第7話「古町連続窃盗事件」後編
古町連続窃盗事件編ラストです
祭り前夜の古町は、体温を持っていた。
赤い提灯が風に合わせて瞬き、屋台の鉄板が油の匂いをゆらせる。太鼓の音が腹の奥で跳ね、金魚すくいの水面が蛍光灯を溶かしている。浴衣の裾がさざ波みたいに揺れて、笑い声は角を曲がると別の姿に変わった。商店街は、まるごと大きな生き物――今夜だけは眠るのが惜しい、と言っていた。
その喧騒の背骨、裏の狭い筋。
黒瀬隼人は、壁にもたれて煙草を一本だけ咥えた。火はつけない。舌の上に置いたまま、湿りと熱の配分を測るように、路地の空気を舐める。
(表は騒いでる。じゃあ裏は静まってるか、って話だ。――どっちも起きてる。だから、足音が太くなる)
美月は、手帳を抱えて角の陰。指の腹で紙の端をトントン叩く癖が、緊張のリズムを刻む。彼女は人ごみのざわめきの中から“違う音”だけを拾う耳を持っていた。
(太鼓は三拍子、屋台のおっちゃんの鍋は早いテンポ、カップルは笑って止まる。……浮いてるのは、歩幅。揃いすぎてる三つの影)
九条零士は、わざとブランドロゴが目立つ金色の財布をズボンのポケットから半分出したまま、屋台列の端を歩く。派手な時計は、今夜だけ“餌”だ。
(僕が目立てば、きっと彼らは寄ってくる。焦るな。走る足は、追う時まで取っておけ)
心臓が上ずる。けれど、笑顔を崩さない。囮は“余裕そう”に見えるほうが効くと、隼人に叩き込まれた。
高村亮は、浴衣に紛れたまま、背筋を崩さない。目は流れを追い、出入り口の数、光の濃度、警らの位置を反芻する。
(古町は路地が多い。退路は三つ。西はローズさん、北は工藤さんのセンサー、南はハルさんの駄菓子屋前。——囲むんじゃない。“眠らせる”。黒瀬さんの言い方だと、そうなる)
胸ポケットの無線は最小音量。手帳は出さない。公式の顔を出すタイミングは、最後の点だけでいい。
ローズ木島は、自分のバーの裏口側で、ドレスの裾を片手で持ち上げ、筋肉で路地を塞ぐ角度を計っていた。艶のある笑みを浮かべながら、目だけは獣の目。
「こっちには来させない。来ても、抱きしめて方向転換させるだけよ」
菊池ハルは、店の常連にラムネを配りながら、子供たちの動線をずらす。“万が一”若者が突っ込んでも、子どもとぶつからない配置に。
「いいかい、こっちはラムネ十円安いよーって、こっちの列に並ぶんだよ」
笑いながら、さりげない守りを築くのが上手い女だ。
真矢子ママは、店先で灰皿と看板を少しだけ外側に出した。狭い隙間をつくって“抜けにくい”角度にする。
「うちの色気は通せんぼにも効くのよ」
工藤は、汗だくでセンサーの蓋を閉めながら、祈るように装置に手を合わせた。
「頼む、鳴け。いや、鳴りすぎるな。適度に鳴れ……!」
──準備は、整っていた。
あとは、祭りの前夜が“何か”を連れて来るのを待つだけ。
太鼓が一段低くなった時、零士の背に汗が一筋落ちた。
振り返らない。視界の端に、三つの影が浮いた。揃っているのに、揃っていない。緊張を笑いでごまかす、あの昼間の“韻”。
「ね、退屈、死ぬ。狭い。何か起きろ。起こす」
帽子のツバの下、笑った口元だけが見える。靴のかかと、外側が減っている先頭。リーダーだ。
零士は、財布を落とした。偶然を装って、わざと。
若者の一人が手を伸ばす。早い。けど、浅い。
零士の指は、その手首に絡みつき、優雅な笑顔のまま力だけを閉じる。
「おっと。拾い物は交番へ」
「離せよ、金持ち」
「財布より大事なのは、あなたの将来ですよ」
「説教? 祭りで?」
