第六話
冒険者や商人が行き交う大通りから少し外れた、中級クラスの宿屋。
俺の初期資金と、アイリの要望(清潔なベッドと水回り)をすり合わせた結果、銀貨数枚で泊まれるこの宿のツインルームを当面の拠点とすることにした。
「はぁ〜っ、生き返るぅ……! 異世界のベッド、意外とふかふかじゃん!」
アイリはシーツにダイブしてゴロゴロと転げ回っている。
俺は木製の椅子に腰掛け、超聴覚で部屋の周囲や廊下に盗聴者や不審な気配がないことを確認してから口を開いた。
「とりあえず、当面の安全は確保できたな。今後の基本方針だが……今日みたいに、使える手駒になりそうな女性がいれば拾っていく。だが、俺たちの安全が最優先だ。少しでもリスクが高いと判断したら見捨てる。いいな?」
「大賛成。私だって自分が一番可愛いし、他人のために死ぬ気なんて一ミリもないからね。……というか」
アイリはベッドの上で起き上がり、自分の豊かな胸元をギュッと両腕で隠すようにして身震いした。
「私の【超絶美少女アイドル】って名前の魅了スキル、生身で浴びる視線は想像以上にキツい。元アイドルのメンタルでも、あのギラギラした欲望をずっと向けられ続けるのはえぐられるっていうか……マジで怖い」
「だろうな。明日の一番のタスクは、お前の容姿を完全に隠す装備――目深に被れる外套やローブを買うことだ。囮に使う時以外は、絶対に素顔を晒すな」
「うん、お願い。ナオキがいてくれて本当に助かった……」
アイリは安堵の息を吐き、ふにゃりと笑った。
お互い、変な正義感を持たないクレバーな現実主義者だ。このパーティは非常にやりやすい。
「それから、もう一つ。お前の身分証明だ」
俺の言葉に、アイリが首を傾げる。
「俺は【一般市民】の身分証を持っているが、お前は持っていない。このまま衛兵の検問に引っかかれば、お前は不法滞在の無国籍者として強制連行される。あのツカサって女にやったのと同じ、俺の『奴隷』としての所有登録が必要だ」
「……あー、なるほど。奴隷契約ね」
アイリは少し考える素振りを見せた後、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
彼女はベッドの上を四つん這いで這い進み、俺の目の前までやってくると、不自然なほど豊かな胸の谷間を強調するように上目遣いで見上げてきた。
「ねえ、ナオキ? 私、こんなに可愛い『18歳の超絶美少女』なんだけど? 奴隷になっちゃったら、夜の『ご奉仕』とかも断れないわけじゃん? ……ナオキは、私に手ぇ出さないって誓える?」
至近距離。甘い吐息。
再び脳内に『【精神耐性】により魅了効果を軽減』という無機質なアナウンスが響く。
確かに、視覚的な破壊力は凄まじい。普通の男なら一瞬で理性を消し飛ばされるだろう。
だが――俺の心は、奇妙なほどに凪いでいた。
「……服の乱れを直せ。それと、俺を試すような真似はやめろ」
俺が冷たい声でそう告げると、アイリは「えっ?」と目を丸くした。
「視覚情報は入ってくるが、俺には『触覚』がない。お前の肌の柔らかさも、体温も、俺には一切感知できない。ただの映像データと同じだ。それに……五感が欠落しているせいか、本能的な性欲自体がひどく薄れていることに今気づいた」
俺が淡々と事実を告げると、アイリの表情から作り物の色気がスッと消え去った。
「……そっか。痛覚だけじゃなくて、触れた時の温かさも、ないんだ……」
彼女は少しだけ悲しそうに眉を下げた後、急に憑き物が落ちたような、心底ホッとした笑顔を見せた。
「あははっ、ナオキってばマジで最高! そっか、私に絶対手を出せない(出さない)ってことじゃん! なーんだ、それなら奴隷契約でも同室で寝るのも、全然怖くないや!」
男としてのプライドを考えれば複雑なところだが、彼女の信用を刺激せずに済むなら、この欠落も悪くない。
俺たちはシステムのアナウンスに従い、淡々と奴隷契約を済ませた。アイリの首に細いチョーカーが現れる。
「じゃ、私寝るね! おやすみ、ナオキっ!」
一切の警戒心を解いたアイリは、秒でベッドに潜り込み、本当に三十路だったんだなと思うような大胆かつ無防備な寝相で小さな寝息を立て始めた。
「……やれやれ」
俺は椅子から立ち上がり、部屋の鍵を開けた。
やるべきタスクが、もう一つだけ残っている。
宿屋の裏手。冷たい夜風が吹き抜ける路地裏の木箱の陰で、丸まった黒いスーツの影がガタガタと震えていた。
「ひっ……!?」
俺が足音を立てずに見下ろすと、ツカサはビクッと肩を跳ねさせ、涙目の眼鏡をこちらへ向けた。
「ずっとついてきていたのは分かっている。俺の聴覚と視覚を舐めるな」
「ご、ご主人様……っ、あ、あの、私……あのっ……!」
見捨てられたという不安と、俺に見つかったという安堵。二つの感情が混ざり合い、ツカサは息を荒くして俺の足元にすがりつこうとした。
「触るな。そして黙って聞け」
俺が冷たく言い放つと、彼女は「ひゅっ」と息を呑んで硬直した。
俺は懐から、先ほど宿の受付で余分に取っておいた『別室のホテルの鍵』と、数枚の銅貨と銀貨が入った小袋。そして、部屋にあった羊皮紙に走り書きした『メモ』を、彼女の足元に放り投げた。
「……え?」
「部屋の鍵と、最低限の食費だ。それからそのメモには、宿屋で聞いたこの世界の『基本的な数字』と『簡単な挨拶』の現地語を、日本語のフリガナ付きで書いておいた。文字で会話するくらいは可能になるだろう」
ツカサは震える手でそれらを拾い上げ、信じられないものを見るように俺を見上げた。
「ど、どうして……足手まといは要らないって……」
「壊れた道具は使えないからな。俺が呼ぶ時まで、最低限のメンテナンスをしておけ。そのメモを丸暗記しろ。……言っておくが、俺たちの部屋には来るなよ。勝手に自分の部屋で休め」
それだけ言い残し、俺は一切振り返ることなく宿屋へと戻った。
【ツカサ視点】
「あ……、あぁ……っ」
遠ざかる彼の背中を見つめながら、私は足元に与えられた鍵とメモを、まるで神聖な聖遺物でも扱うかのように両手でギュッと胸に抱きしめた。
突き放された。足手まといだと罵られた。
それなのに。私の体を気遣う寝床と、生きるための資金と、言葉が分からない私のために、彼が手書きしてくれた学習メモを与えられた。
――束縛しない。期待しない。でも、確実に『飼育』されている。
「はぁっ、ご主人、様……っ。私、これ、完璧に暗記します……っ、絶対、役に立ちますから……っ」
冷たい夜風の中で、私の体は異常なほどの熱を持っていた。
手渡されたメモのインクの匂いを嗅ぎながら、私は歪んだ絶対的な安心感に包まれ、熱い吐息を夜の闇に溶かしたのだった。




