第十九話
白昼堂々、領主を暗殺し、館を半壊させた。
俺たちはもう、この街の冒険者ギルドには戻れない。正真正銘、国を敵に回した大罪人だ。
「……傷、塞がりました。もう、動けるはずです」
瓦礫だらけの踊り場。淡い光を放つ手のひらを俺の胸から離し、アイリがポツリと呟いた。
彼女の【治癒】の魔法により、俺の全身を覆っていた酷い火傷と裂傷は、痛みを伴いながらも急速に塞がっていった。
「助かった。アイリがいなかったら、マジで死んでたな」
「…………」
俺が労いの言葉をかけても、アイリはコクッと小さく頷くだけで、決して俺と目を合わせようとはしなかった。
なぜか俺の名前すら呼ばず、どこか気まずそうに視線を逸らしている。
(……洗脳の後遺症か? いや、今はそれよりも……)
疑問は尽きなかったが、俺はすぐにその思考を打ち切った。今はアイリの心理状態を深掘りしている余裕はない。四方から、爆発騒ぎを聞きつけた大量の衛兵たちの足音と怒号が迫ってきているのだ。
俺は立ち上がり、【超視覚】で周囲をスキャンした。
ツカサの放った『崩星』の威力は凄まじく、領主の館の広大な敷地の大半は、えぐれたようなクレーターと瓦礫の山と化していた。
チート領主の姿は、跡形もない。
だが、俺の視界は、領主が吹き飛んだと思われる空間の中心で、瓦礫に埋もれながらも『ひときわ強い魔力反応』を放っている小さな物体を捉えていた。
(……あれは)
俺は指先から糸を伸ばし、数十メートル先の瓦礫の隙間にそれを器用に滑り込ませた。そして先端をフックのように変形させ、その物体を引っ掛けて手元へと一気に引き寄せる。
手の中に収まったのは、黒い宝石があしらわれた豪奢なネックレスだった。
(さっき奴がテレポートで戻ってきた時に放っていた、空間を歪める魔力波長……それと完全に一致している)
恐らく、あのチート領主が瞬間移動に用いていた魔力媒体だ。
「あははっ! さすが私! ご主人様の完璧な指示のおかげですわ!!」
そこへ、崩れた外壁の下から、右目から一筋の血を流したツカサが能天気な声で合流してきた。土埃にまみれながらも、その顔にはやり切ったコンサルタント特有のドヤ顔が浮かんでいる。
「ツカサ。お前には本当に助けられた。お前がいなかったら、俺たちはここで全滅していた。……ありがとう」
「ふぇっ……!?」
俺が真っ直ぐに目を見て心からの礼を告げると、ツカサは予想外の言葉だったのか、一瞬だけ間の抜けた声を出し、直後に顔を真っ赤にしてブルブルと身震いした。
「あ、あぁっ……! ご主人様からの直接の労い(フィードバック)……! 脳髄がとろけそうです、最高のブラック労働でしたわ……っ!!」
「……喜んでるならいい。急ぐぞ、囲まれる前にここから飛ぶ」
俺は拾い上げたネックレスを三人の前に掲げた。
「ツカサ、ルカ、アイリ。今からこのネックレスの力で安全な場所まで転移する。俺と手を握れ。そしてルカ、俺たち四人を包むように【絶対防御】を展開しろ」
「えっ? は、はいっす!」
ルカが慌てて俺の右手を握り、光の結界で俺たち四人を完全に包み込む。空間転移という未知の魔法を移用するため、万が一の保険だ。
ツカサが興奮気味に俺の左腕に抱きつき、最後に残ったアイリが、躊躇いながらも、そっと俺の服の裾を掴んだ。
「……アイリ。しっかり腕を握れ。服だと転移魔法の範囲外になる可能性がある」
「……はい」
アイリの小さな手が、俺の手首をギュッと強く握りしめる。
俺は目を閉じ、ネックレスに魔力を流し込みながら、かつて一度だけ訪れたことのある『明確な座標』を脳内に強く思い描いた。
それは、俺たちがルカを助け出し、そして俺が救われた、あの跡地。
「飛ぶぞ」
直後、ネックレスの黒い宝石が強烈な光を放つ。
俺たちの身体は、【絶対防御】の結界ごと空間の歪みに呑み込まれ――怒号と喧騒に包まれた王都の領主の館から、跡形もなく姿を消した。
