第二話
耳に飛び込んできたのは、異世界言語ではなく、はっきりと『日本語』の悲鳴だった。俺は足を止め、声の出どころを探るために、超強化された視力のピントを街の奥へと合わせた。
建物の壁が薄いセロハンのように透け、街の全景、さらには城壁の外までが一瞬にして見通せる。
だが、悲鳴の主を探し出そうと視線を走らせた俺の目に飛び込んできたのは、目的の少女ではなく、あまりにも無惨な『地獄の博覧会』だった。
「……冗談じゃないぞ、これ」
薄暗い路地裏に腰を下ろしたまま、俺は冷や汗を流していた。
超強化された視力と聴力。騒ぎになっている様々な場所へピントを合わせるだけで、街の壁を透かし、はるか遠くの森の奥までが手に取るように分かる。
そこで俺が観測したのは、俺と同じようにあの白い空間から転がり落とされてきた「異世界転生者」たちの、あまりにも呆気なく、そして無惨な末路だった。
視線を数十キロ先の深い森――恐らく【中級魔物地域】へ向ける。
そこに現れたジャージ姿の男は、転移した直後に首を掻きむしり、大量の血を吐いて倒れ伏した。そして、森の奥から現れた巨大な四つ足の魔物に、生きたまま頭から齧り付かれていた。
――【魔素分解スキルなし:0p】。
大気中に含まれる魔素を分解できなければ、呼吸をするだけで猛毒を吸い込んでいるのと同じなのだ。
次に視線を街の広場へ向ける。
学生服を着た少年が、衛兵に向かって何かを必死に叫んでいた。だが、声帯から発せられる音は衛兵には全く届いていない。いや、意味を成していないのだ。
少年が苛立って衛兵の肩を掴んだ瞬間、無慈悲に閃いた剣が少年の首を跳ね飛ばした。
――【情報なし:0p】。
現地の言葉も分からず、治安維持法や身分制度の常識もない。言葉の通じない不審者が武装した衛兵に触れれば、即座に「反逆」とみなされる。
さらに視線をスラム街へ落とす。
スーツ姿の女性が、粗暴な男たちに囲まれていた。彼女は高ポイントの魔法らしきものを放とうとしたが、男たちに物理的に殴り倒され、その首に重い鉄の首輪をはめ込まれた。
――【身分証なし(奴隷):0p】。
身分を証明できない無国籍者は、この世界では人権すらない「資源」として狩られる。
「デフォルト設定」の罠。
強力なチートスキルや魔法にポイントを注ぎ込み、地味な初期設定を怠った者たちは、例外なく転移から数分で「詰んで」いた。
「ポイントをケチってデフォルト設定を極力埋めたのは正解だった。だが……」
俺自身も、ステータス欄の罠を見落とし、痛覚や触覚、味覚に嗅覚を失っている。一歩間違えれば、あの死体たちの仲間入りだ。
どうやってこのハンデを背負って生きていくか。
そう思案していた時だった。
『いやあああああああああ!』
俺の耳が、今度こそはっきりと最初に聞いた「日本語の悲鳴」を捉えた。
三つ先の通り。表通りから少し外れた袋小路だ。
近い。助けに行ける。
俺は視界のピントを合わせ、壁を透かしてその状況を確認した。
そこにいたのは、小柄な少女だった。
透き通るような薄いブルーの髪に、不釣り合いなほど豊かな胸。まるでアニメから飛び出してきたような、不自然なほどの「美少女」だった。
だが、状況は最悪だ。彼女の周囲を、いかにもガラの悪い三人の男たちがニヤニヤと笑いながら取り囲んでいる。
「た、助けて! 誰か! お願い、こないでぇっ!」
彼女は必死に叫んでいるが、男たちには【情報(言語)】を持たない彼女の日本語は、ただの鳥の囀りにしか聞こえていないだろう。
不自然なのは、男たちの目が異常にギラついていることだ。単なる奴隷狩りにしては執着が強すぎるような目をしている。
「……行くか」
俺はゆっくりと立ち上がった。
痛覚がない俺にとって、あんなゴロツキ三人との接近戦は自殺行為だ。殴られて骨が折れても気づけない。
だが、戦い方ならある。
俺は路地の角を曲がり、彼らから十メートルほど離れた位置で足を止めた。
超視覚で、男たちの顔のパーツを顕微鏡レベルで拡大する。狙うのは、一番手前にいる男の「右目」の眼球の表面。
そこへピントを固定し、たった10ポイントで手に入れたスキルを心の中で唱える。
――【生活魔法:着火】。
「ぎぃやあああああああっ!?」
男が突然、右目を押さえて絶叫し、のたうち回った。
眼球の表面で直接火花を散らされたのだ。ダメージ自体は小さいだろうが、痛みと恐怖は絶大だ。
「な、なんだ!? 魔法か!?」
「どこからだ!」
残る二人が慌てて周囲を見回す。そのタイミングで、俺はあえて足音を立てて袋小路に足を踏み入れた。
