第4話:残された地球で
市立桜ヶ丘中学校の放課後。夏休みを二日後に控えた終業式前日、薄暗くなり始めた教室の隅で、青井遥は、目の前の光景に呆然と立ち尽くしていた。数秒前までそこにいたはずの八雲伊助、そして桐谷隼人たち四人組の姿が、跡形もなく消え失せていたのだ。
彼女の記憶には、あまりにも鮮烈な光景が焼き付いている。伊助の足元に突然浮かび上がった、見たこともない奇妙な魔法陣。それが瞬く間に光を増し、教室全体を包み込むような、眩い白光を放った瞬間。全身がねじれるような、骨の髄まで響くような不快感に襲われ、身体中の細胞がバラバラに分解され、再構築されていくような、形容しがたい感覚。それは、まるで自身の存在が、何かの力によって根源から揺さぶられているような、生命の危機を知らせる警鐘のようだった。光が最も強く輝いた瞬間、伊助が空に手を伸ばした、あの焦燥と高揚の混じった表情まで、克明に脳裏に蘇る。
そして、光が収束すると共に、すべてが消え失せた。残されたのは、倒れた椅子と、点灯したままのノートパソコン、そして伊助のビニール傘だけ。机の上には、いじめの痕跡であるサッカーボールが虚しく転がっている。
「伊助…!伊助ー!」
遥は、我を忘れて叫んだ。その声は、恐怖と、彼を失った絶望に満ちていた。彼女はガバリと体を起こし、教室中を見回した。誰もいない。ひんやりとした床の感触が、急速に冷え込んでいく現実を突きつける。窓からは夕焼けが差し込み、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。何も変わっていない。あまりにも、何もかもが、数秒前の光景と同じだった。ただ、彼らだけが、存在しない。
遥は、息を切らしながら教室を飛び出した。廊下、階段、昇降口……。人影がまばらな校内を、彼女は狂ったように駆け回る。どこを探しても伊助の姿はない。校門まで走り、夕暮れの空の下、あたりを見渡す。生徒たちは三々五々、家路についている。皆、いつも通りの日常を送っている。まるで、数秒前に起きた異常な現象など、存在しなかったかのように。
「伊助!どこなの!?」
遥の叫び声は、夕焼けに染まる校庭に虚しく響いた。その声は、彼女自身の耳にも、まるで遠い反響のように、ひどく震えて聞こえた。
その頃、伊助の父親である八雲ゲームズ社長、八雲巌は、自身のオフィスで激務の真っ只中にいた。壁一面に広がる巨大なモニターには、新作ゲームの売上データ、競合他社の動向、開発中のプロジェクト進捗が目まぐるしく表示されている。彼は片手にコーヒーカップ、もう片方にはスマートフォンを持ち、部下への冷徹な指示を飛ばしていた。
「――マーケティング部、プロモーションを強化しろ。特にティーン層へのアプローチが甘い。開発、グラフィックの最終調整は週明けまでに必ず。バグは許されない。完璧な製品だけが、市場を制する」
冷徹な指示が電話越しに響く。彼は仕事においては一切の妥協を許さない、鋼の意志を持つ男だった。家庭を顧みる時間は少なく、一人息子である伊助ともすれ違う日々が続いていた。
その時、彼のスマートフォンの別の回線が震えた。学校からの着信だった。通常ならば秘書が対応するはずの緊急回線。
「なんだ、今度は。伊助がまた何か問題でも起こしたのか?」
苛立ちを滲ませて通話に出る。彼の頭の中では、息子の問題行動(彼から見れば)が、また自身のビジネスの邪魔をするのか、という計算が瞬時に走る。しかし、受話器から聞こえてきたのは、事務的ながらも、明らかに動揺した教師の声だった。
『八雲様、大変申し訳ございません。至急、学校までお越しいただきたく…』 「何事だ?簡潔に話せ」 巌は、感情を抑え、冷静な声で促した。 『伊助くんが…、あの、先ほどの放課後、教室から姿を消しました。他の生徒数名も一緒に…』
伊助が、消えた?
