第三話
⸻【アイリ視点】
(……マジで助かった。この人でよかったぁ……)
私、アイリこと三十路の元トップアイドルは、路地裏の壁に寄りかかる冴えない――でも、どこか底知れず頼もしい男の姿を見つめながら、内心で深い安堵の息を吐いていた。
先ほど、彼に泣きついた瞬間に私の脳内にも無機質なアナウンスが響いていたのだ。
『対象の【精神耐性】により、魅了効果が軽減されました』と。
私の【超絶美少女アイドル】というスキルは、予想と違って制御ができなかった。異世界の男たちを文字通り狂わせる。元アイドルとはいえ、前世でヤバいストーカー被害に遭った経験もある私にとって、男のギラついた「あの目」を常に向けられるのは恐怖以外の何物でもない。
でも、ナオキと名乗ったこの日本人の目は違った。
魅了をレジストし、少しだけ息を呑みながらも、私を「欲望の対象」としてではなく、「自分に欠けた感覚を補う手駒」として冷静に値踏みしてくれたのだ。
欲情ではなく、理屈と取引。
だからこそ、信用できる。この男なら、私の美貌を搾取するのではなく、利用価値として的確に守ってくれるはずだ。
「――ぷっはーっ! なにこれ、うめええええっ!」
私は両手で抱え込んだ木組みのカップから口を離し、三十路の素のリアクションで叫んだ。
今は一刻も早く安全な拠点を探さなきゃいけない状況だ。彼も急いでいた。でも、転生からのパニックで喉がカラカラだった私が「動く前にどうしても水分補給させて!」とゴネた結果、ナオキは渋々、手持ちの銅貨で屋台の果実水のようなものを買ってくれたのだ。
鮮やかなオレンジ色をしたそのジュースは、地球では飲んだことないくらい甘くて、ほんのりとした酸味が絶妙で、疲労困憊の体にガンガン染み渡る。
「……毒や痺れはなさそうだな。味はどうだ?」
「最高! すっごい美味しいオレンジジュースって感じ!」
ナオキは私の飲みっぷりを無表情でじっと観察し、小さく頷いた。
味覚も嗅覚もない彼にとって、食事や水分補給はただの作業だ。私のリアクションだけが、この世界の「味」と「安全性」を知る唯一の手段になっている。
「さて、喉が潤ったなら仕事だ。俺の目と耳で、他の生存者を探す。お前は囮になれ」
容赦のない指示に、私は「げっ」とあからさまに嫌な顔をした。
「絶対ヤダ! さっきも言ったけど、あんなギラギラした男どもの前に自分から出るなんて、死んでもお断りだからね!」
私が全力で拒絶すると、ナオキは小さくため息をつき、冷静に状況を天秤にかけた。
彼は優しそうな目をしているが、私が言うより前から、「全員を救うなんて不可能だし、有益な手駒だけを拾えればいい」と割り切っている合理主義者だった。
「……分かった。俺の超聴覚のフィルターを『日本語の女性の声』に絞る。助けるのは女だけだ。それなら囮をやれるな?」
「……可愛い女の子なら、まぁ。私、後輩の女の子とかよしよしするのは好きだし」
「よし、交渉成立だ」
ナオキは目を閉じ、意識を聴力に集中させた。
街の喧騒から、日本語の周波数だけをすくい上げる。数秒後、彼がゆっくりと目を開き、ある方向――スラム街の奥深くへと視線を合わせた。
「見つけたぞ。……さっき一瞬見た女性だな。状況は最悪だ」
⸻【ナオキ視点】
幾重もの壁を透かした先にいたのは、20代前半くらいに見えるすらっとした長身の美女だった。
泥と埃で汚れてはいるが、黒のパンツスーツに身を包み、眼鏡の奥の瞳は冷たく理知的だ。
だが、彼女の首には重々しい鉄の首輪がはめられ、屈強な奴隷商人の男たちが彼女を輸送用の檻へと押し込もうとしていた。先ほど俺が一瞥した、奴隷落ちの女だ。
彼女は暴れるでもなく、冷徹な表情で男たちを睨みつけている。
いかにも「私には脱出の算段がある」とでも言いたげな、クールで隙のない佇まい。
だが――俺の超聴覚は、彼女の口から漏れる「極小の独り言」をはっきりと拾っていた。
『(ど、どうしようどうしよう! 痛い! 怖い! なんでこんなことになってんの!? お母さぁぁん!!)』
……中身は限界ギリギリの大パニックだった。
『(私は悪くない! リスクマネジメントは完璧だったはずよ! あの短い時間で未知の環境だと悟り、10ポイントで【魔素分解(下級)】を取り、ステータス欄も生存のため全てを最低限取った! 生物的生存を最優先した私のロジックは完璧だったのよ! ただ、それにポイントを使いすぎて……言葉と身分証を買うポイントが足りなくなっただけで……っ!)』
なるほど。
「罠を見落とした」わけではなく、生存特化でポイントを振り、社会的情報や身分を「切り捨てた」結果、この状況を生んだというわけか。限られたリソースでやり繰りしたキャリアウーマンらしい。社会的なものは自身の力で何とかなると考えたのだろう。それも間違いではないと思う。
「行くぞアイリ、綺麗なキャリアウーマンだ。力を貸せ。」
「えー、お姉さん系かあ。私、前世の事務所の社長思い出して胃が痛くなるからパスしたいんだけどぉ」
