第2話:落ちこぼれの計算と密かな共鳴
リスタルニア王城の一角、日の当たらない薄暗い通路を、八雲伊助は大きなバケツと雑巾を抱えて歩いていた。あの召喚の日から、どれほどの時間が経ったのだろう。地球の感覚では数日、いや、もしかしたら一週間ほどかもしれない。彼の脳内ディスプレイには、この異世界の時間軸と地球の時間軸とのずれを補正しようとする計算が常に走っている。しかし、明確な同期信号がないため、誤差は増大する一方だ。
「ここも、もう少し丁寧にな」
すれ違う騎士が、伊助の手元の雑巾をちらりと見て、不愛想に言い放つ。彼らは、伊助を「異世界から来た役立たず」として認識していた。魔力適性を持たず、剣も振るえず、ただうつむいて命令に従うだけの少年。それが、今の伊助の評価だった。
彼の日常は、王城の雑用で埋め尽くされていた。床磨き、窓拭き、食事の配膳、庭の手入れ…。「雑用係」という言葉は、伊助にとって、地球での「キモいオタク」「いじめられっ子」というレッテルと何ら変わらなかった。むしろ、ここは言葉も通じない異世界だ。疎外感は地球にいた時よりもさらに強く、胸を締め付ける。
(なぜ、僕はここにいるんだろう…?地球では、何もできない臆病者だった。ここでは、ただの役立たずの雑用係。僕は、一体何のためにここに…)
拭いても拭いても、石造りの床の冷たさは変わらない。伊助の心は、次第に鉛のように重くなっていった。あの召喚時の興奮は、日々の単純作業と、周囲の冷たい視線の中で、砂のように乾いていく。
王城の中には、華やかな場所も存在した。毎日、昼食時には、桐谷隼人たちが騎士たちに囲まれ、賑やかに食事をしていた。彼らはすでに、この世界の言葉を流暢に操り、騎士たちと冗談を言い合っている。桐谷は自信満々に笑い、佐々木は冷ややかな目で周囲を見回し、田中は豪快に肉を頬張り、山田はおどおどしながらも彼らに追従している。
彼らの訓練の様子も、たびたび聞こえてくる。王城の公式訓練場からは、炎が轟き、水が渦巻き、風が唸り、大地が揺れる音が響き渡る。 「さすがは真の勇者様方!素晴らしい魔力です!」 騎士たちの称賛の声が、伊助のいる雑用部屋まで届く。
(僕は…何一つ、力になれていない…)
伊助は、床を拭く手を止め、深くうつむいた。彼のノートパソコンは、王城に来てすぐに没収されてしまった。それは、彼の唯一の心の拠り所だった。今や、彼には思考を現実世界に具現化するための「インターフェース」さえもない。この世界は、彼の知性を必要としていない。ただ、彼を「役立たず」として消費しようとしているだけなのだ。
彼は、自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。天井の石壁は、冷たく、無機質だ。まるで、彼の心を映し出すかのようだった。しかし、彼の脳内では、まだ諦めていなかった。彼は、この世界の魔法の「コード」を、頭の中で再構築しようと試みていた。魔力の流れ、詠唱の法則、魔法陣の構造…すべてを数学的モデルに落とし込み、シミュレーションする。しかし、具体的な「入力」や「出力」ができない現状では、それは机上の空論に過ぎなかった。
その日の夜、伊助は、いつものように食事の配膳を終え、食器を片付けていた。厨房の裏手にある薄暗い通路を通りかかった時、ふと、視線を感じた。
振り返ると、そこに立っていたのは、リスタルニア王国の第三王女、リアーナ・アークス・リスタルニアだった。彼女は、王族の豪華なローブではなく、騎士団の見習い服を身につけていた。その瞳は、暗闇の中でも静かに輝き、まっすぐに伊助を見つめていた。
(王女…?なぜ、ここに…)
伊助は、反射的に体を硬直させた。まさか、雑用係の自分が王女に声をかけられるなど、想像もしていなかった。王女がこんな裏路地に来るはずがない、と。
リアーナは、ゆっくりと伊助に近づいた。その表情には、警戒心も、嘲りも、憐憫もなかった。ただ、深い好奇心と、何かを探し求めるような真剣さがあった。
「八雲伊助…あなたね?」
彼女の声は、どこか物憂げだが、その言葉には確かな意思が宿っていた。
伊助は、小さく頷いた。