* * *
王都から数キロ離れた地点。つい先日、俺とアイリが殲滅した『盗賊団のアジト』の跡地に無事転移できた。
俺たちはアジトから衣食住に必要なものをかき集め、まだ形を保っていた広めの建物の中に居住スペースを確保できた。作業がひと段落したころには、かなりの時間がたっていた。
ツカサが「さすがに過剰労働です……」と椅子にもたれかかっている。
「ツカサ、ルカ。お前たちは奥で休んでいろ。見張りは俺がやる」
「いえ、ご主人様。まずは私が――」
「いいから休め。お前たちの力がなければ、今頃俺たちは全員死んでいた。……本当に、助かった」
俺が素直に頭を下げると、ツカサは目を丸くした後、嬉しそうに「もったいないお言葉です」と微笑み、ルカも「えへへ、師匠の役に立てたなら何よりっす」と照れくさそうに笑った。二人は作った寝室用スペースの奥へと引っ込み、毛布にくるまってすぐに休み始めた。
静まり返った建物の入り口付近。もう外は薄暗くなっていた。
俺は【生活魔法:着火】で少し離れたところに小さな焚き火を起こし、その揺らめく炎を見つめていた。
「……あの」
背後から、おずおずとした声がかけられる。
振り返ると、汚れのついたドレス姿のアイリが、泣き腫らした目で俺を見下ろしていた。
「隣、座るか」
「……うん」
俺が隣の岩場を促すと、アイリは小さく頷き、俺と少しだけ距離を離したところにちょこんと腰を下ろした。
パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが、二人の間に響く。
「……ごめんなさい」
俺の名前を呼ばない。目も合わせようとしないまま、アイリが消え入るような声で口を開いた。
「気にするなと言っただろ。全部、あの領主の洗脳スキルのせいだ」
「違うっ……!!」
慰めようとした俺の言葉を、アイリが強い声で遮った。
驚いて顔を向けると、アイリはドレスの裾を強く握りしめ、ポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
「洗脳のせいだけじゃない……! あの時、この場所で返り血で真っ赤に染まったあなたを見て、私……本当にちょっとだけ『怖い』って、思っちゃったの……!」
「…………」
「誰かを助けるために命を懸けてくれてるのに! 助けに来てくれたのに! それを見て、美しいって思ったのに! かっこいいって、思ったのに。一瞬でも『化け物みたいだ』って、怯えちゃったの。あんな酷いこと言ったの、全部が嘘じゃなかったのよ……っ!」
アイリは自傷するように、自分の醜い本音を吐き出した。
それは、普通の心優しい女の子である彼女にとって、俺の血塗られた姿が間違いなく「異常」に映ったという残酷な事実だった。
「……事実だろ。俺はお前を助けるためなら、何十人でも殺す。俺のやり方は異常だ。お前が吐き気を催して、軽蔑するのは正常な感性だ。俺たちは日本人として、法の下に生きてきたわけだしな。俺のやっていることは日本なら正当防衛の範疇をとうに超えている。俺はただの犯罪者だ」
俺は自嘲気味に笑い、自分の血に塗れた両手を見下ろした。
「嫌なら、これで縁を切ってもいい。お前は俺に助けられ、俺はお前に助けられた。借りはこれでチャラに――」
「なんでそうやって、自分を責めるのよ!!」
アイリが俺の胸を、ドンッと小さな両手で叩いた。
「嫌だなんて言ってない! 私は、そんな酷いことを思っちゃった自分が許せないの! 最低の人間だから、あなたの隣にいる資格なんかないって……!」
「……」
「それに……! 私にも『魅了』のスキルがある! 私を助けに来てくれたのも、あんなにボロボロになって人を殺してまで私を守ろうとしたのも、全部私のスキルのせいかもしれないじゃない! 私の言葉も、感情も、全部あなたが感じているのは偽物かもしれないのに……!」