巌の手から、スマートフォンが滑り落ちそうになる。彼の脳裏に、いじめられているという妻からの報告がよぎった。まさか、それが原因で…?いや、そんなはずはない。自分の息子が、家出などという愚かな真似をするはずがない。誘拐か?しかし、脅迫の連絡もない。彼の完璧な論理回路が、目の前の情報を処理しきれない。
彼はすぐに冷静さを取り戻し、受話器を耳に押し当て直した。 「詳しく話せ。何があった?いなくなったとは、どういうことだ?何人だ?」
教師からの説明は、あまりにも不可解なものだった。放課後、教室に残っていた伊助と、桐谷隼人、佐々木健太、田中勇一、山田太郎の5人の生徒が、突如として姿を消したというのだ。目撃者はおらず、防犯カメラにも不審な点は見当たらない。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。既に警察が入り、学校中が騒然としているらしい。教師の声は、混乱と焦燥で震えていた。
「ふざけるな!そんな馬鹿な話があるか!誘拐か!?それとも、集団家出か!?どちらにせよ、貴様ら学校側の責任だぞ!」 巌は激高した。彼にとって、伊助は唯一の息子だ。仕事で忙殺される日々の中でも、心の奥底で常に気にかけていた。特に、中学に入ってから伊助がいじめられているという話は、妻から聞いて知っていた。まさか、それが原因で……。しかし、それ以上に、彼の完璧な世界に、説明不能な「エラー」が発生したことへの、激しい苛立ちと恐怖があった。
彼は即座に秘書に指示を飛ばした。 「全社員に緊急連絡。今日の業務はすべて中断。八雲伊助の行方を追え。全国の支部にも連絡を回し、あらゆる情報を収集しろ。警察にも最大限の協力を惜しむな!あらゆる可能性を排除するな!」
頭の中では、冷静な経営者としての思考と、息子を心配する父親としての感情が、激しく渦巻いていた。伊助の母親にも連絡を入れなければ。だが、どう説明すればいい? 突然、息子が消えた、などという荒唐無稽な話を、誰が信じるというのか。彼自身も、あの「光」や「魔法陣」といった、遙が覚えているような現象については、一切の記憶がなかった。ただ、「消えた」という事実だけが、冷酷な現実として突きつけられていた。
「伊助…一体、どこへ行ったんだ……」
巌は、窓から見える夕焼け空を見上げた。高層ビル群の合間に広がる空は、どこまでも広く、伊助がどこにいるのか、全く手がかりを与えてはくれなかった。彼の論理的な世界は、今、目の前の「バグ」によって、静かに侵食され始めていた。
同じ頃、中学校の柔道場。硬い畳の独特な匂いが満ちる空間で、石畑 強介は弟の恭弥と共に汗を流していた。顧問教師と他の部員はすでに帰路につき、二人だけが残って黙々と練習に励んでいる。強介の巨体からは湯気のように汗が立ち上り、その眼鏡の奥の瞳は、ひたすらに冷静で、揺るぎない光を宿していた。一方、恭弥もまた、兄の指示に従い、体重120kgを超える巨体から繰り出される破壊的な技を、何度も繰り返し放っている。その技は粗野だが、その威力は間違いなく全国トップレベルだった。
「恭弥。今日の投げ込みはここまでだ。お前の動き、まだ無駄が多い。特に重心移動。地球の物理法則とこの世界の魔力の流れを融合させれば、もっと効率的な動きができるはずだ。だが、お前には理解できまい」
強介は、恭弥の柔道の動きを、まるで複雑な物理現象を解析するかのように分析し、的確な指示を与える。彼は柔道の全国大会で優勝するほどの実力者だが、その真の才能は、武術だけでなく、あらゆる事象を論理的に解き明かす知性にある。
「ちっ、わかってるよ、兄貴。俺は兄貴みたいに頭良くねーんだよ。まあ、伊助よりはマシだけどな。あいつはひょろひょろで、俺が本気出せば一撃で終わるんだ」 恭弥は苛立ちを隠せない様子で答える。彼の顔には、兄に対する強い劣等感が滲んでいた。彼にとっての「強さ」は、あくまで物理的な暴力に限定される。伊助をいじめるのも、自分が伊助よりも強いことを証明し、兄に認められたいという歪んだ願望からだった。伊助の「知性」は、彼にとって理解できないものであり、だからこそ、その存在を排除することで、自分の優位性を確認しようとしていたのだ。
強介は、恭弥の言葉に何も返さなかった。彼の脳裏には、伊助の姿が浮かんでいた。伊助の持つ、数学と情報処理に関するずば抜けた才能。かつて、強介が完璧だと思っていた数式の誤りを、伊助がごく自然に、そして正しいと証明してみせたことがあった。その時の屈辱感は、彼のプライドに深く刻み込まれていた。彼は、伊助を自分の支配下に置きたいという歪んだ願望と、同時に、その才能を乗り越えたいという強い競争心を抱いていた。
