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間章~アイリの想い②~

———side アイリ


「……あの」


背後から、思い切って声をかける。

 振り返った彼は、何も咎めずにただ静かに見下ろしてくれた。


「隣、座るか」

「……うん」


彼が隣の岩場を促してくれたけれど、私は小さく頷き、彼と少しだけ距離を離したところに腰を下ろした。

 隣になんて、堂々と座れない。

 パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが、二人の間に響く。


「……ごめんなさい」


彼の名前を呼べない。目も合わせられないまま、私は消え入るような声で口を開いた。


「気にするなと言っただろ。全部、あの領主の洗脳スキルのせいだ」

「違うっ……!!」


優しい言葉で慰めようとしてくれるのを、私は強い声で遮った。

 彼が驚いて顔を向ける。私はドレスの裾を白くなるほど強く握りしめ、ポロポロと大粒の涙をこぼしていた。


「洗脳のせいだけじゃない……! あの時、この場所で返り血で真っ赤に染まったあなたを見て、私……本当にちょっとだけ『怖い』って、思っちゃったの……!」

「…………」

「誰かを助けるために命を懸けてくれてるのに! 助けに来てくれたのに! それを見て、美しいって思ったのに! かっこいいって、思ったのに。一瞬でも『化け物みたいだ』って、怯えちゃったの。あんな酷いこと言ったの、全部が嘘じゃなかったのよ……っ!」


自傷するように、自分の醜い本音を吐き出す。

 私を助けるためにボロボロになってくれた彼を、一瞬でも化け物扱いしてしまった。そんな最低な自分の感情が、許せなかった。軽蔑されても仕方ないと思った。


「……事実だろ。俺はお前を助けるためなら、何十人でも殺す。俺のやり方は異常だ。お前が吐き気を催して、軽蔑するのは正常な感性だ。俺たちは日本人として、法の下に生きてきたわけだしな。俺のやっていることは日本なら正当防衛の範疇をとうに超えている。俺はただの犯罪者だ」


けれど、彼は自嘲気味に笑い、自分の血に塗れた両手を見下ろして、あっさりと自分を貶めた。

 そうやっていつも、彼は自分から傷を負いに行く。


「嫌なら、これで縁を切ってもいい。お前は俺に助けられ、俺はお前に助けられた。借りはこれでチャラに――」

「なんでそうやって、自分を責めるのよ!!」


私はたまらず、彼の胸をドンッと小さな両手で叩いた。

 どうしていつも、自分が泥を被って、一人で遠ざかろうとするの。


「嫌だなんて言ってない! 私は、そんな酷いことを思っちゃった自分が許せないの! 最低の人間だから、あなたの隣にいる資格なんかないって……!」

「……」

「それに……! 私にも『魅了』のスキルがある! 私を助けに来てくれたのも、あんなにボロボロになって人を殺してまで私を守ろうとしたのも、全部私のスキルのせいかもしれないじゃない! 私の言葉も、感情も、全部あなたが感じているのは偽物かもしれないのに……!」


ずっと、それが一番恐ろしかった。

 私に向けられる彼の優しさも、自己犠牲も、もしかしたら私の『魅了スキル』が強制しているシステムなんじゃないか。私自身が、無意識に彼を操る化け物になっているんじゃないか。


偽物の好意で彼を縛り付けているとしたら。いつか本当の彼に戻った時、私は確実に捨てられる。

 その罪悪感と恐怖に押し潰されそうになって、私は彼の名前を呼ぶことすらできなくなっていた。


「……いい加減にしろ」


不意に、私の震える肩を、彼が両手でガシッと強く掴んだ。

 強制的に顔を上げさせられる。涙でぐしゃぐしゃになった私の瞳を、彼の真っ直ぐで、射抜くような強い視線が捉えた。

 ゴツゴツとした、大きくて固い手。痛いくらいの力なのに、そこから伝わる不器用な熱が、なんだか酷く『男の人』らしくて……私の心臓が、トクンと大きく跳ねた。


「この場所で、俺を救ってくれたアイリの言葉を、行動を、勝手にスキルのせいにするな」

「……っ」

「俺には精神耐性がある。知ってるだろ。それにこの良すぎる視力で、相手の筋肉の動きや脈拍が見える。嘘を吐いていればすぐにわかる。そして何より、アイリ自身から出る言葉は、スキルなんかで捻じ曲げられた薄っぺらいものじゃない」


