夫の名で十年、手紙を書いてきた妻が出ていったら、彼は詫び状の一通すら書けなくなった
世の中には、誰が書いたのか分からない手紙がある。差出人の名前のところに、書いた本人の名前は、ない。
ノエラは十年、その種類の手紙だった。
辺境伯ローガンの妻。それが表向きの彼女で、本当の仕事は別にあった。夫の名前で、家中の手紙を書くことだ。
ローガンは武骨な男で、文章も人付き合いも苦手だった。だから同盟相手への挨拶も、商談の詫び状も、社交界の誘いの返事も、ぜんぶノエラが夫に成り代わって書いた。受け取る相手の気性を読んで、機嫌をそこねない一文を選ぶ。怒りっぽいレントゲル男爵には遠回しに。無口なボーデ卿には短く。
たったそれだけで、辺境伯家の縁は十年ほどけずに保たれてきた。誰にも気づかれないまま。夫にさえ。
ローガンは、書き上がった手紙にざっと目を通すと、いつも同じことを言った。
「……まあ、こんなものだろう」
「その『こんなもの』で、北の伯爵は機嫌を直すんですわ」
「そうか」
彼は、それ以上は読まなかった。便箋に自分の名前が並んでいることにも、たぶん、慣れきっていた。
その日も、ノエラは書斎で詫び状を書いていた。北の伯爵家との、馬の取引が流れかけている件の。あと一文、足せば丸く収まる。そこまで来たとき、戸口にローガンが立った。
後ろに薄紅色のドレスの女がいる。セリア。最近の夜会で知り合ったという、よく笑う口の達者な令嬢だった。
ローガンはノエラの顔を見ずに言った。
「ノエラ。お前とは、離縁する」
ペン先が、止まった。
「……理由を、伺ってもよろしいですか」
「セリアと、一緒になる」ローガンは早口だった。「お前は、なんというか……地味すぎる。辺境伯の妻には、もっと華やかな女がいい」
セリアが、ノエラの机をちらりと見て、くすりと笑った。
「あら、奥様。まだ殿方の手紙を代筆なさってたの。……みっともない。殿方がご自分の手紙も書けないみたいで、ローガン様がお気の毒ですわ」
ローガンが、決まり悪そうに咳をした。
「……手紙くらい、自分で書ける。お前にやらせていたのは、手間賃のかわりだ。もう、要らん」
言い返す言葉は、いくらでも浮かんだ。あなたの縁を、十年、誰が繋いできたと思っているのか。……まったく、いい気なものだ。
けれどノエラは、言わなかった。いちばん効く手紙が、たいてい出さない手紙であることを、彼女は誰より知っていた。
「……わかりました」
立ち上がると、机の端で、書きかけの詫び状がまだ乾いていなかった。あと一文、足せば、丸く収まるところだった。
ノエラは、その一文を書かずに、書斎を出た。
もう、彼女の手紙では、ないのだから。
屋敷を出て、三日が過ぎた。
持ち出せたのは、文箱ひとつ。離縁された妻に、行く先はなかった。実家はとうに没落して人手に渡っている。お金は、あっという間に尽きた。
雨が降り出して、街道の石が冷たくて、ノエラは轍のそばにしゃがみ込んだ。
——ここで終わるのは、ちょっと、格好がつかないな。それに、最後にもう一度あったかいものが食べたかった。
こんなときまで食べ物のことを考えている自分が、われながら少しおかしい。そんなことを、ぼんやり思っていた。すると、頭の上に、ふいに雨が当たらなくなった。見上げると、大きな手が外套を広げて、彼女の上にかざしていた。
「……生きてるか」
無愛想な声だった。
「生きていますわ。……たぶん」
「たぶん、で歩けるか」
「歩けますわ。……あの、どちら様?」
「ギル」男はそれだけ言って、ノエラの腕を引いた。「先の駅逓の者だ」
「えきてい」
「街道沿いの宿場だ。人と馬と手紙を、次の宿場へ継ぐ。雨の日は、客より行き倒れが多い」
「……わたし、行き倒れに数えられてしまうのかしら?」
「今日の一人目だ」
駅逓は、街道の曲がり角にぽつんと建っていた。馬小屋と、土間と、煤けた竈がひとつ。
ギルは奥から乾いた服を放ってよこした。
「勝手に着ろ。乾いてる」
「ありがとうございます。……えっと、お代は、いかほど?」
「要らん」
「でも、ただで泊めていただくのは……」
「濡れた人間から銭を取る趣味はない」
