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第十二話

斜面を駆け下り、魔力煙幕が立ち込める谷底のアジトへ足を踏み入れた瞬間、俺の視界は深刻なバグを起こした映像データのように乱れた。


灰黒色の煙は、ただの燃焼ガスではない。微細な魔力粒子が乱反射を起こし、俺の『超視覚』の顕微鏡ピントを物理的に狂わせてくる。壁や丸太を透視することはできても、数ミリ単位の気管の奥に空間座標を固定しようとすると、ノイズが走ってロックオンが外れてしまうのだ。


(……なるほど、遠距離からの精密な魔法はやはり無理だな)


俺は黒いローブのフードを深く被り直し、乱れ飛ぶ視覚情報を切り捨て、意識の大部分を『超聴覚』へと割り振った。


触覚がない俺には、風の動きや空気の震えを肌で感じ取ることができない。嗅覚もないため、敵の体臭や血の匂いで接近を察知することもできない。

 頼れるのは、歪んだ視界の輪郭と、鼓膜が拾い上げる音の周波数だけだ。


『どこだ!? 崖の上か!?』

『いや、魔法の軌道は見えなかったぞ!』

『散開しろ! 固まると的になる!』


煙幕の中で、完全にパニックに陥った盗賊たちの怒号と足音が交錯している。

 俺は音を立てずに丸太の陰に身を潜め、一番近くで喚いている男の足音にターゲットを絞った。


ザッ、ザッ……。


警戒しながら歩み寄ってくる足音。距離三メートル。二メートル。

 俺は丸太の陰から、音もなくヌルリと歩み出た。

 煙の中から唐突に現れた黒ローブの姿に、盗賊の男が「ひっ!?」と短い悲鳴を上げて剣を振り上げようとする。


距離一メートル。この距離なら、精密なピント合わせなど必要ない。

 俺は男の顔面、その『両目』の表面に向けて、視界の座標を大雑把に指定した。


――【生活魔法:着火】


「ぎっ、がぁあっ!? 目が……!」


眼球の表面に直接発生した火が、男の視界を物理的に奪う。

 男が反射的に目を擦ろうと腕を上げたその一瞬の隙に、俺は手にした安物のナイフを男の頸動脈へと深々と突き立てた。


ズブッ、という肉を裂く嫌な音が耳に届く。


だが、俺の掌には『肉を断つ感触』も『骨に当たる抵抗』も一切伝わってこない。ただ視覚情報として、ナイフの刃が男の首に吸い込まれていったのが見えるだけだ。

 俺は無機質な映像データを処理するように、無表情のままナイフを引き抜き、噴き出す血のシャワーを避けるために半歩だけ横にスライドした。


声も出せずに崩れ落ちる一人目の死体。

 だが、その倒れる音が、周囲の盗賊たちに俺の居場所を知らせてしまった。


『こっちだ! 煙の中にいやがるぞ!!』

『囲め! 魔法使いなら近接戦は弱いはずだ!!』


三方向から、同時に複数の足音が殺到してくる。

 俺は【筋力Lv1】【敏捷Lv1】だ。正面から切り結べば、剣ごと吹き飛ばされて終わる。


俺は腰を低く落とし、彼らが踏み込んでくる足元の地面――硬い石の表面に、再び魔法を放った。


――【生活魔法:水出し】


コップ一杯分の水を、三人の足元に極薄い膜のように展開する。

 突進してきた盗賊たちは、摩擦係数が唐突にゼロになった泥の罠に足をすくわれ、勢いよく宙を舞った。


「うおおっ!?」

「がはっ……!」


一人は後頭部から地面に激突して昏倒し、もう一人は体勢を崩して無防備な背中を晒す。

 俺はすかさず二番目の男の背後に回り込み、腎臓の位置へナイフを突き立て、そのまま引き裂いた。


だが、その時だ。

 倒れまいと必死に踏み止まった三番目の大柄な男が、ヤケクソ気味に長剣を薙ぎ払ってきた。


『死ねぇぇぇッ!!』


鋭い風切り音。

 俺の目はその剣の軌道を完璧に捉えていたが、Lv1の身体能力が脳の指令に追いつかない。回避が間に合わないと判断した俺は、致命傷を避けるために身体を大きく捻った。


――ビリッ。


耳元で、布が裂けるような鈍い音がした。

 俺の黒ローブの左脇腹を、男の剣閃が掠めていったのだ。


(……チッ、少しローブを切られたか。危ないな)