「イベントです。体験型の」
もう一人が横から零士の肩を押す。体が流れる。群衆がざわつく。
無線が短く鳴った。「今」――隼人の声。
零士は一歩退き、逃げ道を作る。すれ違いざま、帽子の若者の目を一瞬だけ見た。
(怖いのは、退屈のあとに来る“空白”だ。自分の中の穴を、音で埋めたくなる)
彼は掴んだ手を離し、わざと背中を向けた。若者たちは反射で走る。釣れた。
路地の口、影が切り替わる。
隼人が前に出た。
リーダーの肘が突き上がる。読みどおり。隼人の左手がそれを外に弾き、右足は“すれ違う”角度で踏む。力は使わない。重心だけをずらす。
乾いた音。肩口で空気が抜け、リーダーの足が一拍遅れる。
「――遊び半分で、街を削るな」
声は低い。怒鳴らない。それが効く。人混みの中の低音は、よく響く。
もう二人は、反射で逆走した。
「そっちは行き止まり!」美月の声が無線に走る。
「任せてぇ♡」ローズが路地に滑り込み、両腕を広げる。筋肉の壁。
「お、おい……!」
「大丈夫、私は優しい。右にどうぞ」
右に流れた若者は、角で工藤のセンサーに引っかかる。
ピピピピピ――!
「鳴ったああ!」工藤が宙に拳を突き上げる。
「うるさい!」美月のツッコミが被さった。
もう一人は、駄菓子屋前に流れ、ハルの「はい列こっち!」という見事な誘導で、子どもと店の棚に挟まれて減速する。
「ほら、ラムネでも飲んどきな!」ハルが無理やり瓶を押し付けると、若者は反射でビー玉を落とし、ゴクッと一口飲んでから我に返った。「ちが、違う! 俺、ラムネじゃなくて!」
「ラムネは正義!」ハルの笑顔が怖い。
リーダーの腕に、隼人の指が軽く絡む。手首を決めない。逃げ道を残す。
その間に、亮が人混みを切り分けて近づいた。
手帳は出さない。代わりに、視線だけを見せる。
「――君、止まれ」
制服ではない。が、止まる。止まるように言う技術。
リーダーの喉仏が動く。「警察?」
「警察官だ」
「捕まえるの?」
「捕まえる。けど、その前に。君の仲間を呼べ」
「は?」
亮は声を落とす。「逃げ道を作らないためだ。君が叫べば、人混みがざわつく。仲間は君の元に戻る。そこで、終わりにする」
隼人が静かに口角を上げる。
(条文の顔で、現場を使う。こいつ、伸びるな)
リーダーは一瞬迷い、そして口を開いた。「おい、こっち」
戻ってきた二人は、ローズの腕からくぐり、ラムネでむせながら駆け寄ってくる。
隼人は身を引き、亮が前に出る。
手錠は出さない。ポケットの中で、金具だけが触れ合う音を小さく鳴らす。
「店先に手を出した。証拠はある。逃げても、明日捕まる。今ここで止まれば、人混みを止める必要がない。誰も転ばない」
言い回しが“祭りの邪魔をしない”ことに軸足を置く。若者の反射は、そこで鈍る。彼らもまた、祭りで育った子どもだった。
沈黙。太鼓が一つ、間を空ける。
「……退屈だったんだよ」帽子がぽつりと零した。
「わかるよ」零士が息を整えながら、正面に立つ。「僕も金持ちで退屈だって言われます。でも退屈って、選び方だと思うんです。何を難しくするか、何を面白くするか。盗みは一番“簡単に”面白くする手段だけど、そのあとの後片付けがいちばんつまらない」
「説教じゃん」
「ラブレターです」
「は?」
「古町という街への、愛の告白」
「……お前、何言ってんの」美月が額を押さえた。
隼人は煙草に火をつけた。火は小さく、音がしない。
「退屈が悪いんじゃない。退屈をごまかすために、人から何かを奪うのが悪い」
視線は若者の靴。減ったかかと。
