第十三話
煙が晴れてきている。距離も近い。これなら、使える。
――【生活魔法:水出し】
大男の気管のど真ん中、その声帯の奥深くへ、俺は視界の座標をピタリと固定し、魔法を発動した。
『ガッ……!? ――ォ、ゴボォッ!!』
振り下ろされようとしていた巨大な戦斧が、虚しく空を斬って地面に突き刺さる。
大男は首に両手を当て、信じられないものを見るように目をひん剥きながら、そのまま膝から崩れ落ちた。ヒューッ、ヒューッという不気味な狭窄音が数秒だけ響き、やがて顔をドス黒く染め上げた盗賊の頭目は、自らの吐瀉物と泡に塗れて完全に息絶えた。
『お、頭ァッ!?』
『ウソだろ……呪いか!?』
『化け物だ! 逃げろ、殺されるッ!!』
最強の頭目が、血の一滴も流さずに不可解な死を遂げた。
その事実が、生き残っていた盗賊たちの心を完全にへし折った。彼らは俺という『歩く死神』から目を逸らし、武器を放り捨てて、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように山の中へと逃げ去っていった。
やがて、魔力の煙幕が風に流され完全に薄れていく。
広場には、十数体の死体と、檻の中で呆然とこちらを見つめている女子高生だけが残された。
「……終わったか。そこの女子高生、俺は日本人だ。すぐ出してやるから、少し待っててくれ」
俺は掠れた声で呟き、ナイフを鞘に収めた。
相変わらず視界は明滅し、身体が泥のように重い。思考がうまくまとまらない、女子高生を助ける前に、アイリに回復してもらったほうがいいだろう。俺はアイリを待たせている岩山の頂上へと歩き出した。
ザッ、ザッ……。
足取りがおぼつかない。歩くたびに、左足の靴底が不快な水音を立てる。
水たまりでも踏んでいるのだろうか。それにしては、やけに足が前に出ない。
斜面を半分ほど登った時だった。
「――ナオキッ!!」
岩陰で待機させていたはずのアイリが、悲鳴のような声で俺の名を叫び、斜面を転がるように駆け下りてきた。
「なんだ、アイリ。絶対に動くなと……」
「バカッ! なんで……なんでこんなに血が出てるのに、普通に歩いてくるの!?」
俺の目の前に滑り込んだアイリは、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、震える両手で俺の身体を支えようとした。
「血……?」
俺はそこで初めて、自分の足元を見下ろした。いや、視ないようにしていたというほうが正しいか。
黒いローブの左半分が、どす黒い液体を限界まで吸い込んで重く垂れ下がっている。歩いてきた斜面には、俺の靴から滴り落ちた真っ赤な血の跡が、点々と、いや、線を引くようにずっと下まで続いていた。
アイリがローブをめくると、左の脇腹から内臓がこぼれ落ちそうなくらい、肉が深く、そして大きく裂けていた。
「ああ……なるほどな。さっき掠めたと思った一撃は、完全に肉を断っていたのか」
「なるほどなじゃないよ! 死ぬよ、死んじゃうよ!!」
アイリの絶叫と共に、俺の膝から唐突に力が抜けた。
痛覚がないから気づかなかった。触覚がないから、血が流れ出ている不快感も分からなかった。だが、体内からこれだけの血液が失われれば、当然、生物としての機能は物理的に停止する。
ただの『魔力切れ』だと思っていた明滅は、紛れもなく『失血死』の直前の兆候だったのだ。
俺の身体は重力に従って傾き、アイリの細い腕の中に倒れ込んだ。
「ヒール! ヒール! ヒールッ!!」
アイリがパニックになりながら、全力で治癒魔法の光を俺の傷口に注ぎ込む。
肉が蠢き、切断された血管が無理やり繋ぎ合わされていく映像が見える。だが、俺にはその修復の感覚すら分からない。ただ、自分の意識が急速に薄れていくのを感じていた。
「……お前みたいな超絶美少女アイドルに泣かれるなんて、悪くないな」
