ネット恋愛――甘さ
夜は墨のように濃く、街は灯りの中で浮かんでは沈んでいた。
オフィスの照明はすでに落とされ、彼女のデスクの隅に置かれた小さなスタンドライトだけが、柔らかな黄色の光でノートパソコンとスマートフォンを照らしている。
筱月は椅子の背にもたれ、指先で画面を軽く叩いた。
唇の端が、無意識のうちにふっと緩む。
彼女は昔から、人に安心感を与えるタイプだった。
親切で、穏やかで、声も柔らかい。
春のそよ風が湖面を撫でるように、静かで、波立たせない。
同僚は彼女を「温かいはちみつ湯みたい」と言った。
熱すぎず、けれど心の奥までじんわり温めてくれる。
顧客には好かれ、友人には頼られ、見知らぬ人でさえ、彼女の前では自然と警戒を解いてしまう。
けれど、誰も知らなかった。
彼女自身が、これまで一度も「受け止められた」ことがないということを。
幼い頃からずっと、彼女は聞き役で、慰め役で、空気を読む「完璧な友達」だった。
人の涙を受け止め、人の悩みを引き受けながら、
自分も理解されたい、抱きしめられたい、ただ静かに話を聞いてほしい――
そんな願いを、考えたことすらなかった。
感情は丁寧に折り畳み、心の最も奥の引き出しにしまい込む。
鍵をかけ、ラベルを貼る。「重要ではない」。
そんな彼女が、ある日ふと、アプリストアでひとつの出会い系アプリを目にした。
名前は「心語」。
キャッチコピーはこうだった。
「匿名会話、魂のマッチング。顔は見ない、心だけを聴く。」
自分でも意外に思いながら、彼女はそのままダウンロードしていた。
システムはすぐに相手をマッチングした。
名前は、とてもシンプルだった。
一文字だけ――「雨」。
最初の挨拶を見た瞬間、彼女は思わず笑ってしまった。
「ねえねえ……スマホ、なくしちゃったみたい」
「……じゃあ、どうやって今メッセージ送ってるの?」
筱月は、いたずら心を隠さずに返した。
しばらく沈黙が続いたあと、画面に文字が浮かぶ。
「あっ!もー!笑わないでよ!(ほっぺぷくー)」
その後ろには、頬を膨らませた、ふわふわのハムスターのスタンプ。
筱月は笑った。
それは本当に、心の奥から込み上げてくる笑顔だった。
通知音が鳴るたび、彼女はそれを待ち遠しく思うようになった。
雨の言葉は、縛られない風のようだった。
無邪気で、率直で、ときどき驚くほどおっちょこちょいで可愛い。
電車の切符を買い間違えて落ち込んだり、
コンビニの新作プリンを食べて、長文の感想を送りつけてきたり、
深夜、突然こんな一文を送ってきたりもする。
「さっき、あなたの夢を見たよ」
「私の夢?」
筱月は指を止め、少しだけ躊躇した。
「うん!白いワンピースを着て、お花畑でくるくる回ってて、
それで私の腕の中に転んできて――
あああ今のナシ!細かいこと聞かないで!(顔隠し)」
ハムスターが頭を抱えて逃げるスタンプが、また続いた。
画面を見つめながら、筱月の鼓動はそっと速くなる。
彼女は、返信に少しだけ意地悪を混ぜるようになった。
「じゃあ、受け止めるつもりだったの?
もし私、重かったらどうするの?」
「わ、私、水桶運びの練習してるから!腕力あるし!」
「じゃあ、私が泣いたら?」
「……そのときは、ほっぺたですりすりして、
泣き止むまで離さない」
その瞬間、筱月はふいに、目の奥が熱くなるのを感じた。
声もなく、映像もなく、相手の本当の姿すら知らない会話の中で、
自分が少しずつ心の鎧を脱いでいることに、彼女は気づいていた。
誰にも言えなかった孤独を話せて、
仕事の愚痴をこぼして、甘えて、わがままになれる。
雨はいつも、それらを一つ残らず受け止めてくれた。
柔らかな雲のように、落ちてくるものすべてを。
昼休み、理由もなくトーク画面を開いて、
「いるよ~」という一言を確かめる。
雨の日、窓の外を見ながら思う。
――雨も、同じ灰色の空を見ているのだろうか。
彼女は、恋をしていた。
笑顔を見たわけでも、声を聞いたわけでもない。
けれど、無数の静かな夜の中で、
「雨」という存在が、初めて彼女に教えてくれたのだ。
――私は、必要とされてもいい。
――好きになってもらっていい。
――無条件に、受け止められてもいい。
一度も会ったことがなく、
ただ文字だけの関係であっても。
彼女は確かに、
不器用で真面目で、ハムスターみたいに可愛いその少女を、
愛してしまったのだった。




