第三十七話
【ルカ視点】
静まり返った森の獣道をどれくらい歩いただろうか。
私の足取りは、先ほどまでの怒りが嘘のように重くなっていた。
「…………ふぅ」
もう背後を振り返っても、あの大好きな家は見えないだろう。
ただ、風が木々を揺らす音だけが、やけに鼓膜に響いた。
(……やっちゃったっすね)
アドレナリンが切れて、急に足の先がガクガクと震え始めた。
私は、前世からずっと引きこもりだった。誰かと喧嘩して、家を飛び出して、自分の足で知らない道を歩くなんて、これが初めての経験だ。
虚勢を張って大人たちに啖呵を切った手前、絶対に振り返るわけにはいかないけれど……心細くないと言えば、嘘になる。
「ルカ、ちゃん……」
ふいに、ずっと無言で私の後ろを歩いていたトウヤ君が、立ち止まった。
振り返ると、彼は俯いたまま、ギュッと拳を握りしめて震えていた。
「ごめん……俺のせいで。俺が弱くて、ルカちゃんを騙すような真似をしたから……ルカちゃんから、大事な家族を奪っちゃった……っ」
「トウヤ君」
「俺はハズレ枠のゴミだし……ルカちゃんみたいに強くない。あの人たちみたいに、ルカちゃんを守ってあげることもできないのに……俺なんかのために、あんな温かい場所を捨てさせるなんて……!」
ポロポロと、彼の足元の土に涙の染みが広がっていく。
相変わらず、彼は他人のために泣ける、泣き虫で優しい男の子だ。
私は歩み寄り、トウヤ君の頭にポンと手を乗せた。
「トウヤ君のせいじゃないっすよ。……私が、自分の意志で選んだんすから」
「でも……」
「トウヤ君がいなかったら、私はずっとあの過保護な箱の中で、一生子供扱いされたままヘラヘラ笑ってたっす。……トウヤ君が外の理不尽を教えてくれて、私の手を引いてくれたから、私は自分の殻を壊せたんすよ」
だからこれから、チート同盟の残党をぶっ飛ばして、理不尽に泣いてる弱い人たちを助ける旅をする。だから、私の最初の仲間になってほしい。
そう伝えようとした、その時だった。
きゅるるるるるぅぅぅぅぅぅ……。
「…………あ」
「…………えっと」
静かな森の中に、私の腹の虫の音が、信じられないほど情けないボリュームで響き渡った。
「……お腹、空いたっすね……」
顔から火が出るほど恥ずかしい。
しかも、最悪な事実に気がついてしまった。
私はあの家で料理をしたことがない。そもそも前世では引きこもりだったから、料理のスキルも、もちろん野宿のスキルも、何一つ持っていないのだ。
(終わった。チート同盟を素手で壊滅させるステータスはあっても、これじゃ街に着く前に餓死するっす……!)
私が青ざめていると、トウヤ君がふっと吹き出し、今日一番の、憑き物が落ちたような柔らかい笑顔を見せた。
「ルカちゃん。戦闘はルカちゃんに任せるけど、それ以外は……俺の【アイテムボックス】に任せてよ」
トウヤ君が空間に手をかざすと、光の波紋と共に、温かいスープや柔らかいパンが次々と取り出された。チート同盟の監視の目を盗んで、いつか姉と逃げ出す時のために貯め込んでいたらしい。
まるで今ここで作ったみたいに、信じられないくらい美味しかった。
「……トウヤ君のスキル、ハズレ枠どころか、最高の大当たりチートっすね。だからチート同盟に目をつけられたんじゃないっすか」
「あはは、ルカちゃんにそう言ってもらえると自信つくよ。……よし! じゃあ腹ごしらえしたら、街のホテルに向かおう! ミヤビが待ってるから」
*****
森を抜け、夕闇が迫る頃。
私たちは、師匠が地図に印をつけていた街の外れの小さなホテルに到着した。
古びた木造のドアの前に立ち、トウヤ君がゴクリと唾を飲み込む。
彼の手には、師匠から受け取った真鍮の鍵が握られていた。鍵穴に差し込み、カチャリと回す。
「ミヤビ……?」
ギィ、と扉を開けた瞬間。
部屋の奥で、膝を抱えて丸まっていた華奢な影が、弾かれたように顔を上げた。
「トウヤ……ッ!?」
それは、トウヤ君とよく似た、けれど少しだけ色素の薄い亜麻色の髪をした少女だった。
長期間の監禁生活のせいか、ひどく痩せ細っていて、肌も透けるように白い。けれど、その見開かれた瞳だけは、トウヤ君と同じ、真っ直ぐで強い光を宿していた。
「ミヤビ……! よかった、無事だったんだね……っ!」
「トウヤ! トウヤぁ……ッ!」
ミヤビさんはふらつく足で駆け寄ると、トウヤ君の胸に勢いよく飛び込んだ。
トウヤ君も姉の細い身体をきつく抱きしめ、二人は床にへたり込むようにして、声を出して泣きじゃくった。
「ごめん、おそくなって……! ずっと、怖い思いさせて……っ!」
「ううん……生きて会えただけで、私……っ! トウヤ、怪我はないの……? 無理してない……?」
「俺は平気だよ。……それより、紹介するね」
ひとしきり泣いた後、トウヤ君は涙を拭って立ち上がり、扉の入り口で腕を組んで立っていた私を振り返った。
「この子は、ルカちゃん。……俺と、ミヤビの命を救ってくれた、俺の恩人だよ」
