第三十三話
私と大人たちの間に、決定的な亀裂が走った。
張り詰めた沈黙が戦場に落ちる。私がトウヤ君の手を引き、踵を返そうとした、その時だった。
「……そうか」
ふいに、師匠が大きく息を吐き出した。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。どこか肩の荷が下りたような、そして少しだけ寂しそうな、大人の顔。
「ルカ。……お前の言う通りだ。俺のエゴで、お前の大事な奴の心を天秤にかけたこと、謝る。悪かった、本当に、申し訳なかった。トウヤ、試すような真似をして、本当にすまなかった。」
「師匠……」
「お前はもう、自分の足で立って、自分の意志で理不尽をぶっ飛ばせる……」
師匠はそう言うと、懐から皮袋と、一枚の紙切れを取り出し、私ではなくトウヤ君に向かって放り投げた。
「えっ? な、ナオキさん……これは?」
「ミヤビを匿ってる街のホテルの鍵と地図だ。それと、当面の路銀だ。『アイテムボックス』のスキルだって嘘ではないだろ、突っ込んどけ」
慌てて受け取るトウヤ君に、師匠はニヤリと笑った。
「戦闘じゃもう誰もルカに勝てねぇだろうが、あいつは生活能力が皆無だ。……トウヤ、あいつの日常は、お前がちゃんと守ってやれよ」
「……はいっ! 命に代えても!」
トウヤ君が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、深く頭を下げた。
「ルカちゃん……」
アイリさんが、目を真っ赤にして歩み寄ってくる。
いつの間に持ってきたのか、彼女の手には、昨日まで私と一緒に街で買ったばかりの、新しい着替えや日用品が詰まった鞄が握られていた。
「子供扱いして、ごめんね。私たち、ルカちゃんに『外の世界は楽しいんだよ』ってことばかり教えようとして……ルカちゃんが本当はもっと強くて、優しい子だってこと、見落としてた」
アイリさんは、その鞄をトウヤ君に預けると、私の前に来て、ふわりと優しく抱きしめてくれた。
「……アイリ、さん」
「いっぱい、美味しいもの食べてね。いろんな景色を見てね。ルカちゃんのこれからの旅が、どうか最高のものになりますように」
背中を叩くその手の温もりは、今までと何も変わらない。
かつて結界の中に引きこもり、他人と関わることを拒否した私に、愛情を教えてくれたのも、この温かさだった。戦闘を終えて頭が冷えてきた今の私には、この温もりが『呪い』ではなく、ただの『純粋な祈り』だと分かった。
「……ありがとう、ございます」
私が小さく呟くと、アイリさんは満足そうに微笑んで離れた。
「お待ちください、ルカ様!」
背後から、いつもはこういう時は冷静なはずのツカサさんの、ひどく切羽詰まった声が響いた。
振り返ると、ツカサさんが眼鏡がズレるのも構わずに、数歩こちらへ駆け寄ってきていた。
「貴女たちだけでこの先を行くなど、生存確率から見ても非合理的極まりない。私も同行し、情報収集と後方支援、それに――」
「いらないっす、ツカサさん」
私は、静かに彼女の言葉を遮った。
「もう、大人の過保護な箱の中には戻らないっす。私は私の足で、トウヤ君と一緒に歩くっすから」
その言葉を聞いて、ツカサさんの顔がぐしゃりと歪んだ。
いつもなら「そうですか、では勝手に死になさい」とでも言って冷たく切り捨てるはずの彼女の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「ですがっ……! 貴女は、まだ子供です……っ! 外の世界は残酷で、不潔で、危険だらけなのに……っ!」
ツカサさんは、もう合理性もへったくれもない、ただの泣きじゃくる子供のような声で叫んだ。
「貴女は料理もできないじゃないですか! 夜はすぐ布団を蹴飛ばすし、寝相だって悪いのに……誰がお腹に毛布をかけ直すんですか! もし風邪を引いたら? もし悪い大人に騙されたら? 痛い思いをして、誰にも助けてもらえなくて、一人で泣くことになったら……私が傍にいなければ、誰が貴女を抱きしめてあげるというのですか……ッ!!」
それは、私が前世からずっと欲しかった、ただの純粋で、不器用で、重たすぎるくらいの「家族の愛」だった。
「……私は、ただ……ルカ様にはずっと、温かくて安全な場所で、笑っていてほしかっただけなのに……っ、うわぁぁぁん……っ!」
ついにツカサさんは両手で顔を覆い、声を上げて泣き崩れた。
普段はポンコツだけど、合理的で肝心な時はみんなが頼りにしているツカサさんが、しゃくり上げながら必死に私を引き止めようとしている。
師匠もアイリさんも、そんなツカサさんを止めることはしなかった。ただ、優しく、寂しそうに見守っている。
私は、泣きじゃくるツカサさんの元へ一歩だけ歩み寄り、その頭を不器用にポンポンと撫でた。
「ツカサさん……ずっと守ってくれて、ありがとうっす」
肩を震わせたツカサさんは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、私の後ろにいるトウヤ君をギロリと睨みつけた。
「ト、トウヤ様……っ! ルカ様の身の回りの世話は……ぜ、全部、貴方に一任します! 毎日三食、お肉だけじゃなく野菜もちゃんと食べさせるのですよ……!」
「ひぃっ!? は、はいっ! 命に代えても!」
「お風呂には毎日入れさせて……それから、温かい紅茶を……ひっ、ぐゅ……少しでも怠ったら、私が地の果てまで追いかけて解体しますからね……!」
そして、ツカサさんは震える手で私の頬にそっと触れた。
「怪我をしたら……私がいなくて、痛い思いをして泣こうものなら……絶対に、許しませんからね……っ」
それは、ツカサさんなりの不器用すぎる「愛してる」の言葉だった。
「……はいっす」
私は、必死に込み上げてくるものを飲み込んだ。
ここで私が泣いて振り返ってしまったら、またあの優しくて温かい箱の中に逆戻りしてしまう。だから、私は絶対に前だけを向いて、背中越しに言葉を紡いだ。
「じゃあ……行ってくるっすよ」
小さく手を振り、私は歩き出す。
チートが支配する理不尽な世界。そのど真ん中へ、私とトウヤ君の二人だけで。
もう、振り返ることはなかった。