自分のスキルのせいで、俺の本当の気持ちすら歪めているのではないか。
自分はあの領主と同じで、人の心を操っているのではないか。
そのどうしようもない罪悪感と恐怖に押し潰されそうになりながら、彼女はずっと耐えていたのか。
「……いい加減にしろ」
俺は、震えるアイリの肩を両手でガシッと強く掴んだ。
強制的に顔を上げさせ、涙でぐしゃぐしゃになった彼女の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「この場所で、俺を救ってくれたアイリの言葉を、行動を、勝手にスキルのせいにするな」
「……っ」
「俺には精神耐性がある。知ってるだろ。それにこの良すぎる視力で、相手の筋肉の動きや脈拍が見える。嘘を吐いていればすぐにわかる。そして何より、アイリ自身から出る言葉は、スキルなんかで捻じ曲げられた薄っぺらいものじゃない」
例えどれだけ本人が否定しようと、俺だけは絶対に忘れない。
「あの時の言葉は……アイドルとして高みに至ったアイリの、本質から出たエゴだ。決して俺をたぶらかすための言葉じゃなかった。ただ騙すだけなら、もっと他に優しい言葉はいくらでもあっただろ。でも違った。お前は俺に『自分のために生きろ』と言ったんだ。その飾らない本質の美しさに、俺は救われたんだよ」
それは今の俺の、偽りざる本心だった。
「あ……」
「お前の前でだけは、俺は他人のためじゃなく、少しだけ自分の欲望を剥き出しにした自分でいられる。だから俺には、アイリが必要なんだ。お前がいなければ、俺はまた無責任に誰かのために命を投げ出して、遺された者に責任を押し付けることになる。今日のルカに、そうしそうになったようにな」
自分の命をチップにして、平然と他人に十字架を背負わせようとする異常性。誰かのために生きなければ、自分の存在価値はないという強迫観念。
いつの間にか、当たり前に俺に染みついていた行動原理だった。
「……ルカだって、アイリの言葉で救われたはずだ。アイリ、俺じゃない。お前なんだよ」
「ナオキ……」
「俺が生き残れて、今ここにいるのは……アイリ。お前の言葉のおかげなんだ」
「それはずっと、ずっと、俺が前世でほしかった言葉で……」
ポツリ、と。
気づくと、俺の頬を熱いものが伝っていた。
大粒の涙が、血塗られた服の上に染みを作っていく。
「ありがとう。この場所であの時、俺を踏みとどまらせてくれて。俺を救ってくれて。俺のすべてを肯定して、否定してくれて。……ありがとう」
言っている言葉も、論理がめちゃくちゃだ。
前世から今まで、どんなに理不尽な目に遭っても泣くことなんてなかった俺が。初めて、他人の前で涙を流していた。
言葉が、感情が、次から次に溢れてきて止まらない。
俺はアイリの肩から手を離し、代わりに彼女の瞳を怯えるように見つめた。
「俺は、自分のために生きることにした。だから……アイリとずっと一緒にいるんだ。……そんな理由じゃ、ダメか?」
それは、打算も論理もない、ただの俺のどうしようもないほど情けない、心からの願いだった。
俺の言葉を聞いたアイリは、少しだけ驚いたように目を見開き……すすり泣きながら両手を伸ばし、俺の頬を伝う涙を、その小さな指先でそっと掬い取ってくれた。
「……ほんとに。言葉、めちゃくちゃじゃない」
「自分のために生きるのに、私と一緒にいるの? それって、全然自分のためだけじゃないよ」
「……そうか?」
「そうだよ。……でも、すっごく嬉しい」
アイリの瞳から、再びポロポロと涙がこぼれ落ちる。だがそれは、先ほどまでの自己嫌悪の涙ではなく、ひどく温かい感情に満ちたものだった。
「私ね、ずっと怖かったの。自分の嫌なところを見られたら、見捨てられるんじゃないかって。……中身は可愛げのない三十路だし、魅了スキルなんて不気味なもの持ってるし。若いルカちゃんみたいな、本物じゃない。偽物だって」