俺は不器用に口角を上げ、掠れた声で慰めようとした。
自分でも不思議だった。なぜ俺は、痛覚がないという致命的なハンデを背負いながら、たいしたスキルも持たない凡人でありながら、自ら死地へと踏み込んだのか。女子高生やアイリを見捨てて逃げれば、生き延びる確率は高かったはずなのに。
薄れゆく意識の中で、俺は前世の――日本社会での自分を思い出していた。
俺は合理的に生きているように格好つけてはいるが、本質的には、ただ「誰かの役に立ちたい」と願う、お人好しな人間だった。
だが、その優しさは現代社会ではひたすらに淘汰され、搾取されるだけの『弱さ』でしかなかった。俺の才能や成果は要領の良い上司や同僚に全て潰され、奪われ、利用され尽くした。
他人のために尽くしても、俺の人生には何も残らなかった。
転生できることがわかったときはそれも報われるのかと思ったが、あの白い空間で神から与えられたボーナスポイントはたったの『170』。元アイドルのアイリは『2000』だ。俺の人生は、神から見ても『徳』を積んだとはみなされない、無価値なものだったのだ。
だからこそ。この世界でも性懲りもなく「誰かの役に立ちたい」と願う俺は。
この狂った異世界で、アイリを救い、ツカサを救い、女子高生を救い、誰かのために命を懸けられた今の状況が、酷く『価値のあるもの』に思えてしまっていた。
「こんな凡人の俺でも……誰かを救って、役に立って死ねるんだな……俺も、ようやく、異世界で報われたみたいだ」
自嘲気味にこぼれ落ちた俺の独白。
その瞬間。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたアイリの表情が、悲しみから『激怒』へと変わった。
「――ふざけんなッ!!」
ビクッ、と俺の身体が震えた。
アイリは、俺の胸ぐらを血まみれの手で乱暴に掴み、鼻先が触れ合うほどの至近距離で怒鳴りつけた。
「誰かの役に立って死ぬ!? そんな安い自己犠牲で、勝手に人生のエンディング迎えてんじゃねえよ!!」
「アイ、リ……」
「いい!? 誰かのために生きるなんて、自分が完全に満たされてる奴の綺麗事! 私たちは理不尽に放り出されたところから始まってんだよ!? 自分が一番幸せになるために、自分が一番美味しい思いをするために、泥水すすってでも生きるのが普通でしょ!」
アイリは俺の胸ぐらを揺さぶった。血の気が引くほどの、本気の怒りだった。
「私だってそうやってトップアイドルにまでなったんだ! 誰かのためにアイドルやってたんじゃない、私がチヤホヤされたいから、私がスポットライトの真ん中に立ちたいから必死に笑ってたの! ナオキはバカなの!? 痛くないからって、自分の命をただの『便利な道具』みたいに扱ってんじゃねえよ!」
痛いところを突かれた。
俺は、自らを無意識に「使い捨ての駒」に貶めていたのだ。
「ナオキは私を救って、私のこと『奴隷』にしたじゃん! ご主人様なら、私を好きなようにできるんだよ!? なのに自分だけ綺麗に死んで逃げる気!? 許さない、絶対に許さない! 役に立つとか立たないとか、そんな他人の評価で生きてんじゃねえよ!」
彼女は俺の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「私が……私が、危ないからってナオキを一人で行かせたから……っ、私の治癒が隣になかったから、こんな……っ!」
「……お前の、せいじゃない」
「生きてよ、バカッ! 役に立たなくたっていい、自分のために息をしなさいよ! 美味しいご飯食べて、あったかいベッドで寝て、私の可愛い顔見てニヤニヤするために生きなさいよ!!死なないでよぉっ!!」
誰かのためじゃない。まず自分が一番幸せになるために生きろ。
自分の欲望に忠実に、もっと強欲に生きろ。
その極端で、身勝手で、矛盾していて、ひどく人間臭いアイリの叫びは。