――この場所で、俺を救ってくれた。

 その言葉で、私の脳裏にあの日の記憶が鮮明に蘇る。


そう、ここはあの盗賊のアジトだった場所だ。

 あの日。盗賊の刃を受け、血だまりの中で命の灯火が消えかけていた彼は、私に向かって自嘲するように、でもどこか満足げに笑って言ったのだ。


『こんな欠陥品の俺でも……誰かを救って、役に立って死ねるんだな……』


自分の命をただのチップのように扱い、使い潰すことでしか自分の存在価値を見出せない彼の、呪いのような独白。


それを聞いた瞬間、私は悲しみよりも何よりも、激しい『怒り』で頭が真っ白になった。


『――ふざけんなッ!!』


私は重症の彼の胸ぐらを血まみれの手で乱暴に掴み、鼻先が触れ合うほどの至近距離で、泣き叫びながら怒鳴りつけた。


彼を失いたくない。生きていてほしい。

 それはスキルなんかじゃない。私が転生してから初めて、見栄も体裁もかなぐり捨てて他人にぶつけた、ただの醜くて身勝手な感情だった。


「あの時の言葉は……アイドルとして高みに至ったアイリの、本質から出たエゴだ。決して俺をたぶらかすための言葉じゃなかった。ただ騙すだけなら、もっと他に優しい言葉はいくらでもあっただろ。でも違った。お前は俺に『自分のために生きろ』と言ったんだ。その飾らない本質の美しさに、俺は救われたんだよ」


彼が真っ直ぐに私に告げる。

 その言葉には、一片の嘘もなかった。

 彼の心の中に、私の飾らない言葉が、ちゃんと一番大切なものとして残っていた。それがたまらなく嬉しくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「あ……」

「お前の前でだけは、俺は他人のためじゃなく、少しだけ自分の欲望を剥き出しにした自分でいられる。だから俺には、アイリが必要なんだ。お前がいなければ、俺はまた無責任に誰かのために命を投げ出して、遺された者に責任を押し付けることになる。今日のルカに、そうしそうになったようにな」


彼の声が、少しだけ震えていた。

 いつの間にか彼に染みついていた、誰かのためになら死んでもいいという異常な考え方。それを止めたのが、私だと言ってくれた。


「……ルカだって、アイリの言葉で救われたはずだ。アイリ、俺じゃない。お前なんだよ」

「ナオキ……」

「俺が生き残れて、今ここにいるのは……アイリ。お前の言葉のおかげなんだ」


彼の瞳が、ひどく揺らいでいる。


「それはずっと、ずっと、俺が前世でほしかった言葉で……」


ポツリ、と。

 彼の頬を、熱いものが伝った。

 大粒の涙が、血塗られた服の上に染みを作っていく。


(……泣いてる)


息が止まりそうになった。

 前世で、一体どんなに理不尽な目に遭ってきたのだろう。自分の体が焼け焦げても、人を殺しても、決して表情を変えなかった彼が。今、私の目の前で、初めて涙を流していた。

 あんなに強くて、恐ろしい魔法を使うのに。本当は誰よりも傷ついていて、誰かの言葉に救われたくて、ずっと一人で震えていたのだ。


「ありがとう。この場所であの時、俺を踏みとどまらせてくれて。俺を救ってくれて。俺のすべてを肯定して、否定してくれて。……ありがとう」


言っている言葉も、論理もめちゃくちゃだ。

 でも、言葉が、感情が、次から次に溢れてきて止まらない彼の姿を見て、私の胸の中にあった「スキルのせいかもしれない」という冷たい疑心暗鬼が、跡形もなく溶けて消え去っていくのが分かった。


どうしようもなく、愛おしい。

 この人の、不器用で情けない、でも底抜けに優しいこの涙を。私以外の誰にも見せたくないと思ってしまった。


彼は私の肩から手を離し、代わりに私の瞳を、まるで怯える子供のように見つめた。


「俺は、自分のために生きることにした。だから……アイリとずっと一緒にいるんだ。……そんな理由じゃ、ダメか?」


打算も論理もない、ただの彼のどうしようもないほど情けない、心からの願い。

 それがおかしくて、可愛くて。


私は少しだけ驚いたように目を見開いた後……ずっとせき止めていたものが溢れ出すように、泣き笑いのような笑顔を浮かべていた。


「……ほんとに。言葉、めちゃくちゃじゃない」


私はすすり泣きながら両手を伸ばし、彼の頬を伝う涙を、指先でそっと掬い取った。

 ひどく熱くて、彼の命の温度が直接伝わってくるような涙だった。


「自分のために生きるのに、私と一緒にいるの? それって、全然自分のためだけじゃないよ」

「……そうか?」

「そうだよ。……でも、すっごく嬉しい」


私の瞳からも、再びポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 先ほどまでの自己嫌悪の涙じゃない。ひどく温かい感情で、心が満たされていく。


「私ね、ずっと怖かったの。自分の嫌なところを見られたら、見捨てられるんじゃないかって。……中身は可愛げのない三十路だし、魅了スキルなんて不気味なもの持ってるし。若いルカちゃんみたいな、本物じゃない。偽物だって」


若返っても、スキルがあっても、中身のすり減った私は、偽物なのかもしれない。そう思っていた。

 でも、もう背伸びなんてしなくていい。アイドルとしての完璧な作り笑いでもなく、洗脳されているときの大げさな表情でもなく。ただの『等身大の女の子』として、私は彼の胸にコトンと額を押し当てた。


「だから……名前も呼べなくなってた。嫌われたくなくて、遠ざけてた」

「……」

「でも……ナオキがそんな子供みたいな理由で私と一緒にいたいって言ってくれるなら。私も、三十路のあざとさもアイドルのプライドも全部捨てて、ただの『アイリ』として我儘になる」