彼は背を向けて、竈に鍋をかけた。湯気が立つ。麦の匂いが土間に広がって、ノエラのお腹が、正直に鳴った。
ギルの肩が、少しだけ動いた。
「今、笑いましたわね?」
「笑ってない」
「笑いましたわよね。聞かなかったことに、してくださいまし」
「無理だな」
硬いパンと、具のない麦の粥が出てきた。お世辞にも上等じゃない。でも湯気だけは一人前に立っていて、ちゃんと温かかった。
ノエラはパンをちぎって、粥に浸した。湯気がふわりと顔に上ってきて、それだけで泣きそうになった。三日ぶりのごはんだ。泣くもんか。かわりに、口のほうが勝手に動いた。
「……おいしい」
「そんな上等なもんじゃない」
「本当に、おいしいんですもの。世界一ですわ」
ギルは何も言わなかった。けれど、二杯目を、黙ってよそってくれた。
「……ありがとうございます。お優しいのね、ギルさん」
「黙って食え」
翌朝、出ていくつもりで土間に立っていたら、ギルが馬の水桶を運びながら言った。
「どこ行くんだ」
「どこ、でしょうねえ。当ては、ございませんけれど」
「……人手は、足りてない」
「それは……?」
「水汲みと、掃除と、客あしらい。できるか」
「できますわ! 三つとも、たぶん!」
「たぶんが多いぞ、お前」
こうして、ノエラは駅逓に居着いた。
馬に水をやり、土間を掃き、通りかかる旅人に茶を出す。働くのは、嫌いじゃなかった。手を動かしていると、よけいなことを考えずに済む。なにより、夜には麦粥が待っている。
——我ながら、現金なものだ。
人に話しかけるのは、昔から得意だった。手紙の相手の顔を、ずっと想像してきたからかもしれない。
「お客様、北へ? でしたら、峠の茶屋は閉まっておりますわ。先日の雨で、道が崩れて」
「お、姉ちゃん詳しいな」
「ここ、噂の継ぎ場ですもの。お手紙より早く、噂が走るんです」
旅人が笑って、銅貨を一枚多く置いていく。
ギルが、竈の前でぼそりと言った。
「お前、客あしらいが上手いな」
「ふふ、そうでしょう?」
「銭勘定は、下手そうだが」
「どうして分かりましたの!?」
「釣り、さっき間違えてた」
「……次から、ちゃんといたします」
その日からギルは、ノエラが釣り銭を数えるたび、横でちらりと手元を見るようになった。
「合ってるか」
「合っていますわ! ……たぶん」
「たぶんは、抜け」
「はぁい」
なんだかんだ言って、教えてくれるのだ。
「ギルさん、この宿場には、お名前がございますの?」
「ない」
「えっ。では、つけましょうよ。『ギルの店』とか」
「……ひねりがない」
「ちゃんと考えてくださってるじゃ、ありませんか」
ギルは、答えなかった。けれど、満更でもなさそうだった。
ある昼、馬を換えにきた商人が、宿賃のことで大声を出した。前に泊まった分が高すぎる、と。
ギルは帳面を出そうとして、口を真一文字に結んだ。言葉で言い返すのが、苦手な人なのだ。
ノエラは、茶を一杯、商人の前にそっと置いた。
「お疲れでしょう。峠が崩れて、遠回りでしたでしょう?」
「……まあ、な」
「宿賃は、前の分とご一緒にしておきますわ。今日はもう、お座りになって。お茶、熱いうちにどうぞ」
商人は、毒気を抜かれた顔で茶を飲んで、結局そのまま払って出ていった。
ギルが、ノエラを見ていた。
「お前、喧嘩を、茶で消したな」
「言い合いより、お茶のほうが安いですもの」
彼は何か言いかけて、やめて、竈の灰をならした。けれど、その晩の粥には、いつもより麦が多かった。
夜は、長かった。
ギルは無口で、ノエラはよく喋った。彼は聞いているのかわからない顔で、馬具を繕っている。でも、ノエラが黙ると、ちらりとこっちを見る。
ある晩、彼女はつい訊いてしまった。
「ギルさんは、ずっとお一人で?」
針を動かす手が、止まった。
「……女房がいた。三年前に、病で」
「……そうですか」
「気の利いた女だった。俺は口下手だから、あいつが代わりに喋ってくれてた」
「似ていますわ。わたしも、人の代わりにお喋りするの、得意なんです」
「お前は、自分の分も喋ってるだろ」
「あら、ばれました?」
ギルは答えなかった。けれど、馬具を繕う手が、少しのあいだ止まっていた。
