第五話
⸻【ツカサ視点】
「……え? あ、ちょっと……!」
薄暗く、ひんやりとした路地裏。
私の間抜けな声は、誰に届くこともなく石畳に吸い込まれて消えた。
ナオキと名乗った男と、アイリという名の元アイドル。彼らの足音は容赦なく遠ざかり、路地の角を曲がって完全に見えなくなってしまった。
本当に、あの二人は私を置いていってしまったのだ。
「な、なんなのよあの男……! 私の優秀な知力と計算能力を利用しないなんて、見る目がないにも程があるわ……っ!」
私はギリッと唇を噛み、強がりを口にして誰もいない路地の壁を軽く蹴った。
だが、見栄を張ったところで現実は酷だった。
壁を蹴った足の先から、ジンとした痛みが走る。
【筋力】【体力】が、足りない。
限られたポイントの中で、私が生存戦略として「魔法」と「知力」にリソースを割き、切り捨てたステータス。その結果、今の私はこの世界の野良犬一匹すら自力で追い払えないほど、生物として脆弱だった。
先ほどまでの、奴隷商人たちに囲まれていた時の恐怖が鮮明に蘇り、ガタガタと足の震えが止まらなくなる。言葉が通じない異世界で、筋力もない女が一人で生き抜けるわけがない。
私は無意識に、首元にはめられた黒い革のチョーカーに触れた。
数分前まで重厚な鉄の首輪だったそれは、今は私の肌にしっとりと吸い付くように馴染んでいる。
――ナオキという男の、所有物。
その事実を改めて認識した瞬間だった。
私の心の奥底で、何かが『トクン』と異様な熱を持って跳ねた。
『(……私、あの人のものなんだ……)』
脳裏に、先ほどの無機質なシステムアナウンスがフラッシュバックする。
『一切の基本的人権および自己決定権を喪失し、生殺与奪の全権がマスターに委ねられます』
人権の喪失。自己決定権の剥奪。
現代日本で生きてきた人間からすれば、それは絶対的な恐怖であり、許されざる屈辱のはずだ。
前世での私は、常に完璧でなければならなかった。
外資系コンサルのシニアマネージャー。部下を率い、上司やクライアントの過剰な期待に応え、何億円というプロジェクトの全責任を細い両肩に一人で背負ってきた。
睡眠時間を削り、胃に穴が開くようなプレッシャーの中で、男社会の理不尽と戦いながら『隙のない強い女』を演じ続けてきたのだ。
私が決断しなければならない。私が失敗すれば、全てが終わる。自己決定権とは、私にとって「決して逃げられない重圧」そのものだった。
でも、今は?
私は『奴隷』だ。法的な責任能力すら持たない、ただの他人の持ち物。道具。
道具は、自分で決断しなくていい。明日の資金繰りも、今日の寝床も、自分の命すらも、悩む必要がない。
何か失敗しても、責任は全て『ご主人様』であるナオキが負ってくれる。道具の使い方が悪かった主人の責任になるのだから。
私には何の決定権も、プレッシャーもない。
ただの、所有物。
それなのに、彼は私を一切束縛しなかった。
『実質的には自由だ。勝手に生きて、勝手に成功してくれ』
そう言って、私を突き放した。
絶対的な庇護(法的な所有状態)の下に私を安全に隔離しておきながら、行動の自由を完全に与えるという、この狂った矛盾。
究極のセーフティネット。最高の福利厚生。
私が前世でどれほど血を吐く思いで働いても手に入らなかった「完全な安心感」が、このチョーカー一つに詰まっていた。
「……はぁっ、……ぁっ」
ダメだ。
背筋を、ゾクゾクと電流のような甘い痺れが駆け上がってくる。
今まで張り詰めていた私の心の糸が、この『絶対的な無責任の甘美さ』によって、ドロドロと熱く溶かされていくのが分かった。
「……どう、しよう……っ」
顔がカッと熱くなる。息が荒くなる。
チョーカーを撫でる指先がブルブルと震え、太ももの内側がキュッと熱を帯びた。
あんなに屈辱だと思っていた『他人の所有物になる』という事実が、今はたまらなく心地よくて、頭が真っ白になりそうだった。
『基本は自己責任だ。俺の生存の邪魔になるなら置いていく』
彼の冷たく淡々とした声が脳内で再生されるたび、ゾクッとして膝から力が抜けそうになる。
「……そ、そんなの……一人で生きていけるわけ、ないじゃないですか……っ、ご主人様……」
私は熱い吐息を漏らしながら、よろめくように壁から背中を離した。
彼に「足手まとい」だと言われた。
なら、足手まといにならない程度に役に立てば、彼はずっと私を「所有」し続けてくれるのではないか?
私のこのLv5の知力と魔力は、自分で責任を負うためではなく、あの理不尽なほどに強くて冷たい男に『献上』するために使うべきなのではないか?
「……ロジックは、完璧ね」
私は荒い息を整え、泥で汚れた眼鏡を中指でクイッと押し上げた。
目は完全にトロンと潤み、頬は異常なほど紅潮しているが、私の【知力Lv5】の頭脳は猛烈な勢いで計算を開始していた。
彼らは歩きで、それほど急いでいない。
私の敏捷Lv1の足でも、小走りで追えば見失わない距離だ。
気づかれないように、少しだけ距離を空けて。彼が危険に陥った時だけ、私の知力でサポートをすればいい。完璧な後方支援計画だ。
私は、絶対的な安心感と支配の甘さに依存するため、必死に彼の背中を追って路地裏を駆け出した。
――この時の私は、完全に計算違いをしていた。
ご主人様であるナオキが、『壁を透かして顕微鏡レベルで見える超視覚』と、『数キロ先の心音すら拾える超聴覚』を持っているという事実を。
私の異常に高鳴る鼓動も、荒い息遣いも、だらしなく緩んだ表情も。
15メートルほど前方を歩くナオキに、全て筒抜けになっていることなど、知る由もなかったのだ。




