間章~3人の夜~
【ツカサ視点】
「……すぅぅぅぅぅぅぅぅッ!! はぁぁ、ルカ様の残り香……! まだ微かに、あの生意気で芳醇な思春期の香りがこの毛布に……ッ!」
「ツカサさん、朝から変態極まってるよ。早くその毛布、洗濯機に入れてきて。トウヤ君が使ってたシーツも一緒にね」
ルカ様たちが使っていた空っぽの部屋で、丸まった毛布に顔を埋めて深呼吸をしていた私に、アイリ様がジト目でツッコミを入れてきました。
「何を仰るのですか、アイリ様。あの小童のシーツなど即刻焼却処分で構いませんが、この毛布は洗濯などという野蛮な行為で浄化してはならない我が家の重要文化財です。ジップロックに入れて真空保存し――」
「いいから貸して。ほら、もう朝ご飯できるから、ツカサさんはいつもの紅茶淹れてよ」
容赦なく毛布をひったくられ、私はチッと舌打ちをしながら渋々キッチンへと向かいます。
ルカ様と、そして数週間うちで居候(兼、監視対象)をしていたトウヤ様が旅立ってから、一夜が明けました。
私の優秀な頭脳(演算機)は、あのお人好しな少年がルカ様にどう振り回されているか、二人が今頃どのルートを通り、生存確率が何%かを常に弾き出しています。
……ええ、もちろんGPS代わりの発信機(魔法印)もこっそり服に仕込もうとしたのですが、ルカ様の憎き新スキル【叛逆の愚者】によって、私の魔力はすべて「抑圧」と判定されて消滅させられてしまいました。本当に、手のかかる不良娘に育ってしまったものです。
「……ふふっ。あんなに私に怯えていた引きこもりが、一丁前に啖呵を切って」
私はティースプーンでお茶っ葉を掬いながら、思い出し笑いをこぼします。
お湯が沸き、ポットからカップへ、美しい琥珀色の液体を注ぎ入れます。
一つ、二つ、三つ……。
そして四つ目。一番小さな、猫の柄が描かれたルカ様のお気に入りのマグカップ。
さらに五つ目。トウヤ様が使っていた、無骨な木のマグカップ。
そこまでお湯を注ごうとした瞬間。
「…………あ」
トクトクと鳴るお湯の音が止み、キッチンに、ひどく冷たい静寂が落ちました。
視線を上げると、ダイニングテーブルに朝食を並べていたアイリ様も、お盆を持ったまま呆然と立ち尽くしていました。
彼女が並べたのは、ご主人様(ナオキ様)、彼女自身、私の分。
……そして、いつもの癖で無意識に用意してしまった、ルカ様とトウヤ様のために山盛りにされた『育ち盛り用』のおかず。
全部で、五人分。
「……アイリ様も、たいがいポンコツですね。誰も座らない席に、ご丁寧に二人分の食事まで用意して」
「ツカサさんだって……ルカちゃんとトウヤ君のマグカップに、紅茶、淹れようとしてるじゃない」
私の皮肉に、アイリ様が弱々しい声で言い返してきます。
私は手元の二つのマグカップを見つめ、……それから、ゆっくりと息を吐き出しました。
「……ええ。私の優秀な演算機に、バグが生じているようです」
私は四つ目と五つ目のマグカップを持ち上げ、ダイニングテーブルの定位置にコトリと置きました。
アイリ様も無言で、お皿2枚を、その隣に並べます。
「みんな、おはよう」
欠伸をしながら、居間からご主人様が起きてきました。
ご主人様は、テーブルの上の「五人分」の朝食と紅茶を見ても、何も言いませんでした。
「……ん?静か、だな。そう……だったな」
ボソッと溢したご主人様の呟きが、やけに部屋の中に響きます。
縁側から差し込む朝の光。
いつもなら、「早く食べないと冷めるっすよ!」「ピーマンは嫌いっす!」「ル、ルカちゃん、俺がピーマン食べるから!」と、生意気な不良娘と、それに振り回される青年のドタバタした声が響き渡っているはずの食卓。
誰も、それ以上は言葉を発しませんでした。
ご主人様は黙々と飯を食い、アイリ様は少しだけ目を伏せ、私はいつものように、完璧な所作で紅茶を啜ります。
ただ、目の前にある主のいない二つのマグカップから立ち上る湯気だけが。
あの不器用で手のかかる子供たちが、確かに昨日までここにいたのだという事実を、私たちに突きつけていました。
*****
静かすぎる朝食を終え、私は一つの結論に達しました。
このままでは、私の優秀な演算機が「ルカ様ロス」によるオーバーヒートで焼き切れてしまいます。この心の穴を埋めるには、家庭内のパワーバランスを再定義し、新しい刺激を注入するしかありません。