私は涙を袖で乱暴に拭うと、今度は自分から、彼の背中に腕を回してギュッと強く抱きついた。


「……バカ。ナオキの、ばか」


また普通に呼べるようになった、彼の名前。

 その響きには、嘘偽りのない私の確かな熱と、どうしようもないほどの独占欲がこもっていた。


「もっと自信もってロマンチックな言葉はないわけ? だっさいプロポーズ……!」


彼の広く硬い胸に顔を埋めたまま、私は小さく笑う。

 血と汗と、土埃の匂い。だけど、その奥底にある彼自身の少し不器用で安心する匂いに包まれて、全身の力が抜けていく。


「でも、ぜっったいに離してあげないからね。ずっと隣で責任とりなさいよ……ナオキ」

「……ああ。喜んで背負わされるよ」


ナオキもまた、私の確かな体温を感じながら、背中にそっと大きな腕を回してくれた。

 私は彼の服の背中を、絶対に離さないとばかりにギュッと強く握り返す。


焚き火の炎が、静かにパチパチと爆ぜる。


国中を敵に回した。これからまたどうなるかなんてわからない。

 だけど、私の腕の中にあるこの温もりと、私の背中を包む彼の大きな手だけが――今の私にとって、この理不尽な異世界で生きるための、たった一つの確かな『理由』だった。


* * *


「……そうだ、アイリ」

「ん? なに、ナオキ」


不意に呼ばれて顔を上げると、ナオキが、さっきまでのしんみりした顔から一転、なんだか意地悪そうなニヤニヤ顔になっていた。


「『手も出してこないヘタレ野郎』って言ったこと。……あれも本心か?」


――ッ!?


全身の血が顔に集まるのが分かった。ボンッ! と音が鳴りそうなほど熱い。


「も、もう! それはノーカンだってば!」


私は奥で寝ている二人に聞こえないよう声を押し殺し、ポカポカと彼の胸を叩いた。

 からかわないでほしい。あれは領主が無理やり言わせた言葉だと思いたい。……でも。


「……でも、いいと思ってるよ。その、ナオキとなら」

「……」


自分の口から出た言葉に、さらに顔が熱くなる。

 ナオキとなら、そういうことをしてもいい。ううん、むしろ……少し、してほしいって、思ってる。


だけど、問題はそこじゃない。


「でも……ナオキはまだ、身体の感覚が全部戻ってないでしょ? そのせいで性欲もほとんどなくなっちゃったみたいだし。だから、私だけそういうことしても……不公平っていうか、申し訳ないっていうか……」


モジモジと指を絡ませながら、一番気になっていたことを正直にこぼす。

 どうせするなら、ナオキにもちゃんと、感じていてほしいから。私だけなんて、寂しい。


すると、ナオキの肩が微かに震え……彼が私の肩をグッと引き寄せてきた。

 耳元で、甘い低音が囁かれる。


「治癒魔法のレベルアップで、『温度感覚』は戻ったって言ってただろ。お前のその熱い体温も、ちゃんと感じてる」

「あっ……」

「じゃあ、お礼はしても、いいんだな?」


――えっ?


顔を向けた瞬間、ナオキの整った顔が目の前に迫ってきた。

 キスされる。そう本能で理解した瞬間、私の頭のキャパシティは完全にショートした。


「だ、だめぇっ!!」


唇が触れる数ミリ手前で、私は両手でギュッとナオキの口を塞いでしまった。

 自分から「いい」って言ったくせに! でも、でも!


「ま、まだそういうのは心の準備が! ていうか、後ろでツカサさんたち寝てるし! 見張りの途中でそういうことするのは不純ですっ!」

「なんだ。あんな大胆なこと言っておいて、急にピュアだな。びっくりするだろ」


塞いだ手越しにくぐもった声で笑うナオキ。

 こんなの、焦るに決まってるじゃない!


「え、でもでもでも! 女の子はこういうの、もっとロマンチックなベッドの上って相場が決まってるの!」


必死に言い訳を並べる私を見て、ナオキはたまらず、小さく声を立てて笑った。


「……っ、笑わないでよ! ばかナオキ!」


恥ずかしさをごまかすように彼の腕を抓る。

 痛くないのは分かっているけれど、彼は私の小さな手を優しく握り直してくれた。


「……冗談だ。ちゃんと、もっと安全で綺麗なベッドのある街に着くまで我慢するさ」

「……うんっ」


からかわれたことに気づいて、私は少しだけホッと息を吐いた。

 私をいつもの調子に戻して、笑顔にさせるための、彼なりの不器用な優しさ。本当に、この人はずるい。


私は安心して、再び彼の肩にコトンと頭を預けた。

 綺麗でロマンチックなベッドなんて、そんなものあるのかな。今の焚き火のシチュエーションのほうが十分ロマンチックだ。


でも、彼がそうやって「私との未来の続き」を約束してくれたことが、今は何よりも嬉しくて、私は顔が綻んでいた。

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