脳にダウンロードされた【一般常識・法律パック】と【異世界言語】が、瞬時に最適な言葉と態度を俺の口から紡ぎ出させる。
「おい。俺の『連れ』に何をしている」
低く、冷たい現地語。
俺は服の胸元から【身分証(一般市民)】をちらりと見せた。これがお忍び貴族のマナーであるという情報が先ほど通用したことは自信になっていた。
「そいつは俺が買ったばかりの奴隷でね。まだ言葉を教えていないんだが……遊楽中とはいえ貴族の財産に手を出せば、衛兵の詰め所に連行されることは知っているな?」
ハッタリを堂々と宣告する。
痛みにのたうち回る仲間と、正体不明の魔法攻撃。そして身分証を持つ落ち着いた態度の男。
ゴロツキたちは舌打ちをすると、倒れた仲間を引きずって逃げるように路地裏から去っていった。
静寂が戻った路地裏。
残されたブルーの髪の少女は、へたり込んだまま俺を見上げ、大きな瞳に涙を浮かべた。
「あ、あの……! た、助けてくれてありがとうございますっ! 異世界に来て右も左も分からなくて……私、アイリって言います! 助けてくれた勇者様のお名前は……きゅるんっ!」
上目遣いで、両手を胸の前で合わせるあざといポーズ。
俺は無言で彼女を見下ろし、小さくため息をついた。
「……ナオキだ。それと、周りに誰もいないから、そんな無理してキャラ作らなくていい」
俺が日本語でそう告げた瞬間。
少女――アイリの動きが、ピタッと止まった。
彼女は数秒間まばたきをした後、ゆっくりと両手を下ろし、まるで糸が切れたマリオネットのように壁に寄りかかってズルズルと座り込んだ。
そして、先ほどの可憐な声とは似ても似つかない、ドスの効いた、それでいて心底疲れ切った大人の声で呟いた。
「…………マジで? あー……っ、死ぬかと思ったぁ……! なんなのこの世界、マジふざけんなよぉ……っ!」
彼女は綺麗なブルーの髪をガシガシと乱暴に掻きむしる。
「私、前世じゃ元アイドルってやつでさ!? それでなのかボーナスポイント2000もあったのよ!? だから18歳になって、【超絶美少女アイドル】ってスキルをとって、あとは治癒系スキルと、ステータスとか耐性とかよく分かんないから『全部選択』ポチーッて押したら……言葉通じないわ、変な男に絡まれるわ! あー、もう三十路のメンタルにはキツいっての……!」
……なるほど。
ボーナスポイントの大きさでステータスや耐性を「全選択」したから、彼女は俺のように五感を失っていないのか。だが、ポイントや時間を外見に使いすぎて、情報を取るのを忘れたのか。
「お兄さん日本人でしょ!? マジで助かった! 私、治癒魔法とか取ってるから怪我したら治すし! だから、言葉通じるまで見捨てないでぇ……!」
涙目で俺のズボンの裾を掴み、すがるように上目遣いで見上げてくるアイリ。
その瞬間だった。
『『『【警告】
対象のパッシブスキル【超絶美少女アイドル】による精神干渉(魅了)を検知。
【精神耐性 Lv1】が発動。魅了効果を『極大』から『中』へ軽減します。』』』
「……ッ」
脳内に響いた無機質なアナウンスと共に、心臓がドクンと不自然に跳ねた。
(なるほど。さっきのゴロツキどもが異常に執着していた理由がこれか)
頭の片隅では、あまりにも冷静に状況を分析できていた。中身は三十路のポンコツだ。これは単なるスキルの強制効果に過ぎない。
だが、頭で理解していても、本能が警鐘を鳴らす。
精神耐性レベル1では完全に弾ききれない。目の前の「18歳の超絶美少女アイドル」の涙と懇願は、男の庇護欲を根こそぎ抉り出してくるような、圧倒的で暴力的な魅力に満ちていた。
(くそ、抗えねえ……)
俺は視線をわずかに逸らし、少しだけ早くなった鼓動を隠すように小さく息を吐いた。
言葉が通じない、常識もない三十路のポンコツ。だが彼女は、俺が失った「痛覚・触覚・味覚・嗅覚」を持っている。そして、怪我に気づけない俺にとって絶対に必要な「治癒」ができる。
俺は、触覚のない足元を視覚で確認しながら、なんとか平静を装って口角を上げた。
「……いいだろう。お前が俺の『手足』になり、『舌』になるなら、俺の目と耳と知識は、お前のために使ってやる」
「え!? 舌!? よくわかんないけど やったーっ! お兄さんマジ神! 一生ついてく!」
パァッと花が咲いたような笑顔を見せるアイリ。
その無邪気な姿に再び魅了効果が胸を掠めるのを、俺は内心の舌打ちで誤魔化した。
こうして、強烈な魅了チートを持つ元アイドルと、五感喪失の凡人による、歪で、そして少しだけ危うい共依存パーティが結成されたのだった。