「俺がいなければ今日の宿も取れないはずだが」
「行きますぅ!」
俺たちはスラムの現場へと急行した。
ピリついた死の気配が漂う路地裏。奴隷商人の一人が、舌打ちと共に鞭を振り上げ、スーツの女性の背中を打とうとした、その瞬間。
「はーい! みんなのアイドル、アイリちゃん降☆臨! きゅるんっ!」
俺に背中を押されたアイリが、ヤケクソ気味に路地に飛び出し、全力のアイドルポーズをキメた。
途端に、【超絶美少女アイドル】の理不尽な魅了効果が路地裏を支配する。
「「「おおおおおっ!?」」」
奴隷商人の男たちが、振り上げた鞭もツカサの存在も完全に忘れ、涎を垂らしながらアイリへと群がり始めた。
その光景に、ツカサは眼鏡の奥の目を丸くして呆然としている。
アイリの背中が恐怖で震えているのが分かった。いくらスキルで魅了しているとはいえ、屈強な男たちが数人がかりで迫ってくる恐怖は凄まじいはずだ。
時間はかけられない。俺は路地の死角に身を潜めたまま、壁越しに男たちへ超視覚のピントを合わせた。
ただ遠くを透かして見るだけじゃない。レベル3の視力強化は、顕微鏡のようにミクロの世界すら正確に捉え、生体組織の内部構造すら可視化する。
狙うのは、だらしなく開かれた男たちの口の奥。
俺の視界は彼らの口腔を抜け、喉の奥にある喉頭蓋を通り越し、その下にある『気管』のど真ん中にピタリと空間座標を指定した。
人間の体は、異物が肺に入ることを極端に嫌う。通常、食べ物や飲み物を飲み込む際は喉頭蓋が気管にフタをし、食道へと導く。だが、もしその防御機構を無視して、声帯より下の気管に直接液体が入り込んだらどうなるか。
人体は肺を守るため、声帯を強制的に閉鎖する『喉頭痙攣』という極端な反射を起こす。つまり、完全に呼吸ができなくなるのだ。
気管の内部に直接送り込む水は、コップ一杯すら必要ない。たった数ミリリットル、ほんの小さじ一杯程度(10cc〜20cc)の純水が存在するだけで、人間は陸上にいながらにして『完全な溺死状態』に陥る。
魔力消費は最小。予備動作も詠唱もいらない。たった10ポイントで買える、ただの日常用スキル。
――【生活魔法:水出し】
アイリに手を伸ばそうとしていた最前列の三人の気管内部に、直接『水』を発生させた。
「がっ……!? ――ッ!!」
「ひゅーっ、ごぼぁっ! ぎぃっ……!」
三人の男の動きが、文字通りピタリと停止した。
彼らは両手から武器を取り落とし、白目を剥きながら自らの喉を激しく掻きむしり始めた。
声帯が痙攣して完全に閉じているため、悲鳴すら上がらない。ただ「ヒューッ、ヒューッ」という、無理やり空気を吸い込もうとする甲高い狭窄音だけが路地裏に不気味に響き渡る。
突発的な極度の低酸素状態。脳はパニックを起こし、アドレナリンが過剰分泌される。だがどれだけ胸を張っても酸素は肺に届かない。
男たちの顔面はみるみるうちに赤紫色のチアノーゼを起こし、首の血管がはち切れんばかりに膨れ上がった。数秒と経たずに膝から崩れ落ち、石畳の上を魚のように跳ね回りながらのたうち回る。
「な、なんだ!? どうしたお前ら!」
「呪いか!? 毒ガスか何かか!?」
残された後衛の見張りたちは、完全に混乱していた。
炎が上がったわけでも、風の刃が飛んできたわけでもない。ただ一人の少女がポーズを決めた直後、仲間たちが突如として自分の喉を掻きむしって窒息し始めたのだ。未知の現象に対する根源的な恐怖が、彼らの理性を食い破った。
「近づくな! この女、悪魔だ! やべえぞ!!」
「ひぃぃっ!!」
戦意を完全に喪失した奴隷商人たちは、泡を吹いて痙攣する仲間を見捨て、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように路地裏から逃げ出していった。
静寂が戻ったスラムの奥地。
アイリが「うげぇ、なんか男たちが勝手に……私、何もしてないよね?」とドン引きしている横へ、俺は路地の影から悠然と歩み出た。
「怪我はないか、あんた」
俺が日本語で声をかけると、スーツの女はビクッと肩を大きく震わせ、こちらを振り返った。
張り詰めていた糸が切れ、彼女は一瞬だけ子供のように泣きそうな顔を見せた。だが、すぐに小さく息を吸い込むと、コホンと咳払いをして、泥で汚れたズレた眼鏡を中指でクイッと押し上げた。
「……ええ、問題ありません。計算通りのタイミングでの救出、感謝します。私はツカサ。見ての通り、少しだけイレギュラーな事態に巻き込まれていただけです」
表面上はどこまでもクールなキャリアウーマン。
だが、強がる彼女の痩せた膝は、生まれたての子鹿のように小刻みに震えているのがはっきりと見えた。
異世界言語を取らなかったアイドルに続き、リスク管理の方向性を間違えたキャリアウーマン。
どうやら俺の異世界サバイバルは、随分と賑やかなものになりそうだった。




