第4話 羽化と孵化
“あかり”が蹲って震えている。
それは……私と抱き合っている時には決して見せなかった……私には隠し通していた彼女の恐れと苦しみと痛み……私は今度こそ!!そのすべてを抱き締めたくてあかりに手を伸ばすけれど……手は腕は虚しく空を切り、あかりを抱き締める事ができない。
どうして!!
あかり!!!
喉が裂けんばかりに叫ぶと……
あかりはようやく顔を上げて私を見てくれた。
その瞳から涙が筋となって流れている。
ここで目が覚めた。
寝汗と涙でぐっしょりとなった私は……独りベッドに取り残されていた。
とても朝食を摂る気にはなれず、さりとて炎天下の中の外回りなのだからとスポーツドリンクを無理やり流し込み、未だに借りて来た感がぬぐえない顔に“夏化粧”を施す。
本来の私は“スッピン派”だったのだが……顔面を大幅に工事したので紫外線はやはりNGなのだ。
身繕いを済ませマンションを出て駅へ向かう途中、何気無く側溝に目をやると蝉の幼虫が居た。
いつもは抜け殻だけで……背が薄いエメラルドグリーンな蝉の幼虫なんて初めて見たのだけど、きっと羽化する直前なのだろう。思わずスマホを立ち上げ写真に撮る。
これこそが新しき命への神秘な飛翔なのだろう……
少し元気が出て、私は遅れた時間を取り戻す為に早足となった。
◇◇◇◇◇◇
今日は駅から駅へとピンポイント移動し、駅回りの雑居ビルや商業施設への飛び込みだ。
相変らず成果が出ないまま灼熱地獄の中で汗まみれとなり、とにかく『腹にガソリンを入れよう』とランチ営業の終了間際の古びた喫茶店へ飛び込み、日替わりランチをオーダーした。 おしぼりの袋を開け、メイクが崩れない様に用心しながらそっと汗を抑える。そして運ばれて来たグラスの水を利いてみる。
レモンの皮で臭みは消している様だが、ハッキリ言って不味い!
私は考える。
『貸おしぼりは“みかじめ料”なのだろうか? そうでなければそれだけサービスに配慮しているお店なのだから水質改善のご提案として“まろやか音”を売り込めないだろうか??』
その結果は散々だった!
きっと私の話の運び方が悪かったのだろうけど……
お店のマスターから「お前に食わせる物はねえ!!」と怒鳴られ、皿を下げられた。
見るに見かねたリーマンが仲裁に入ってくれて……私はなんとかお代だけは置かせていただいて店を出た。
激しい自己嫌悪が私を襲い、ずっと抑えていた“行き当たりばったり”で“自堕落な”私が顔を覗かせた。会社へ電話を掛け「熱中症になった様なので今日は早退直帰する」と申告した。
で、やさぐれてキャリーバッグを曳きながら駅前をぶらぶらしていると……もう営業している居酒屋があったので、そこでサバ塩定食を肴にチビチビとビールを飲み始めた。
「あれっ?! やっぱり!」
と声がして振り返るとさっき仲裁に入ってくれたリーマンだった。
「ここで仕切り直しなんだ?オレもだよ」と人懐っこい笑顔を見せる。
「ああ、さっきはありがとうございます。お昼、悪かったね。お詫びに奢るよ」
「いいよ!あんな店で昼飯食わなくて良かったってもんさ! お互いセールスは大変だよな!」
そこからこの人との……飲み会になった。
◇◇◇◇◇◇
途中からこの人……鈴木さんって名前も嘘かホントかわかんないけど……の魂胆は判った。
でも、それでも良かった。
私にとって“商売抜きで寝る”なんて……初めてに近い。
ホテル代は勿論カレが出してくれた。
スマホはさっきから頻繫にメッセの着信を報せているが無視している。
つい、昔の癖でカレを先にシャワーに行かせてしまったが、その分私はビールを飲んでいる。
カレと体を合わせたら、その耳元でこう囁くつもりだ。
「私、ピル飲んでるからナマでいいよ」
と、ずーっと“投げている”スマホがけたたましく鳴り続けた。
見ると社長からの電話だ。