「お前の靴、片側だけ減ってる。歩き方の癖は簡単には治らない。だから捕まる。今日じゃなくても、明日。明後日。ずっとな」
リーダーは口を結んだ。
「君らの“穴”は、ここじゃ塞がらない」亮が続ける。「けど、今は線を引く。ここからは犯罪だ、って線を」
若者の肩が落ちる。その落ち方は、投げやりではなく、重さを受け止めた落ち方だった。
工藤のセンサーが、もう一度ピッと短く鳴った。
「判定、良好」工藤が小さくガッツポーズを作り、すぐに手を下ろす。空気を読み始めるのが、彼の良さだ。
亮はそこで初めて手錠を見せた。
「暴れれば使う。暴れなければ、今は要らない」
三人は顔を見合わせ、小さく頷いた。
隼人が視線だけで美月に合図すると、美月は真矢子ママとハルに“返却”の段取りを頼みに走った。盗られたものは、すぐ返す。返すことで、祭り前夜の空気に汚れを残さない。
ローズは、若者の背中をぺちりと叩いた。「あんたら、力はある。重い皿の箱、運びなさい。人の役に立つ筋肉の使い方ってのを、今夜覚えて帰るの」
「え、今?」
「今。祭りは準備が本番よ」
若者の一人が、思わず笑ってしまう。「……何それ」
「そうやって笑って運べば、退屈はすこし減るわ」
短い“現場の罰”。
それは条文に書いてない。でも、街に書いてある。
亮は黙って見て、必要な要点だけをメモに刻む。処分は明日、オフィシャルに決まる。今は、祭り前夜を汚さない。
(黒瀬さんの“匂い”と、僕の“手続き”。両方、要る)
やがて、返却は済み、謝罪も済んだ。
若者たちはうつむいたままだったが、ハルがラムネを一本ずつ握らせた。「祭り前夜に喉が渇いてちゃ、謝る声も出やしないよ」
真矢子ママは、彼らに目を細めて言う。「次に店に来るときは、客としていらっしゃい」
ローズは肩を抱いて一言。「筋トレは毎日。犯罪は今日で最後」
工藤は、彼らにセンサーの仕組みを速射砲のように語り始め、「やってみる?」と半田ごてを差し出し、美月に耳を引っ張られて止められた。
「今じゃない!」
群衆は何も知らないまま、祭り前夜の濃度を保った。
太鼓の音は高く、油は甘く、金魚は赤い。
古町の夜は、何も失わなかった。
◇
深夜。
ローズのバー「Rose Garden」は、窓の外の提灯を鏡のように映していた。店内は薄いピンクの照明、グラスの縁が淡く光る。BGMはボサノヴァの小さな揺れ。
「さぁ、打ち上げるわよ」ローズが両手を叩く。
カウンターの向こうから、分厚い鉄板ステーキがジュウ、と音を立て、山盛りポテトサラダが雪崩のように皿に盛られる。驚くほど繊細な鯛のカルパッチョは、ローズの巨大な手が嘘みたいに優しい所作で並べられた。
「筋肉でお洒落は作れるの」
「論理が崩壊してるのに、説得力だけはあるのよね」美月が笑う。
ハルは、氷がカランと鳴るピッチャーを持ってきて、各席にラムネを置く。
「大人もラムネでいいのよ。バーボンのチェイサーに最高だから」
真矢子ママはカクテルを二つ三つ、音もなく仕上げていく。
「はい、甘いの、苦いの、渋いの。あなたはどれ?」
「渋いので」隼人のグラスに、琥珀色が落ちた。彼は礼も言わず、一口で喉を通す。
零士は真っ先に立ち上がった。
「本日の囮役、九条零士! 皆さまのご協力により、無事ミッション完遂いたしました!」
「座れ」美月が彼の耳をつまんで椅子に戻す。
「痛い痛い痛い! ……でも、楽しかったです」
「“楽しかった”で事件を総括しないの」
「はい。反省します。次はもっと静かな椅子を」
「そこ?」
工藤は、肩で息をしながらセンサーの蓋を撫でている。