(八雲伊助…あのオタクは、この世界の「理」の根源に触れている。だが、彼はそれに気づいていない。この世界は、力こそすべてだ。そして、私はその力を支配する者になる。まずは、彼らが異世界でどのような反応を示すか、観察させてもらおう)
強介は、冷徹な笑みを浮かべた。彼にとって、桐谷たちはいわば「手駒」に過ぎない。伊助をいじめさせることで、その反応を観察し、彼の心理や才能の深淵を探ろうとしていた。彼らは、伊助とは別の「目的」のために、この中学校にいたのだ。強介は、彼らを異世界へ送り込む準備を着々と進めていた。
その時、柔道場の引き戸が勢いよく開かれ、顧問教師が荒い息をしながら飛び込んできた。その顔には、普段の厳しい表情は影を潜め、混乱と焦燥が色濃く浮かんでいた。
「石畑(強介)!石畑(恭弥)!大変だ!八雲と、桐谷、佐々木、田中、山田の5人が、学校から突然いなくなった!」
顧問の声に、強介は組んでいた相手を静かに放し、眼鏡の奥の瞳を細めた。その表情には、一切の動揺が見られない。恭弥は兄の顔色をうかがうように、不安げな表情を浮かべる。彼の巨体は、一瞬にして硬直した。
「いなくなった、とは?」 強介は冷静に問いただした。その声は、感情を一切含まない、純粋な探求の響きを持っていた。
顧問は、今日放課後、教室にいた5人が突如として姿を消したこと、目撃情報もなく、防犯カメラにも不審な点は見当たらないことを報告した。既に警察が学校に駆けつけ、捜査を開始しているという。学校中が混乱の渦に巻き込まれている状況だ。
(八雲伊助…あの陰気なオタクが消えた、か。そして桐谷たちも。まさか、あの柔道バカどもが本当に何か余計なことをしたのか?いや、それにしては痕跡がなさすぎる…)
強介の頭の中では、顧問教師の話す内容と、自身の持つ情報が高速で照合されていく。彼が伊助をライバル視し、その行動を密かに観察していたからこそ、今回の「消失」が尋常ではないことに即座に気づいた。伊助が、いじめられた末に姿を消すなど、彼の性格からしてありえない。また、桐谷たちが集団で何かを企てて失踪する、というのも、あの単純な連中には難しすぎる。これは、彼の予期せぬ「事象」であり、彼の知的好奇心を強く刺激するものだった。
「馬鹿な。そんなことがあり得るのか!?」 恭弥が、不安を隠せない様子で呟いた。彼の巨体は震え、汗が額を伝う。兄の強介とは異なり、恭弥は純粋に状況の異常さに動揺している。彼にとって、桐谷たちは自分が従える手下であり、その手下たちが突然消えるなど、理解の範疇を超えていた。彼の「力こそすべて」という単純な世界観が、目の前の理解不能な事態によって揺さぶられていた。
強介は、弟の動揺をちらりと一瞥するも、特に反応しない。彼の関心は、この「消失」という現象そのものにあった。 (この世の理屈では説明できない。まるで、次元の壁でも越えたかのような…いや、まさに私が探求していた、『世界線』の移動か?)
彼自身は伊助へのいじめに直接関与していなかったが、恭弥を介して桐谷たちを操り、伊助の能力を測っていた過去がある。その伊助が、理解不能な形で消えた。これは、彼自身の「力こそすべて」という哲学を揺るがしかねない、未知の現象だ。
「明日の終業式も中止だ。皆さん、今日はもう帰りなさい。警察の捜査に協力してほしいが、くれぐれも余計なことはするな」 顧問の言葉に、生徒たちがざわめき始める。恭弥もまた、動揺を隠せないまま、兄の背中を追うように柔道場を出た。
強介は、その日以来、伊助たちの消失について独自の情報収集を開始した。警察の捜査状況、生徒たちの間での噂、そしてインターネット上の不可解な現象に関する情報。彼は、自分の知性を総動員し、この世界の「バグ」とも言える現象の解明に乗り出す。伊助がどこへ行ったのか。そして、もしそれが、彼が追い求める「力」の新たな次元を示すものならば、いずれ自分もその扉をこじ開けてみせる。強介の冷徹な瞳には、消えたライバルへの執着と、未知への飽くなき探求心が宿っていた。それは、彼自身の「力こそすべて」という哲学の、新たな応用への模索でもあった。
自宅に帰り着くと、玄関の扉が開いていた。隣の八雲家も、いつも通りの静けさだ。遥は、急いで隣の家へ向かい、インターホンを連打した。その音は、遥の焦燥をそのまま表しているかのようだった。ドアが開くやいなや、彼女は中に飛び込んだ。