ミヤビさんはハッとして私を見ると、慌てて居住まいを正し、床に額がつくほど深く、深く頭を下げた。
「あなたが、ルカ様ですね……。このご恩は、一生忘れません。本当に、本当に……ありがとうございますっ」
震える声で紡がれる、純度100%の感謝。
私はなんだか居心地が悪くなって、ボリボリと頬を掻いた。
「頭、上げてほしいっす。『様』もいらないっすよ。……私を外の世界に引っ張り出して救ってくれたのは、トウヤ君のほうっすから。お互い様っす」
「ルカさん……」
顔を上げたミヤビさんは、ふっと優しく、そしてどこか大人びた微笑みを浮かべた。
「……強くて、とても優しい方なんですね。トウヤも隅に置けません」
「よ、余計なことは言うなよな!」
「ふふっ。うちの泣き虫な弟が、たくさんご迷惑をおかけしたでしょう?」
そう言いながらトウヤ君の頭を撫でるミヤビさんの手つきは、完全に『面倒見のいいお姉ちゃん』のそれだった。
か弱そうに見えるのに、芯が通っていて、何よりトウヤ君を大切に思っているのが伝わってくる。
「……迷惑だなんて、全然思ってないっすよ」
私は、こんな時にすごく頼もしかったあの人たちのことを思い出し、
自分がその役をやらなければいけないのだと思うと、少しだけ照れくさい気持ちで胸を張った。
「これからは、三人でパーティを組むっす。私が前衛で全員ぶっ飛ばすから、ミヤビさんもトウヤ君も、安心してついてきてほしいっす!」
私がドンと胸を叩いて宣言すると、トウヤ君はパァッと顔を輝かせた。
だが――ミヤビさんは、ふっと嬉しそうに微笑んだ直後、その顔に深い暗い影を落とし、ギュッと自分のスカートの裾を握りしめた。
「……ミヤビさん?」
「ごめんなさい、実は」
トウヤ君が慌てて駆け寄る。
「姉ちゃん? どうしたの、どこか痛むの!?」
「違うの、トウヤ……私には、地下牢でずっと一緒に励まし合ってきた『親友』がいるの。……ニーナっていう、女の子……っ」
ミヤビさんは震える手で顔を覆いながら、ポツリポツリと語り始めた。
彼女が囚われていたのは、神聖グリニア帝国の中心にそびえる『白亜の王城』の地下深くにある、光の届かない牢獄だった。
そこには、チート転生者たちに国を奪われ、逆らって捕らえられた元貴族や、元からこの世界にいた一般市民や奴隷、ハズレ枠の異世界人たちがゴミのように詰め込まれていたという。
「……ひどい場所だった。食事は数日に一度、カビの生えたパンと泥水だけ。重いチョーカーをつけられて……チート同盟の将軍たちは、暇つぶしに牢獄に降りてきては、憂さ晴らしに囚人をいたぶって笑ってた」
「ッ……!」
「ニーナは、お姉さんが上で『メイド』として奴隷のように働くことを条件に、地下に生かされていたの。あの子、自分が一番お腹が空いてて怖いはずなのに、私が泣いてると『お姉ちゃんが助けに来てくれるから大丈夫だよ』って、自分のパンを分けてくれて……っ」
ミヤビさんの声が、嗚咽で震える。
「私は、トウヤを揺さぶる『人質』として使うために、急に牢から外に移動させられたの。その道中でルカさんのお師匠様たちに助けられたけれど……ニーナは、今もあの冷たい暗闇の中にいる。私だけ助かって、あの子を置いてきちゃった……っ!!」
ギリッ。
私の奥歯が、嫌な音を立てて鳴った。
胸の奥で、ドクン、ドクンと、重く熱いものが脈打つ。
理不尽な上位者に対する絶対的な反逆の力――【叛逆の愚者】のスキルが、私の怒りに呼応してチリチリと全身の血を沸騰させているのがわかった。
「……ルカちゃん?」
私の尋常じゃない気配に気づいたのか、トウヤ君がおそるおそる声をかけてくる。
私は、ミヤビさんの前にスッとしゃがみ込み、彼女の震える両肩をガシッと掴んだ。
「ミヤビさん。顔を上げるっす」
「ルカ、さん……」
「自分だけ助かったなんて、自分を責める必要はねぇっす。ミヤビさんが無事に助かって、こうしてニーナちゃんのことを私に教えてくれた。……だから、あの子の命が繋がるんすよ」
私はニィッと、口角を吊り上げて笑ってみせた。
「私、むしゃくしゃしてたから、ちょうど何かデカいものをぶっ壊したかったんすよ。その『白亜の王城』ってのは、どっちの方向っすか?」
ミヤビさんはハッと息を呑み、トウヤ君の目が丸くなった。
「ル、ルカちゃん!? 本当に、王城に行くつもり!? 相手は帝国だよ!? 何百人っていうチート同盟の人たちと、軍隊が……!」
「関係ねぇっす。理不尽に弱いやつを泣かせて、自分たちは安全なところでヘラヘラ笑ってるクズどもなんて……全員まとめて、私がこの拳でぶち抜くっす」
拳を握りしめると、バチッ! と青白い魔力の火花が散った。
「トウヤ君、ミヤビさん。行くっすよ。ニーナちゃんって子を助け出して、ついでにその帝国ってふざけた連中を、私が一人残らず全員ぶっ飛ばしてやるっす!!」
――理不尽に泣いている誰かの手を引いて、最悪な運命ごとぶっ飛ばせる、最強の【勇者】になってやる。
私たちのパーティの最初の目的地は、神聖グリニア帝国のド真ん中――『白亜の王城』に決まった。




