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第一話


――空中に、いた。


足元がない。地面が“近い”。距離感だけが異様に正確で、俺の脳は一瞬で今の状況を理解する。

 落下高度、約二メートル。


「は――」


声にならない息が漏れた次の瞬間、世界が暴力的な力で“下”へ引っ張られた。


ドンッ――。


石畳に叩きつけられた。

 ……はずだった。


衝撃の痛みが、ない。擦れたはずの頬の熱も、骨が軋んだ感覚もない。なんだ? なにか感覚がおかしい。自分が地面に叩きつけられた時に発生するはずの痛みが、よく分からない。

 そんなことを考える間もなく、無機質なアナウンスのような声が直接脳内に響いた。


『『『【警告】

只今より、言語・一般常識等の脳内DLダウンロードを開始します。

対象者は【情報耐性 Lv0】のため、処理負荷が極大。注意してください。』』』


「……ッ、ぐ……!」


知らない言語、常識、法律、身分制度、貨幣、罪と罰、街の規則、ギルドの仕組み、冒険者の階級、商取引の相場、礼儀作法。

 それはただの知識じゃない。情報の大洪水が、頭蓋の内側から俺の脳細胞を力任せに押し広げていく。


痛みがないのに、苦しい。吐き気の感覚すら薄いのに、脳だけが限界を叫んで焼き切れそうになる。視界が真っ白に明滅し、再びアナウンスが警告を発する。


『『『【警告】

対象者は【痛覚 Lv0】のため、肉体が異変に気づくことができません。このままでは脳がショートします。』』』


そうか。これが、あの白い空間で神が仕掛けた『デフォルト設定の罠』。

 くそっ、俺は痛覚を――命の危険を知らせるアラームを奪われたのか。


『――こいつも即死か』


最後に、神の嘲笑うような声が聞こえた気がした瞬間。

 俺の意識は、そこでぷつりと途切れた。



「おい。……生きてるか?」


声で、強制的に意識が浮上する。

 視界を開くと、石畳の模様がやけに精密に見えた。石のひび割れ、這い回る虫、苔の一本一本まで。耳は、周囲のざわめきを異常なほどに拾い上げている。


「倒れてたぞ」

「酔っぱらいか?」

「服が変だ」

「触るな、呪いかも」


俺はゆっくりと上体を起こす。だが、腕で地面を突いて起き上がる“感覚”がない。ただ、視界の高さが変わることで「自分が起きた」と脳が判断するだけだ。

 目の前に、腰に短剣を下げた男が立っていた。革鎧を着込み、腕には歴戦の筋肉。目つきは荒いが、殺気を放つような目じゃない。


「……大丈夫だ。助かった。礼を言う」


言葉が自然に口から出た。脳内DLが、この世界における喋り方の“作法”まで強制的に俺の舌へ押し込んでいた。

 男は俺の胸元をちらりと見た。


「身分証持ちだろ。見えるようにしてやがる。……なら放っとくよりマシだと思ってな。気づいたらここに倒れてたぞ。もう少し遅けりゃ、身ぐるみ剥がれてたな」


盗まれる。なら、なぜこいつは俺から盗まなかった?

 俺は反射的に、脳内DLで得たばかりの“常識”のインデックスを引っ張り出す。


(――一般市民は身分証を取られないよう金庫に預けるか家に隠し、必要な時は隠して持ち歩く。胸元で見えるように一般市民の身分証をぶら下げるのは、お忍び貴族が一般市民に偽装し、あえて見せることで詮索防止と牽制にするため)

(――貴族を助けた場合の礼金は多いが、お忍びの場合は多すぎるとよくない。今回のケースでは相場・銀貨5枚)


なるほど。こいつは良いやつなんだろうが、打算(礼金)も目的か。そして、“やりすぎない”のが正解だ。

 俺は腰のあたりを探る。……手探りができない。触覚も失っているせいで、指先が布に触れている感覚すらないのだ。


俺は視覚でいちいち自分の手の動きを確認しながら、服の内側の小袋を見つけ、もどかしく紐をほどく。

 中には硬貨が入っている。指先の感触ではなく、目で見て色と模様で判別する。


金貨。……これはまだ出せない。こんな路地裏で金を出せば、今度こそ盗賊に目をつけられると、DLされた常識が警鐘を鳴らしていた。

 俺は銀貨を5枚取り出した。日本円でおよそ五千円程度。身分証を奪われなかったことを思えば安い気もするが、相場通りだ。問題ないだろう。


男に手を差し出す。


「……これ。礼だ。助かった」


男は一瞬だけ目を細めたが、銀貨の枚数を見て、鼻で笑うでもなく、拒むでもなく、それを受け取った。


「まあ、いい酒代だな。もらっとくぜ。……倒れた理由は知らんが、この辺りで寝るな。次は助けてくれるやつばかりじゃない。じゃあな」

「……あぁ、じゃあ」


分かってる。脳内の知識で痛いほど――いや、痛覚はないが、理解はしている。

 男が去った後、俺は立ち上がる。足の裏が地面を踏みしめる感覚すらないまま、世界が高くなる。ひどくフワフワとした、視界だけが現実を証明する不気味な肉体。


「……なんだこれ」


やはり、視界がおかしい。景色が鮮明に見えるとか、そんなレベルではない。

 無意識に遠くへピントを合わせた瞬間、俺の視界は「生物の常識」を完全に置き去りにした。


石造りの建物の分厚い壁が、薄いセロハンのように透けて見える。

 日が落ちて漆黒に沈みかけていた路地裏が、真昼のように明るく見通せる。

 極めつけは距離だ。視線を上げれば、街の城壁を越え、深い森を抜け、優に百キロは離れているであろう隣町の尖塔の欠け具合までが、まるで顕微鏡を覗き込んだかのようにハッキリと見えたのだ。


「百キロ先まで見える上に、透視に暗視だと……? いやいや、いくらなんでもやりすぎだろ」


驚きはそれだけではない。

 ふと耳を澄ませば、三つ先の通りにある重厚な石造りの商館の中から、商人が金貨を数える『チャリン』という硬質な音や、「明日の競売は……」というヒソヒソ声の密談までが、すぐ耳元で囁かれているかのように聞こえてきた。


「聴力強化なんて、一番安い5ポイントの『レベル1』しか取ってないはずだぞ? 視力強化だって『レベル3』の15ポイントだ」


俺は呆れ半分で首を振った。


「これが異世界の『スキル』ってやつか。こんな基礎スキルでこれなら、何千ポイントもする『本物のチートスキル』を取った連中は、一体どんだけデタラメな能力を持ってるんだよ……」


……まあ、最後のほうにスキルを取れたのは幸運だった。代わりにデフォルト設定を見落としたことで、とんでもない不便を強いられることになったが。

 まずは、生き残る基盤を作るしかない。

 生活。拠点。安全。

 そして――この喪失した『感覚』を取り戻す方法。


この世界には、ステータスがある。スキルがある。魔法だってある。

 なら、失われた感覚を取り戻す手段も、必ずどこかにあるはずだ。


俺は、どこへともなく足を向けようとし――。


「いやあああああああああッ、助けてくださいいいい!」


不意に、少女の悲痛な叫び声が鼓膜を打った。

 俺は思わず立ち止まり、異常強化された視力と聴力のピントを、その声の発生源へと合わせるのだった。

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