「お前は、よく喋るな」彼はぽつりと言った。「……うるさくは、ない」
それはきっと、彼にできる精一杯の褒め言葉だった。ノエラの胸の奥で、ぽつ、と何かが落ちた。インクが紙に滲むみたいに、静かに広がっていく。
次の朝、土間の隅に、ノエラのほどけかけた靴が揃えて置いてあった。底が、新しい革で繕われていた。誰がやったとも、ギルは言わなかった。
「ギルさん、この靴……」
「知らん」
「ありがとうございます」
「知らんと言ってるだろ」
ノエラは、こみあげる笑いをのみこんだ。口より先に、手が動いてしまう人なのだ。……知らないふりが、へたくそすぎる。
耳が、少しだけ赤かった。
駅逓に居着いて、季節がひとつ移った。
北から来た伝令が、面白い話だと言って、こんな噂を置いていった。
アーデン辺境伯——ノエラが十年、嫁いでいた家だ——が、近頃あちこちで揉めているという。
「あそこの当主、手紙がひどいらしくてな。同盟相手に出した詫び状が、かえって相手を怒らせたとさ。北の伯爵家との取引も流れて……迎えたばかりの奥方とも、もう揉めてるらしい」
ノエラは、茶を注ぐ手を止めなかった。止めたら、気づかれる。
あと一文。あの日、書斎の机で乾いていた、書きかけの詫び状。あの、あと一文がなかっただけで、縁は、ほどけたのだ。
——ざまあみろ、とは、思わなかった。ただ、ちょっとしゃくだった。十年、あの家の縁をつないできたのが自分だったと、誰も知らない。知らないまま、ほどけていく。
……まあ、いい。知らないなら、それでいい。今は、目の前のお茶のほうが大事だ。
「おい」
ギルが、いつのまにか隣に立っていた。
「茶、こぼれてる」
「あら、本当だ」
「手、止まってたぞ。珍しいな、お前が黙るの」
「ふふ。……ちょっと、昔の知り合いの噂で」
「嫌な知り合いか」
「ええ。とても」
「なら、忘れろ。茶でも飲め」
彼は、ノエラの分の茶を、もう一杯注いでくれた。不器用な手つきで。
ギルは、言葉が少ない代わりに、お茶を注ぐのが上手だった。
その晩、駅逓に泊まった老いた行商人が、困った顔で言った。
「姉さん、字ぃ書けるかい。倅に手紙を出したいんだが、おれは名前しか書けねえ」
「書けますわ」
言ってしまってから、ノエラはギルの視線に気づいた。
彼女は羽根ペンを借りて、行商人の言葉を聞いた。倅と喧嘩別れしたこと。本当は会いたいこと。でも、素直には言えないこと。
「では、ふつうに『達者でやれ』にしましょうか」
「……それで、伝わるかね」
「もう一行、足しますわね」
ノエラは「達者でやれ」の下に、こう書いた。
『お前の好きだった干し杏、今年もよく実った。』
行商人がそれを読んで、洟をすすった。
「……なんで、わかるんだ」
「干し杏のお話をなさるとき、声が、優しかったので」
ノエラがペンを走らせる手元を、ギルが、じっと見ていた。
行商人が寝てから、ギルが竈の灰をいじりながら言った。
「お前、ただの行き倒れじゃないな」
「……はい」
「貴族の出か」
「元、です。元・辺境伯の、妻でした。十年、夫の名で手紙を書いて……要らないと、捨てられました」
長い沈黙が、土間に積もった。
「そうか」
ギルは、それだけ言った。問い詰めもしない。憐れみもしない。
「字が書けるなら、ここの帳面も頼めるな。助かる」
「……それ、だけですか」
「それだけだ。お前が誰だったかは、どうでもいい。今ここで、よく喋って、よく食う。それでいい」
ノエラは、ちょっと笑ってしまった。泣きそうな顔のまま。
「わたし、よく食べますの。ご覚悟なさってね」
「知ってる」
ローガンの手紙が届いたのは、それから半月後だった。
駅逓には、宛先の曖昧な手紙も流れてくる。それを誰に渡すか見当をつけるのも、継ぎ場の仕事だ。
「アーデン家を出た女へ」とだけ書かれた、皺だらけの一通。継ぎ場の主たちが順に首をかしげて、最後に——字の書ける女がいると噂のこの宿場へ、回してきたものだった。
ギルが「お前宛かもしれん」と、黙って差し出した。
封を切ると、見慣れない字が並んでいた。下手な字だった。何度も消した跡があって、インクがにじんで、行が斜めに落ちている。
