第十五話
冒険者ギルドは、朝から多くの荒くれ者たちで賑わっていた。
俺とアイリは、昨日の盗賊討伐の報酬を受け取るため、受付へと足を運んだ。
ツカサとルカは休みだと言ったにも関わらず、「ご主人様のために、おこづかい稼ぎのクエストでも見てきますぅ」「師匠、夜に合流しましょー」と、ギルドの隅にある依頼掲示板の方へと向かい、自由行動を取っている。
「お待ちしておりました。ギルドマスターが直接お話を伺いたいとのことですので、奥の応接室へどうぞ」
受付嬢に案内され、重厚な扉を開ける。
だが、そこに座っていたのは初老の貫禄ある男性ではなく、豪奢なガウンを羽織り、ふんぞり返るように長椅子に腰掛けた若い男だった。その後ろには、美しいメイドたちが何人も控えている。
「お前が、噂の異世界人だな」
男がニヤリと笑い、現代日本人に特有の、人を小馬鹿にしたような身振りで肩をすくめた。
「噂? なんの噂だ」
「お前のことじゃない。その後ろの女だ。おい、フードを取れ」
男の傲慢な声に、アイリがビクッと肩を揺らす。だが、男の異様な威圧感に押され、アイリはゆっくりとローブのフードを下ろした。
アイリの絶世の美貌が露わになった瞬間、男は下卑た笑みを浮かべ、目をギラギラと輝かせた。
「おいおいおい……マジかよ。噂には聞いていたが、信じられないくらい可愛いじゃねえか! 俺の城に集めたどの女よりも極上だ。……俺はお前より前に転生してきた異世界人でな、この街の領主をやってる。どうだ? 最高の待遇でお前を俺の屋敷に迎えてやるよ。ドレスも宝石もくれてやる」
領主の地位をひけらかし、露骨にアイリを誘う男。
だが、アイリは毅然とした態度で首を振った。
「お断りします。私には、彼と一緒にやりたいことがありますから。あなたのお屋敷に行く気はありません」
「そうか。……それは残念だ」
領主の男は、ただニヤリと笑った。
男の瞳の奥が、微かに濁ったように見えた。
その直後。
「いえ……やっぱり喜んで。冷静になると彼に付き合っても仕方がありません。私、あなたのお屋敷に行きます」
「ん?アイリ? おい、急にどうした」
俺が腕を掴もうとするが、アイリは氷のように冷たい視線を俺に向け、その手を乱暴に払い除けた。
「触らないで。……あなたなんかと一緒に、貧乏くさい冒険者稼業なんてやってられないわ。あんな埃っぽい宿屋で、一緒にベッドで寝たりして……本当にキモかった」
「な……」
「一緒に寝てるくせに手も出してこないし。ただのヘタレ野郎じゃない。そんな奴より、絶対領主様の方がいいに決まってるわ」
「……くははははっ! こいつは傑作だ!」
領主の男が、腹を抱えて大笑いし始めた。
アイリの口から出た残酷な拒絶の言葉に、俺の思考が真っ白に染まった。
理屈じゃない。俺は自分でも驚くほど、アイリという存在が大きくなっていることに気がついた。
たった数日とはいえ、同じ時間を共有してきたはずだ。
「おい、待てアイリ。……この後、デートに行くって約束しただろ」
すがるように、柄にもない言葉を口にしてしまった俺を。
アイリは、虫けらでも見るような冷めきった目で見下ろした。
「は? あんたそんなキャラ? キモすぎでしょ、デートとか」
「……っ」
「それに、あんたといるとずっと命懸けでしょ? 昨日だってそう。血だらけのあんたを助けた時、私の服にもあんたの血がべったりついて……本っ当に、吐き気がするくらいキモかったのよ」
そう言いながらアイリが俺のもとを離れ、領主の腕にすり寄る。
ピシリ、と。
俺の中で、何かが完全に砕け散る音がした。
体温を与えてくれた。
あの凄惨な血の記憶ごと、俺を抱きしめてくれた。
ずっと前世で欲しかった言葉、救いの言葉、あのアイリの姿を、完全に本人に否定された。
(……ああ。結局、俺はそういう運命なんだな)
前世からずっと繰り返してきた光景。
俺の行動はすべて、最後は他人に都合よく消費され、用済みになればゴミのように捨てられる。
『誰かのために生きなくていい』と言ってくれた彼女自身が、俺を『キモい』と切り捨てた。その圧倒的な矛盾と絶望が、俺の脳の処理能力を完全にオーバーフローさせた。
ロジカルな思考が、焼き切れて停止する。
ただ、「俺はまた捨てられたのだ」という冷たく重い事実だけが、全身の血を凍らせていく。
「最高だな道化くん。笑わせてもらって領主として感謝する。さて、お前たちの奴隷契約を破棄してもらおうか」
領主が顎でしゃくると、アイリは悪びれもせず、むしろアイドル時代のような愛想の良い笑みを浮かべて言い放った。
「これからは領主様のものになりまーす!」
「……アイリ。だが、お前は俺と一緒に異世界人を救いたいと……」
「あーそれなしなし! 私、あんたみたいなのは本当に無理なの! 偶然初日に助けたってだけで図々しいのよ! 領主様のハーレムに加えてもらったほうが絶対いいわ! 私なら一番になれるし! ね、領主様!」
俺の思考は硬直したまま、ピクリとも動けなくなっていた。
アイリがそう望むなら、安全な場所で暮らせるならそのほうが良いのかもしれない。