アイリは、アイドルとしての完璧な作り笑いでもなく、洗脳による大げさな表情でもなく。ただの『等身大の女の子』として、俺の胸にコトンと額を押し当てた。
「だから……名前も呼べなくなってた。嫌われたくなくて、遠ざけてた」
「……」
「でも……ナオキがそんな子供みたいな理由で私と一緒にいたいって言ってくれるなら。私も、三十路のあざとさもアイドルのプライドも全部捨てて、ただの『アイリ』として我儘になる」
アイリは涙を袖で乱暴に拭うと、今度は自分から、俺の背中に腕を回してギュッと強く抱きついてきた。
「……バカ。ナオキの、ばか」
ようやく呼ばれた俺の名前。
その響きには、嘘偽りのない彼女の確かな熱と、少しの独占欲がこもっていた。
「もっと自信もってロマンチックな言葉はないわけ? だっさいプロポーズ……!」
胸に顔を埋めたまま、アイリが小さく笑う。
「でも、ぜっったいに離してあげないからね。ずっと隣で責任とりなさいよ……ナオキ」
「……ああ。喜んで背負わされるよ」
俺もまた、腕の中に飛び込んできた彼女の確かな体温を感じながら、その背中にそっと腕を回した。
アイリの小さな手が、俺の服の背中をギュッと強く握り返してくる。
焚き火の炎が、静かにパチパチと爆ぜる。
国中を敵に回した、最悪で最弱の逃亡者。
だが、俺の腕の中にあるこの温もりだけが――今の俺にとって、この理不尽な異世界で生きるための、たった一つの確かな『理由』だった。
「……そうだ、アイリ」
「ん? なに、ナオキ」
「『手も出してこないヘタレ野郎』って言ったこと。……あれも本心か?」
俺が少し意地悪くニヤニヤしながら尋ねると、アイリはボンッ!と音が鳴りそうなほど顔を真っ赤にした。
「も、もう! それはノーカンだってば!」
アイリは奥で寝ている二人に気遣って声を押し殺しつつ、ポカポカと俺の胸を叩いてきた。ひとしきり叩いた後、彼女は俯きがちに、モジモジと指を絡ませる。
「……でも、いいと思ってるよ。その、ナオキとなら」
「……」
「でも……ナオキはまだ、身体の感覚が全部戻ってないでしょ? そのせいで性欲もほとんどなくなっちゃったみたいだし。だから、私だけそういうことしても……不公平っていうか、申し訳ないっていうか……」
消え入りそうな声で、いじらしいことを言うアイリ。
俺は思わず吹き出しそうになるのを堪え、彼女の肩を抱き寄せて耳元で囁いた。
「治癒魔法のレベルアップで、『温度感覚』は戻ったって言ってただろ。お前のその熱い体温も、ちゃんと感じてる」
「あっ……」
「じゃあ、お礼はしても、いいんだな?」
俺はそう言って、真っ赤になったアイリの顔にスッと顔を近づけ、そっと口付けしようとした。
――が。
「だ、だめぇっ!!」
唇が触れ合う数ミリ手前。
アイリが両手でギュッと俺の口を塞ぎ、涙目で首を横に振った。
「ま、まだそういうのは心の準備が! ていうか、後ろでツカサさんたち寝てるし! 見張りの途中でそういうことするのは不純ですっ!」
「なんだ。あんな大胆なこと言っておいて、急にピュアだな。びっくりするだろ」
「え、でもでもでも! 女の子はこういうの、もっとロマンチックなベッドの上って相場が決まってるの!」
顔から火を吹きそうになりながら、小声で必死に言い訳を並べ立てるアイリ。
俺は塞がれた口のまま、たまらず小さく声を立てて笑ってしまった。
「……っ、笑わないでよ! ばかナオキ!」
アイリがむくれて俺の腕を抓ってくる。
俺は彼女の小さな手を優しく握り直し、もう一度、深く息を吸い込んだ。
「……冗談だ。ちゃんと、もっと安全で綺麗なベッドのある街に着くまで我慢するさ」
「……うんっ」
アイリは安心したように笑い、再び俺の肩にコトンと頭を預けた。
ようやく、笑わせられた。俺は焚き火を見つめながら、
その事実に、少しだけ、心の底から、安堵するのだった。