書いてあったのは、用件ではなかった。
『北の件は、流れた。お前なら、なんと書いた。』
それだけだった。詫びの言葉は、どこにもなかった。最後まで、この人は、謝るのが下手だった。
でも、消し跡だらけのその字を見て、ノエラは、わかってしまった。
ローガンは、生まれて初めて、自分で一通を書いたのだ。何度も書き損じて、誰の手も借りずに。十年、妻が何をしていたのかを、たぶん今ごろ、知ったのだ。
「……元夫から?」ギルが訊いた。
「はい。下手な字で、ご用件だけ。相変わらずですわ」
「なんて返す」
「短く、いたします。長いお手紙は、もう書きたくないので」
ノエラは、返事を書いた。
十年の代筆で覚えたことが、ひとつある。いちばん効く手紙は、たいてい、いちばん短い。
『あなたなら、もう書けます。』
それだけ。封をして、北へ向かう伝令に託した。
それで、終わりにした。憎んでも、戻ってもいない。ただ、彼女の手は、もう彼のものではない。
封蝋が固まるのを待っていたら、ギルが、土間の向こうから言った。
「なあ」
「はい」
「帳面の話な。……あれ、嘘だ」
「え?」
「字が書けるから、置くんじゃない」彼は、ノエラを見なかった。竈の火を見ていた。「お前が……ここにいるかどうかだ。字のことは、どうでもいい」
ぽつ、と封蝋が落ちた。
ノエラは十年、誰かの名前で手紙を書いてきた。誰かの呼吸を、先回りして。でも、この人は、彼女の名前を呼んだ。腕でも、肩書きでもなく。彼女を。
「……ギルさん」
「なんだ」
「わたし、ここのこと、まだ何にも知らないんですもの。あなたの好きな食べ物も」
「干し杏」
「あら、即答」
「お前が、さっき書いてただろ」
「あら。読んでらしたのね」
「……ほかには。好きなもの」
「ない」
「ぜったい嘘ですわ。一個くらい、ありますでしょう?」
「お前が静かにしてる時間」
「それ、好きなものに入りますの?」
「いちばん上だ」
ノエラが、ふきだした。つられたように、ギルの口の端も、ほんの少しだけ上がった。
ノエラは、新しい紙を一枚引き寄せた。今度は、誰の名前でもない。自分のための覚え書きを、いちばん上に書く。
——干し杏。三日目のパン。よく笑う、無口な人。
最後に、その紙のすみへ、彼女は自分の名前を書いた。ノエラ、と。
十年ぶりの、名前の残る手紙だった。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます! 相川ことねです。
白状すると、わたし、書いているうちにギルさんのことが好きになってしまいました。口は重いのに、お茶を注ぐのだけは妙に上手い人。靴を黙って直しておいて「知らん」と言い張る人。ずるくないですか? ずるいです。あんなの、惚れます。
あと、麦粥の場面を書いていたら自分のお腹が鳴ってきて、夜中なのに台所に立ちました。三日ぶりのごはんって、具がなくたって世界一なんですよね。ノエラの「世界一」は、半分くらいわたしの本音です。
今回のお話で、ひとつだけ意地を張ったことがあります。
ノエラがギルさんに惹かれたのは、「字が書けるから」ではありません。ギルさんは最後まで、彼女の腕なんてどうでもいいと言い切る。雨の中で震えていた「今日の一人目」を、放っておけなかっただけ。——才能を見込まれて迎えられるお話も大好物なんですけど、たまには、腕でも肩書きでもなく、その人がただそこにいること。それで好きになってもらいたかったんです。ノエラ、よかったね。
十年、人の名前で手紙を書いてきた子が、いちばん最後に、自分の名前を書く。そこまで連れていけて、書いていたわたしがいちばんホッとしました。たくさん食べな、ノエラ。釣り銭は、ちゃんと数えな。
次は、もう少しスカッと殴るお話も書きたいです。今回は静かな一作だったので、今度はざまぁを思いきり。……たぶん、また途中でごはんの話をしますけど。先に謝っておきます。
◇◆◇ 相川ことね 恋愛作品集 ◇◆◇
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