『『『【システムアナウンス】
対象者『アイリ』との奴隷契約の解除が、双方の同意により成立しました。』』』
脳内に響く、無機質な契約解除のアナウンス。俺の意思は同意とみなされ、主従の繋がりがシステム上からも完全に断ち切られた。そしてアイリが自ら、俺を拒絶したという決定的な証明。
「さあ、出ていけ。お前はもう消えろ。ほら、これが盗賊討伐の報酬だ」
領主から金の入った袋が投げられる。
俺は、何も考えることができなかった。
「……分かった」
俺は袋をつかみ背を向け、応接室の扉へと歩き出した。
一度も振り返ることなく部屋を去り、重い足取りでギルドの一階へと下りていく。
抜け殻のような状態だった。ただのデータ処理のように世界を見ていた頃よりも、ずっと心が冷たく、重い。
ギルドの一階は、相変わらず荒くれ者たちの喧騒に包まれていた。
俺は焦点の合わない目で、出口へと向かって歩いていた。
「師匠!?」
「ご主人様!?」
不意に、まだクエストボードの前にいたツカサとルカが、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「どうしたんすか、その顔……! それに、アイリさんは!?」
ルカの問いに、俺は立ち止まり、淡々と事実を告げた。
「アイリとの奴隷契約は解除した。あいつは領主のところへ行くそうだ。……俺より、裕福な暮らしがいいらしい。血まみれの俺といるのはキモいとさ。だから、俺は捨てられた」
「……は?」
ルカがポカンと口を開け、次いで、信じられないものを見るように俺を睨みつけた。
「はぁぁぁっ!? 師匠、それマジで言ってんすか!? あんたバカなの!?」
「……なに?」
「それ絶対なんか裏がありますよ!! アイリさんの本心なわけないじゃないですか!!」
ルカが、俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで怒鳴りつけてきた。
「だって、今朝私が師匠のこと『殺人鬼』って呼んだ時、あんなにマジギレして怒ってくれた人が、そんなこと言うわけないっすよ!! 師匠のこと、本気で庇ってたじゃないですか!!」
「っ……」
「それに、デートって言われてあんなに嬉しそうにしてたのに! あたし、恋愛とかわからないっすけど、アイリさんがすごくうれしそうだったのはわかるっすよ!」
ルカの言葉に、俺の脳裏に今朝の光景がフラッシュバックする。
俺を侮辱されて本気で怒っていたアイリの顔。照れ隠しに笑っていたあの表情。
「ルカ様の仰る通りです、ご主人様」
ツカサが眼鏡をクイッと押し上げ、真剣な熱を帯びた瞳で頷いた。
「ご主人様を大切に思うあの方の執着心……この駄犬である私と同じ匂いがしました。それを自ら手放すなど、あり得ません! きっとあの下衆な領主に、無理やり変態的な調教……いえ、悪辣な精神干渉スキルを受けたに違いありません!」
(……スキル、だと?)
俺の思考の歯車が、急速に噛み合い始める。
アイリの不自然な態度の急変。あの時、領主の瞳が微かに濁ったような違和感。
……そうだ。アイリは俺を捨てたわけじゃない。あの領主のチートによって、意思を無理やり書き換えられ、連れ去られたのかもしれない。
「……いや、自信が、ない」
二人の言葉があっても、俺の身体を支配していた絶望と喪失感が抜けきらない。
その時だ。俺は、実験の時から透明化させて四人を繋ぎっぱなしにしていた【生活魔法:水出し】の極細の『魔法のライン(ブルートゥース)』の存在を思い出した。
(……まだ、切れていない)
俺から伸びる見えない水の糸は、ルカの結界内での呼吸テスト以来、まだアイリと繋がったままのはずだ。奴隷契約はシステム上で切られたが、俺の『生活魔法の繋がり』は維持されている。
俺は魔力を微かに震わせ、糸電話の要領で『向こう側の音』を拾い上げた。
『――ふふっ、バカな男だ。【洗脳スキル】を全く警戒していないとは。さっそく屋敷に帰ってたっぷり可愛がってやるからな、俺の操り人形』
『――はい、領主様……』
微かに聞こえてきたのは、領主のゲスな笑い声と、うっとりした返事を返すアイリだった。
その瞬間。
俺の中で、絶望のどん底に沈んでいた感情が、一瞬にして『別のもの』へと変質した。
温度感覚を取り戻して以来、最も熱く、ドス黒い炎。
「……ツカサ、ルカ」
俺が顔を上げた瞬間。
二人がビクッと肩を震わせ、顔から一気に血の気を引かせた。
「ひっ……!?」
「ご、ご主人……様……?」
ルカの膝がガクガクと震え、ツカサは普段の変態的な余裕を完全に消失させ、息を呑んで後ずさった。
二人は、この異世界に来て初めて『本物の殺気』というものを肌で感じていた。
ただそこに立っているだけなのに、周囲の空気が凍りつき、見えない巨大な針で全身を刺されているような圧倒的な死の重圧。
盗賊や魔物など比較にならない、純粋で絶対的な『暴力の意思』が俺の目から漏れ出していたのだ。
俺の頭の中は、その熱すぎる怒りとは裏腹に、氷のように冷たく論理的だった。
「……すぐにアイリを取り戻すぞ、準備しろ」