 俺はローブを掠めた男の顔面に、再び【水出し】による目潰しを放ち、怯んだ隙に首の横をナイフで掻き切った。


「ふぅ……」


三人全員が動かなくなったのを確認し、俺は短く息を吐いた。

 だが、休んでいる暇はない。煙の向こう側から、さらなる増援の足音が迫ってくる。


『ヒィィッ……! な、なんだこいつ……!』

『化け物かよ……っ!!』


新たに現れた盗賊たちが、俺を見て後ずさった。

 彼らの目に映る俺は、煙の中から現れ、無表情のまま一切の躊躇いなく仲間を屠っていく死神のように見えているのだろう。

 俺はナイフについた血を払い、再び煙の中へと溶け込んだ。


四人。五人。八人。


足音と声を頼りに、死角からの奇襲と【生活魔法】の環境利用を繰り返し、着実に敵の数を減らしていく。

 乱戦の最中、飛んできた矢が俺の肩を掠めたり、振り下ろされた斧が太ももの横を通り過ぎたりした。その度に布の裂ける音や、微かな引っ張られる感覚(視覚的な服のヨレ)があったが、俺の身体機能に支障はなかった。


(……おかしいな。身体が、妙に重い)


十人目を切り伏せたあたりで、俺の脳が微かな違和感を訴え始めた。


息が上がる。視界の端がチカチカと明滅する。脳細胞が極端な酸素不足に陥っているような、奇妙な虚脱感。

 煙幕の魔力ノイズの中で、超視覚と超聴覚をフル稼働させ続けているせいだろう。脳への負荷(処理落ち)が限界に近づいている証拠だ。


(急ぐぞ。これ以上は、俺のスタミナが持たない)


俺は荒くなる呼吸を強引に抑え込み、乱戦の中心――あのリーダーの大男がいるであろうテントの方向へと足を向けた。


俺は全く気づいていなかった。


俺が歩いた後の地面に、点々と、どす黒い赤色の染みが続いていることに。

 左の脇腹から太ももにかけて、黒いローブが重い液体を吸ってベチャベチャに張り付いていることに。


先ほど『ローブを掠めただけ』だと判断したあの一撃は。

 俺の左脇腹の肉を深く抉り、血管を断ち切る、紛れもない『致命傷』だったのだ。


痛覚がない。だから、肉が裂けたことに気づかない。

 触覚がない。だから、生温かい血が滝のように流れ出ていることにも、服が濡れて張り付いている不快感にも気づかない。

 嗅覚がない。だから、自分が強烈な血の匂いを撒き散らしていることにも気づかない。


普通なら、激痛と恐怖でとっくにショック死するか、うずくまって動けなくなっている重傷。

 だが、生物としての『危険を知らせるアラーム機能』が完全に欠落している俺は、致死量の出血をしながらも、顔色一つ変えずに完璧な姿勢で歩き続けていた。


周囲の盗賊たちが恐怖で逃げ出していくのも無理はない。

 腹から内臓がこぼれ落ちそうなほどの血を流しながら、一切の痛みに顔を歪めることもなく、精密機械のようにナイフを振るう男。


それはもはや、人間ではなく『歩く死体ゾンビ』そのものだった。


『お前ら、逃げるなァッ!!』


煙の奥から、リーダーの男の咆哮が響いた。

 俺は血で滑りそうになる足取りを、ただの「足元のぬかるみ」だと論理的に誤認したまま、声のする方へと歩みを進める。


やがて、煙が少しだけ薄れた広場の中央。


顔に傷のある大男が、身の丈ほどもある巨大な戦斧を構え、鬼の形相で俺を睨みつけていた。その後ろには、まだ光の結界を張って震えている女子高生の姿がある。


『お前が……お前一人が、俺の部下をこんなに……ッ! 一体何者だ、貴様ァッ!!』


「……ただのFランク冒険者、いや、日本人だ」


俺は肺から空気が漏れるような掠れた声で答えながら、安物のナイフを正眼に構えた。

 視界が明滅し、立っているのが不思議なほどの強烈な眠気が俺を襲う。だが、痛みがない以上、俺の意思が折れることはない。


(……このリーダーの男をやれば、終わりだろ)


俺は最後の力を振り絞り、大男に冷徹なピントを合わせた。

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