日本社会で摩耗し、自分の価値を『他人に消費されること(=役に立つこと)』でしか見出せなくなり、冷たいデータ処理のようにしか世界を見れなくなっていた俺の心を、強烈な力で殴りつけた。
「ああ、そうか」
俺はずっと、前世からずっと――この言葉が聞きたかったんだ。
親にも、友人にも、かつての恋人にも。誰一人として、俺に言ってはくれなかった言葉。
『役に立たなくてもいいから、自分のために生きて』と。
彼らが俺に向けるのは、常に「期待」という名の搾取だった。「役に立て」「我慢しろ」「空気を読め」。俺の存在価値は、誰かにとって都合の良い『便利な道具』であることでしか許されなかった。
だから、誰の役にも立たない自分には生きる価値がないと、魂の底まで呪いをかけられていたんだ。
でも、この女は違う。
俺の自己犠牲を「安い」と切り捨て、自分のエゴのために生きろと、血まみれの胸ぐらを掴んで泣き叫んでくれる。
誰かの評価なんて、もうどうでもいい。ただ自分の欲望を満たすために、この最高に身勝手で、強欲で、どうしようもなく人間臭い女の隣で――もっと図太く、泥水すすってでも生きていいのだ。
冷たいデータ処理のようにしか世界を見れなくなっていた俺の心に、熱い血がドクンと巡るのを感じた。
死にたくない。
俺は、こいつと一緒に――アイリと一緒に、もっとこの世界を生きてみたい。
「……あぁ、死にたくないな」
肺から漏れるような掠れた声が、無意識に唇からこぼれ落ちていた。
それは、前世からずっと押し殺してきた、俺の本当の我儘。
「……お前と一緒に、もっと、生きてみたい」
その弱々しい、けれど確かな『生』への執着を聞いた瞬間。
アイリは顔をぐしゃぐしゃにして、何度も何度も、首がちぎれるほど強く頷いた。
「うんっ……!! 私も、私もナオキと一緒にいたいよぉっ……!! だから、お願い……っ、お願いだからぁっ!!」
血まみれの俺の身体を強く抱きしめ、彼女は魂を削るような絶叫と共に、ありったけの祈りと魔力を傷口へと注ぎ込んだ。
――その時だった。
『『『【条件達成】
対象者『アイリ』の精神的渇望と、極限状態での魔力行使により、【治癒魔法】のレベルがアップしました。初回ボーナスとして【治癒対象の傷を完全修復します】』』』
アイリの脳内に響く、無機質なシステムアナウンス。
『『『【感覚復元】
マスター『ナオキ』の欠損ステータス――『温度感覚』の復元が可能になりました。』』』
「……えっ?」
泣きじゃくっていたアイリが、ハッと顔を上げた。
彼女は信じられないものを見るように自分の手のひらを見つめ、そして、ありったけの魔力を込めて、俺の身体にヒールをかけた。
「ナオキ……っ。ヒール、ヒールッ!!」
まばゆい光が、俺の身体を包み込む。
傷口が完全に塞がっていくのと同時に。俺の全身の神経回路に、転生してからずっと途絶えていた『何か』が、ドクン、と流れ込んでくるのを感じた。
「……ナオキ」
アイリが、俺の右手を、俺の血で真っ赤に染まった両手でギュッと包み込むように握りしめた。
「分かる? ナオキ。これが……私だよ」
痛覚はない。触覚の「圧」もまだ完全じゃない。
だが、俺の右手の神経は、明確に『温度』を感じ取っていた。
――熱い。
俺の手を握る、アイリの手のひらの、火傷しそうなほどの体温。
――暖かい。
俺の頬に落ちてくる、彼女の瞳からこぼれ落ちた涙の温度。
「……ああ」
俺は、無意識のうちに自分の視界が滲むのを止められなかった。
世界が、ただの映像データから、血の通った現実へと一歩だけ戻ってきた感覚。彼女の体温と、涙の暖かさが、今の俺にはたまらなく――
「分かるよ、アイリ。……ひどく、熱いな」
俺がそう答えると、アイリは「うんっ、うんっ……!」と何度も頷きながら、再び俺の胸で大声を上げて泣き崩れた。