私は皿洗いを終えたばかりのアイリ様を捕まえ、無表情に、けれど断固とした口調で切り出しました。
「アイリ様。ご提案がございます。私を、ご主人様の『愛人』にするのを許可していただけませんか」
「……はい?」
アイリ様が、洗ったばかりの皿を落としそうになりました。
「ルカ様という『子』がいなくなり、この家は今、活気を失っています。そこで、私が正式な愛人としてご主人様に侍り、家庭内に新たな火種(情事)を投下することで、この停滞した空気を打破すべきと判断しました。もちろん、正妻である貴女への敬意は忘れません。週二回、あるいは隔週でのシフト制で構いませんが」
「ツカサさん……寂しすぎて、ついに回路がショートしたの?」
「至って正気です。許可をいただけますね?」
私は、無機質な仮面を必死に維持しながら問いかけました。
しかし、アイリ様はいつものように笑って流すことはしませんでした。濡れた手をタオルで拭き、まっすぐに私を見据えてきます。
「……ツカサさん。いくら寂しいからって、それは頷けないよ」
アイリ様の声は、いつになく真剣でした。
「ナオキは私を愛してくれているし、私も彼を愛してる。ツカサさんがこれまでナオキのために命をかけてきてくれたことは、痛いほど分かってる。……でも、だからって、彼を『譲る』ことは絶対にできない」
正妻としての、静かで力強い拒絶。
私の演算機は、そのあまりにも真っ当な愛情にエラーを吐きそうになります。
「……ですが、このままでは私の演算機がルカ様の幻影を追って狂い死にます。何らかの物理的、精神的刺激が――」
「だから……」
アイリ様は、ふいに顔を真っ赤にして、視線を泳がせました。
「彼を『譲る』んじゃなくて……『共有』するなら、いいよ」
「共有、ですか?」
「ナオキの、『感覚共有ライン』……三人で……その、夜を一緒に過ごすなら、特別に許可するから……っ!」
自ら「3人で」を提案してきたアイリ様の顔は、茹でダコのように真っ赤でした。
……なるほど。
私の演算機は、瞬時にこの『三位一体』の破壊力と合理性を弾き出しました。
「……感謝いたします。正妻としての度量、しかと胸に刻みました」
*****
――そして、夜。
ご主人様が寝室で一人、静かに酒を飲んでいるところへ、私は音もなく入室しました。
眼鏡の奥の瞳は、獲物を狙う狩人のそれです。
「……なんだツカサ。もう寝るぞ」
「ご主人様。ご報告があります。今夜から、私が貴方の『愛人』としてお相手をさせていただきます」
「ぶっっ!!?」
ご主人様が、飲んでいた高い酒を豪快に吹き出しました。
「な、何を言って……! お前、いくらルカがいなくなって寂しいからってバグりすぎだろ!」
「ルカ様がいなくなり、この家はあまりに広すぎます。非合理的です。私がその余ったスペースを物理的に埋め、ご主人様の孤独を……ひいては、私のこの、やり場のない母性と変態性を、貴方にぶつけさせていただく所存です」
私がベッドに近づくと、ご主人様は顔を引きつらせながら、ピシャリと冷たい声で拒絶しました。
「馬鹿言ってないで寝ろツカサ。……俺が愛してるのはアイリだけだ。お前がこれまで俺のために泥を被ってくれたことには感謝してる。だが、いくらお前がバグってようと、アイリを裏切るような真似だけは絶対にできねぇ」
その真っ直ぐな言葉。ナオキ様がナオキ様たる所以。
だからこそ、私は彼に執着し、アイリ様は彼を愛してやまないのです。
「……ご安心ください。アイリ様からの許可はすでに下りております」
「は……?」
「むしろ、アイリ様からのご提案なのです。『三人でなら』と」
私が指を鳴らすと、寝室のドアがギィッと開き、薄いネグリジェ姿のアイリ様が入ってきました。
その顔は茹でダコのように真っ赤で、モジモジと太ももを擦り合わせています。
「あ、アイリ!? お前まで何やってんだ! その格好……!」
「ご、ごめんねナオキ。でも、ずっとツカサさんに申し訳なかったし……私、私も、最近その、マンネリだったし……三人で繋がったらどうなるのか、ちょっと気になっちゃったっていうか……っ」
「お前ら二人して寂しさで頭おかしくなったのか!!」
ご主人様がベッドの端まで後ずさった瞬間。
私はあらかじめ構築しておいた最高精度の魔法陣を、淀みなく展開しました。