私はため息をついて画面を眺め、3回目のリダイアルで止む無く電話を取った。
「はい」
『お前、大丈夫か?』
「ああ」
『ああじゃわかんねえ! 病院へは行ったのか?』
「別に」
『なぜ行かない?!』
「寝てるから」
『どこで?!』
家で……と答えようとしたらカレが立てた物音がしてこの嘘がつけなくなった。
「ネカフェで……」
『クルマですぐ迎えに行くから場所を教えろ!』
「いいよ!」
『社長命令だ!!』
仕方なくホテルに来る途中で見掛けたネカフェの名前と場所を告げて電話を切った。
そしてテーブルの上に一万円札を置いて部屋を出た。
◇◇◇◇◇◇
社長に強制送還させられた次の日はやはり暑い朝だった。
しかし午後になると急速に雲が厚くなり、遠くで雷鳴が轟いた。
程なくこの辺りも土砂降りとなり……天気予報を見ず、傘を持たないで出て来てしまったバカな私は瓦葺きの数寄屋門の下へ逃げ込んだ。
元々、背中が汗で濡れていた白いブラウスは前も雨に濡れて“中身”の様子が分かる有様で……昨日の様なオトコをまた引き寄せてしまいそうだ。
でも、今日は寝ようとは思わない。
あんなオトコの種じゃ、あかりは生まれてはくれないだろうから……
こんな事をぼんやり考えているとカラカラと門が開いた。
「こんなところではお困りでしょう。どうぞお上がり下さい」
それは声も涼やかな……この家の奥様だった。
「私の様なセールスを家に上げて大丈夫なのですか?」と訊ねたら
「ええ、もちろん」と笑顔でお応えになる奥様は……一種の凛とした気迫があって、私にはとても敵わない人だなと思ってしまう。
だから、出されたお茶も素直にいただいた。
「美味しい!!」
……多分、玉露の冷茶だと思うが……お茶の香りと甘みが見事だ!
私の中の探求心が蠢いた。
どうしても確認したくなった。
私はキャリーバッグを開け、中から“まろやか音”のプロダクトウォーターを詰めたペットボトルを取り出した。
「誠に身勝手なお願いですが、この水でお茶を淹れてみていただけませんか?」
「それはあなたの会社の物?」
「はい、私は浄水器の会社のセールスをしています。でも、これは売り込みではございません。奥様の淹れていただいたお茶が余りにも美味しいものですから、私どもの“水”だとどうなるのかをどうしても知りたくなって! ダメでしょうか?」
そんな私の無理なお願いに奥様は笑顔で応えてくれた。
そして、淹れた下さったお茶はとても素晴らしいお味だった。
◇◇◇◇◇◇
数日後、私は師匠と一緒にこのお家を訪ね、“まろやか音”を設置した。
このお家、谷川様が“まろやか音”の初めてのお客様となり、奥様はその後の私のとても大切なアドバイザーとなった。
そしてこの夜は“まろやか音”の初導入の祝賀会となり、その“二次会”で私は久しぶりで社長とサシで飲んだ。
「どうだった?『産みの苦しみ』は?」
「『産みの苦しみ』?あれが?? そうだね……実際の『産みの苦しみ』がこんなに続いたら人間、生きちゃいけねえよ」
「ん?お前らしくねえな」
「そうか?」
「ああ、お前はマジメに答えてる」
「マジメ??かよ……」
そうか、私の心が……あかりを産む事を常に意識しているからだ……そして、私の周りの人々の中で……その“種”を持っているのは社長くらいしか居ない。
ただ残念ながら……社長はもう“お客”では無く、社長自身も離婚係争中の身だ。
この人を抱き、抱かれる事はできない。
『でも、時が来たら……』と私は夢想しながらいつもより深酔いして独りのベッドへ潜り込んだ。
微かな希望を抱き締めながら……
その翌朝、私は飛翔した後の蝉の抜け殻が残ってはいないかと側溝を探して見た。
ところが見つけ出した蝉の幼虫は背中に薄いエメラルドグリーンを負ったままで……飛翔すること無く雨に押し流され泥に塗れていた。
それを見た私は……しゃがみ込んだまま
きっと訳も無く……
涙を流した。
次話へ続く