「おばさん!伊助が、伊助がいなくなっちゃったの!桐谷君たちも!」
遥は息を切らしながら伊助の母親に訴えかけた。リビングで家計簿をつけていた伊助の母親、真奈美は、突然の遥の来訪と、その尋常ならざる様子に、驚いた顔で振り返る。彼女の優しげな顔には、心配の色が浮かんでいた。
「あら、遥ちゃん?どうしたの、そんなに慌てて。伊助なら、さっきお父さんから電話があって、まだ連絡が取れないって大騒ぎよ。学校でも、あなた以外の5人の生徒が突然いなくなったから、警察が来て調べているのよ。私も今、八雲さんから電話があって、話を聞いたばかりで…」
伊助の母親の言葉に、遥は愕然とした。伊助が父親とゲームの視察に?そんなことは、伊助の人見知りぶりを考えればありえない。しかし、母親の顔に浮かぶのは、困惑と、そして深い心配の色だった。彼女の瞳は、遥の言葉を理解できないと訴えている。
「違う!伊助は、私と一緒に教室にいたんだよ!そしたら突然、光が出て…!足元に、変な魔法陣みたいなのが光って…!」
遥は必死に説明しようとする。言葉を選び、正確に伝えようとするが、彼女の興奮が言葉を混乱させる。伊助の母親は、遥のただならぬ様子に眉をひそめ、優しく遥の両肩を掴んだ。
「遥ちゃん、落ち着いて。今日の放課後、あなたたちが教室にいたことは、みんな知っているわ。でも、どうしてか、伊助くんと桐谷くんたち4人が、あの後、突然姿を消してしまったのよ。学校中が騒ぎになって、警察も来て捜索しているの。桐谷くんたちのご両親も、みんな心配して、警察に協力しているみたいだわ。あまりにも突然の出来事だから、明日の終業式も中止になったって、学校から連絡があったのよ。一体どこに行ってしまったのかしら…」
伊助の母親は優しく遥の頭を撫でたが、その言葉は遥の現実を打ち砕くものだった。学校中が騒ぎになり、警察まで動いている。さらに、翌日の終業式まで中止になったという。その事実は、伊助たちが「消えた」という事態の深刻さを物語っていた。しかし、伊助の母親も、桐谷たちの家族も、誰もあの「光」や「魔法陣」の記憶はない。彼らは「突然行方不明になった」と認識しているだけで、その原因を誰も説明できない。まるで、彼らがこの世界から物理的に消え去ったかのように、しかしその消失の「過程」だけが、人々の記憶から抜け落ちているようだった。遥の体験だけが、異質なものとして、宙に浮いていた。
(誰も、あの光のことを覚えてない……。私だけが、あの時のことを覚えてる…? まるで、私だけが、奇妙な夢を見たみたいに……)
遥は唇を噛み締めた。全身から力が抜けていくような感覚に襲われる。警察に直接話しても、信じてもらえないだろう。光や魔法陣など、荒唐無稽な話をすれば、きっと精神的におかしくなったと思われるだけだ。信じてもらえない。自分が正気を失ったと、誰もが思うだろう。孤独感が、遥の心を深く覆った。
しかし、遥の心の中には、確かな感覚が残っていた。それは、あの光に包まれた時、彼女の身体にまるで電流が走ったかのような、微かな、しかし特別な感覚だった。それは、普段の彼女には感じられない、空気中の微細な「揺らぎ」のようなものだった。風が吹くと、その風の中に、目には見えない「線」が見えるような。木々が揺れると、その葉の一枚一枚から、ごく微かな「音」が聞こえるような。それは、彼女の身体に宿った、新しい「五感」のようだった。彼女はその「揺らぎ」を、まるで追跡すべき光の筋のように感じ取っていた。
(伊助…私、絶対に伊助を見つける。何が起こったのか、私が突き止めるんだから! 私にしか見えない、この『光の筋』が、きっと手がかりになるはず…!)
彼女は自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。しかし、横たわったまま、じっと天井を見つめる。心の中では、あの日の光景が何度もフラッシュバックする。そして、伊助が、彼女を庇ってくれた時の彼の背中が。彼の、いつもは震えていたはずの背中が、あの瞬間だけは頼もしく見えた気がした。
遥は、静かに拳を握りしめた。
夏休みは始まったばかりだが、遥にとって、それは伊助を探すための、孤独な戦いの日々の始まりでもあった。彼女は、伊助の母親の書斎に置いてあった、異世界ラノベの山をじっと見つめた。伊助が読み込んだであろう、現実離れした物語たち。もしかしたら、この中に、彼らの身に起こったことの手がかりがあるかもしれない。彼女の直感は、そう告げていた。それは、彼女自身の新たな「探求」の始まりでもあった。