「いい仕事したな、相棒」
「相棒は人間にしなさい」美月がまた冷静に刺す。
「いや、機械だって心がだな」
「始まったわ」ローズが笑う。
そんな喧噪から、少し離れたカウンター端。
隼人と亮が並んで座っていた。
亮はグラスを両手で包み、氷を見下ろす。氷が、溶ける。
「……黒瀬さん」
「ん」
「僕は、あなたの背中を追ってここに来ました。現場で人を守る、ってことを、あなたに教わった気がして」
隼人は返事をしない。返事がいらないタイミングがある。
亮は続けた。「今日、条文じゃ追い切れない“匂い”を見ました。あなたの言い方だと、そうなります。僕は、そこに遅れて、でも、追いつけた気がする」
「追いつくな」
「え?」
「横に立て」
亮は、目を瞬いた。
隼人は煙を吐いて、わざと視線を合わせない。「条文は、生き物に遅れる。現場の鼻は、時々、道を踏み外す。横に立つ奴がいりゃ、両方が真っ直ぐになる」
数秒の沈黙。
亮が笑った。その笑いは、若いけれど、芯が硬い。
「横に、立ちます」
「勝手にしろ」
グラスが、軽く触れた。乾杯というほど大げさではない、音の小さな了解だった。
ローズがカウンター越しに顔を出す。
「はいはい、イイ男二人の時間に水差すけど、締めの一皿いくわよ。ガーリックバターのホタテ。筋肉が泣くやつ」
「筋肉は泣かない」
「泣くのよ、うちのは感受性が強いから」
ホタテの香りが鼻腔をくすぐり、空腹が思い出される。
美月が箸を伸ばし、零士が同時に伸ばし、箸がコツンとぶつかる。
「レディーファースト」
「紳士なら“私の分もどうぞ”でしょ」
「それは僕が飢えるやつです」
「うるさい」
奥のテーブルでは、ハルが若者三人と向き合っていた。店の片隅で、控えめな声。
「明日、店の手伝いに来な。祭りは忙しいんだ」
「う、うん……」
「おにぎり、重いからね。筋肉使いな」
真矢子ママも横に腰かける。「謝るのがゴールじゃないの。続けられることを、続けるの」
若者の一人が、こくりと頷いた。
退屈は、続けられない。けれど、“役目”は続けられる。彼らに今必要なのは、たぶんそれだ。
隼人はその様子を横目で見て、煙草の火を落とした。
(くだらねぇ町だ。くだらねぇ人が多い。くだらねぇ酒と、くだらねぇ笑い。——それが、寝方のいい町の条件ってわけだ)
ペン先で地図を叩いていた美月が、ふっと息を吐く。
「終わったね」
「ああ」
「また、くだらない依頼来るかな」
「来るさ」
「……いいね」
美月は笑い、グラスを持ち上げた。
「古町に、乾杯」
零士が元気よく続ける。「そして黒瀬探偵事務所に!」
「ついででいい」隼人がぼそりと言う。
「ついでじゃないです!」
「うるさい」
笑い声が揺れ、ボサノヴァが少しだけ音量を上げる。
外の提灯は、もう眠そうだ。
けれど、街は今夜、何も失わなかった。盗まれたものは返され、奪われそうになった“眠りの質”も、ちゃんと取り返した。
亮はその事実を胸にしまい、静かに立ち上がる。
「署に戻ります」
「働き者」ローズが手を振る。
「明日、書類が山ですので」
「明後日もな」隼人が言う。
「ええ。ずっと、です」
鼻で笑う隼人の横で、亮はわずかに頭を下げた。
「また横に、立ちます」
「好きにしろ」
ドアベルの音。夏の夜の外気。
提灯が、最後にもう一度だけ瞬き、夜がゆっくりと横たわった。
祭りは明日だ。
くだらない依頼も、明日だ。
黒瀬探偵事務所の夏は、まだまだ続く。
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