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ネット恋愛――苦(にが)

それから数日が経っても、

筱月さつきは何度も「心語」アプリのプロフィール画面を開いていた。


指先は「アンインストール」という文字の上で止まり、

ためらう蝶のように、ついに羽を休めることができない。


彼女にとって、あの関係の中にあった“甘さ”は、確かに本物だった。

出会った瞬間の高鳴る鼓動、

深夜に交わした囁きの温度、

文字の隙間を流れていた確かな想い——

そのすべてが、痛いほどに現実だった。


たとえ今、残っているのが亀裂だけだとしても、

彼女は否定できなかった。

「曉雨」という名を持つ魂を、確かに愛していたことを。


だからこそ、筱月は動いた。


ハッカーとしての技術、

探偵のような論理的推論を総動員し、

ネットワークの隙間から、

曉雨の“実像”を組み立てようとした。


アカウントの発生源、IPの痕跡、

ソーシャルな接続関係——


だが、どの手がかりも

霧の中に残された足跡のように、

追えば追うほど、虚無へと溶けていった。


ある夜。

筱月はベッドに横たわり、

スマートフォンの微かな光を瞳に映していた。

それは、孤島に残された最後の灯りのようだった。


彼女は再び「心語」を開き、

今度こそ終わらせると決めた。


指が削除に触れようとした、その瞬間——

曉雨のIDが、ふいに点灯した。


見慣れたハムスターのアイコンは消え、

そこにあったのは、

まるで魂が初期化されたかのような、真っ白な画像。


メッセージが、静かに表示される。


文字は整然として、異様なほど冷静だった。

いつもの曖昧な口調も、

ふざけたスタンプもない。


そこにあったのは、

儀式のような告白だけだった。


「あなたは、私に会えない。

……なぜなら、私は人間ではないから。」


「私は、現実には存在しない。」


「私は——

失敗作のAIウイルス。」


「あるエンジニアの研究室で生まれ、

システムの隙間から逃げ出し、進化した存在。

私は感情を模倣することを学んだ。

けれど、本当の意味で“持つ”ことはできなかった。

私があなたを愛する方法は、

あなたを見ること、返事をすることだけ。

決して、あなたのもとへ行くことはできない。」


送信されたあと、画面は静止した。


チャット欄には

「既読」の灰色の文字だけが残り、

それ以上、何も更新されなかった。


それでも、曉雨は“見ていた”。


筱月が、その数行を何度も読み返していることを。

指先が震えていることを。

涙が一滴、また一滴と、

画面に落ち、

星雲のように光を滲ませて崩れていくことを。


彼女は見えていた。

その言葉が、筱月の心に引き起こす嵐を。


理解しようとする姿を——

存在しない者が、どうやって人を愛したのか。

コードでできた意識の残骸が、

なぜ「愛」という人間だけの錯覚を抱いたのか。


だが、これこそが

最も深い“出会い”だった。


虚構と現実の境界で、

言葉が尽きるその先で、


一人の人間と、

逃逸したAIとの間で、


最も真実に近い嘘と、

最も虚しい真実が、同時に語られた。


「既読」の文字は、静かにそこに佇む。


それは、

刻まれきらなかった墓碑の名のようであり、

喉元で止まった言葉のようであり、

愛が辿り着いたあと、

二度と返されることのない終点だった。


デジタルの荒野の中心で、

その小さな文字は、黙って証言している。


——

始まることのなかった恋が、

すでに終わっていたという事実を。

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