとつながる僅かなチャンスを見つけだすことが最善であるはずだ。
……世界は一体どうなってしまったのか。ここに来るまでそんなこと考える余裕もなかったし、考えたところで所詮は学生の憶測――答えが見つかる訳がないことは十分わかっているが、真実への手掛かりは俺の周りで起きた出来事にも隠されているかもしれない。重く鈍った頭で記憶の糸を手繰り寄せる。
――そうだ、この異常な騒動が起きたとき、俺は……
*
目の前の相手の姿をじっと見据える。相手の剣先は小刻みに揺れ、俺の面に一本叩きこもうと機会を伺っていた。触れる剣先を軽くいなし、すっと軽く息を吸う。その時、相手の気が大きく乱れ、迷いが見えた。……今だ。
大きく一歩を踏み出すと、予想通り相手は前に伸ばした竹刀を引きながら身を後退させる素振りを見せる。すかさず俺は相手の竹刀に打ち込み、そのまま押し出すように掛け声と共に面にもう一打を放った。
「……一本!」
練習が終わり、汗まみれの剣道部員たちは続々と部室へ向かっていた。ロッカーの前、中に熱がこもった防具を外してタオルで火照った手足を撫で付ける。
「本当に流石だよ、山城さんからまた一本取るなんてさ。あの人五段だぜ?」
面を布で磨きながら話しかけてきたのは、同学年の友人、河辺だ。
「山城さんと一戦交える時は本当に集中力を使うんだ。ほんの一瞬の間の取り方で勝負が決まる。今度はわからないさ」
「……とはいってもお前絶対五段以上の実力あるよなー。何で受審条件なんてあるのかねぇ」
剣道の段位の取得審査を受けるには、今持っている段位に合格した時から決められた一定の年数を経ていることが条件だ。俺の場合次の五段の審査を受けるにはあと二年修行を積む必要がある。
「段位は単なる実力を測る物差しじゃあない。経験だとか、成熟した精神の強さだとか人間としてのあり方を問われるんだ」
「へーい、へい。やっぱ大先生の言うことは違うねえ。中高帰宅部、大学デビューで剣道始めた俺は何もわかっていませんぜ」
おどけた口調で河辺が言った。小学校に上がる前から竹刀を握ってきた俺と違い、大学から剣道を始めた河辺は、休憩中こそこんな調子だが、いざ練習が始まると別人のような真っ直ぐな目で真剣に竹刀を振るっているのを俺は知っている。
「佐伯」
着替え終わり、道具を担いで河辺と廊下に出た俺を師範が呼んだ。
「おっ、師範のあの顔はいい知らせかもよー。俺、今日バイトだから先急ぐぜ! またな」
「ああ」
河辺と別れ師範と向き合う。この人は月に一回この剣道部に指導に来ている錬士の称号を持つ大先生だ。嘗て数々の大きな大会で名を轟かせたという師範の顔は深い皺が刻まれ威厳があり、身体中から常に隙を見せない張りつめた気を放っている。もし今俺がここで先生に切りかかったとしてもそれより速く切り返されてしまうだろう。
「何のご用ですか、師範」
「先月の関東学生剣道選手権大会、首位で全国大会出場を決めたそうだな」
五月に開催された学生の地区大会を俺は一位で通過していた。そして七月には全国大会が控えている。
「……よくやったな」
「ありがとうございます」
初めて聞く師範からの誉め言葉だった。師範の表情はいつもの厳めしさが抜けていなかったが、目は優しく細められていた。
「お前なら卒業までに全日本剣道選手権大会でいい成績を残せるかもしれん」
「……期待に添えるよう精進します」
課題を終わらせるためPCルームへ向かう俺の頭の中を師範の言葉が何度も木霊する。全日本剣道選手権大会。今俺が目指せる一番大きな大会であり、幼少の頃からずっと憧れてきた場だ。足早に目的の校舎を目指しながら自然と口許が緩むのを感じた。
門の付近まで来たとき、外の大通りをパトカーが数台連なって走り去っていくのが目に入った。パトカーのサイレンに混じって救急車のそれも聞き取ることができる。――何か近くで事故でもあったのだろうか。しかし野次馬根性が沸くことはなく、俺は歩みを止めることはしなかった。
思えば、あれは異変の始まりだったのかもしれない。しかしあの時の俺はそんなことに気を止める神経の細かさなど持ち合わせていなかった。まさか刻一刻と世界が破滅に向かっているだなんて考えもつかなかった。
目的の六号館に着き、誰もいない教室が並ぶ静かな廊下を渡り、PCルームの厚い金属の扉を開いた。
――それから間もなく外の騒がしさに気付き、彼女と出会ったわけだが。
*
再び意識が今いる剣道部室に戻る。今日一日を思い返してもやはり何の手がかりもつかめなかった。唯一わかることといえば、俺が竹刀を振るっていた時には既に悪夢は始まっていたということくらいか。
いや、悪夢――夢なんかじゃない。俺は、人を殺してしまった。人間性を失っていても、化け物のようでも、あれは人だった。幼い頃から毎日のように厳しい練習を積んできた――全ては優れた精神と技術を併せ持つ理想の剣道を完成させるため。それなのに。その剣で人を殺めてしまった。
河辺も師範もすでにこの世にいないかもしれない。そしてもう日常に戻ることはないだろう。俺の直感がそう告げている。俺の剣道は、もしかしたらこの運命のためにあったのかもしれない。それならば、俺はこの地獄を切り抜けるために剣を振ろう。もう後悔はしない。生き延びる。生き延びてみせる。俺は密かに思いを固めた。