「――【感覚共有ライン(スリーウェイ・シンクロ)】、起動」
ピンク色を帯びた三本の魔力の糸が、私と、アイリ様と、ご主人様の胸の奥深くへと吸い込まれていきます。
「な、なんだこの光る糸は!! ツカサ、なんでお前がラインを出せるようになって、やめ――っ!?」
「さあ、ご主人様、アイリ様。私の昂る変態性と、アイリ様の羞恥心と重たい愛情、そしてご主人様の戸惑い……三人の感覚をすべて無限ループさせて、この寂しい夜を吹き飛ばしましょう」
次の瞬間。
私の脳内に、信じられないほどの情報量が雪崩れ込んできました。
「あ……っ、ぁ……!?」
最初に膝から崩れ落ちたのは、私自身でした。
ご主人様の、酒を飲んで熱くなった太い血流の音。大きく逞しい鼓動。
そしてアイリ様の、ご主人様を見つめるだけで奥のほうが疼くような、甘くてどうにかなりそうなほどの重烈な愛情。
それらが、私の神経回路を直接、暴力的なまでに焼き尽くしていきます。
「うおおおおおぉぉぉッ!? なんだこれ、頭の中にアイリのドキドキと、ツカサの……とんでもない変態思考が直接――ッ!!」
「ひゃんっ!? な、ナオキの感情……すごく、おおきい……っ! ツカサさんの、ゾクゾクしてる感じも……全部、流れ込んでくる……っ!」
「はぁっ……ふぅ……っ! これ、は……私の優秀な演算機でも……処理、しきれ……っ」
立っていられなくなった私は、ベッドの上のご主人様へと倒れ込みました。
同時に、アイリ様も腰を抜かしたように、ご主人様の反対側の腕へと縋り付きます。
「ツ、ツカサ……お前、息が……」
「ご主人様……。触れて、ください……」
私は眼鏡を外し、熱で潤んだ瞳でご主人様を見上げました。
ご主人様の大きく無骨な手が、躊躇いがちに私の頬に触れます。
――その瞬間。
「あッ……んぁッ……!」
「ひゃあぁッ!?」
私が頬を撫でられて感じた『ゾクッとするような男の指の感触』が、魔法のラインを通じて、瞬時にアイリ様へ。
そして、アイリ様が感じた『自分以外の女が撫でられている背徳感と甘い痺れ』が、ご主人様と私へ。
ご主人様の『二人の女の柔らかい肌と、とろけるような反応を同時に味わう男としての昂り』が、また私たちへ。
感覚のフィードバック。無限のループ。
ただ頬を撫でられただけ。それだけなのに、脳髄がドロドロに溶け出しそうなほどの快感が、三人の間を駆け巡ります。
「ダメ……っ、ナオキ……っ。ただツカサさんが触られてるだけなのに……私まで、頭がおかしくなりそう……っ!」
「アイリ……っ。お前のその声……ツカサの熱い息……全部、俺の中に直接響いて……くそっ、理性が……!」
もはや、誰が誰に触れているのかすら曖昧になるような極限のシンクロ状態。
私は熱い吐息を漏らしながら、ご主人様のシャツのボタンを外し、その熱い胸板に頬を擦り寄せました。
「はぁっ……ご主人様の、匂い……。アイリ様、感じますか……? 」
「んぁっ……わかる……っ。ツカサさんの頬越しに、ナオキの熱が……すごく、伝わってくるの……っ。ナオキ……ナオキ……っ」
アイリ様がたまらず、ご主人様の首筋に甘く唇を這わせました。
チュッ、という水音とともに、アイリ様の柔らかい唇の感触が、私の首筋にも仮想の熱として焼き付きます。
「あっ……んんっ……! アイリ様の、唇……っ」
「ははっ……もう、どうにでもなれ……っ!!」
ご主人様が、ついに理性のタガを外しました。
逞しい両腕が、私とアイリ様の腰を同時に強く引き寄せます。
三人の体温が、ひとつに溶け合う。
少しでも動けば、シーツの擦れる音さえもが三倍の感度となって脳を揺らす。
部屋中を満たすのは、熱い吐息と、甘い悲鳴と、ご主人様の荒々しい息遣いだけ。
ルカ様。
貴女がいなくなって、この家はひどく静かで、寒くなってしまうかと思いました。
けれど……ご安心ください。
「あぁっ……ナオキ……もっと……っ」
「ご主人様……っ、私の演算機、もう……完全に、ショートします……っ!」
大人たちは大人たちで、こんなにも不器用で、やかましくて、熱に浮かされた夜を過ごしています。
心の穴は、決して一人では埋められないから。
こうして私たち三人は、朝の光が差し込むまで、理性が焼き切れるほどの過剰な感覚共有の渦の中で、互いの熱を確かめ合ったのでした。