「やはり…私の直感は正しかったわ。あの召喚の儀式で、あなたは他の勇者とは違う輝きを放っていた」
リアーナの言葉に、伊助は目を見開いた。彼女は、あの時、自分から何も光が放たれなかったこと、そして周囲の誰もが自分を「適性なし」と見なしたことを知っているはずだ。しかし、彼女は「違う輝き」と言った。
「あの時…あなたの足元で、魔力適性診断の光が、誰にも気づかれないほど微細に…『振動』していたわ。それは、この世界の魔力とは異なる、もっと根源的な『理』に触れる光だと、私には感じられた」
リアーナは、伊助の目を見つめながら、静かに語った。彼女の瞳は、伊助の心を覗き込むかのように、深く澄んでいた。
伊助は、息を呑んだ。彼女の言葉は、彼の脳内ディスプレイに表示されていた「ERROR: 魔力適性未検出。原因不明の異常値」という表示に対する、唯一の「解」を示していた。彼自身の体が感じ取った「何か」を、彼女は確かに感じ取っていたのだ。
「私には、物事の『本質』や『流れ』を漠然と予感できる力があるの。他の人には理解されない、ただの『異能』だとされているけれど…あなたのその『光』は、この世界の魔法の根源を揺るがすものだと、私には確信できたわ」
リアーナは、自分の手のひらを見つめながら続けた。その声には、彼女自身の「落ちこぼれ」としての苦悩と、しかしその「異能」への誇りが混じっていた。
「私の力は、魔力そのものを操ることはできない。けれど、魔力の『歪み』や『不和』を感知できる。あなたが、この世界で何も『できない』とされているのは、あなたの力が、この世界の『常識』から外れているからよ。それは、決して『無能』なのではないわ。むしろ、この世界の魔法を、根本から変革する可能性を秘めているはずよ」
彼女の言葉は、伊助の心を深く揺さぶった。彼は、異世界に来て初めて、自分の存在を肯定された気がした。自分の「異質さ」が、ここでは「可能性」として見られているのだ。
「あなたのその力…私に、この世界の『理』を教えてくれないかしら?私は、あなたの『デバッグツール』になれるはずよ」
リアーナは、真剣な眼差しで伊助に手を差し出した。それは、一人の王女が、雑用係の少年に、対等な立場で協力を求める姿だった。
伊助は、その差し出された手を見つめた。脳裏には、いじめられていた地球での記憶と、目の前の少女の言葉が交錯する。彼女は、彼の「異質さ」を受け入れ、むしろそれを「力」として評価している。伊助の心に、忘れかけていた探究心が再び燃え上がるのを感じた。
「…僕の…力は…地球の『プログラミング』や『数学』の知識が、この世界の『魔法のコード』と結びついたものだと考えています。この世界の『魔力』は、まるでエネルギー源で、詠唱は『命令文』、魔法陣は『回路図』のようです。僕がやろうとしているのは、その『コード』を最適化することです」
伊助は、どもりながらも、必死に自分の理論を説明した。彼が最も得意とする、しかし地球では誰にも理解されなかった「思考」を、目の前の少女は真剣に、そして興味深そうに聞いてくれる。
「素晴らしいわ…!まさに、私が求めていたものよ!その『コード』、私にも教えてほしいわ。そして、私があなたの『デバッグ』をしましょう。二人の力があれば、きっと…この世界の魔法の常識を、根本から覆せるはずよ」
リアーナは、伊助の言葉に目を輝かせた。彼女の瞳には、未知の領域への探求心が満ちていた。
こうして、王城の日の当たらない裏路地で、騎士団の「落ちこぼれ」王女と、「適性なし」の雑用係勇者の、密やかな共同研究が始まった。
それから数日、二人の密会は続いた。王城の裏手にある、普段誰も使わない古い訓練場が、彼らの秘密基地となった。そこは、錆びた剣が放置され、草木が生い茂る、まさに「忘れ去られた場所」だった。しかし、二人にとっては、誰の目も気にせず、自由に思考を巡らせ、実験を試みることができる、唯一の聖域だった。
伊助は、この世界の「物理法則」を、数学的モデルに落とし込む作業を続けた。彼の脳内では、魔力粒子の挙動、元素の結合、エネルギーの変換効率などが、複雑なグラフや数式となって展開される。リアーナは、そのすべてを理解することはできないまでも、彼の言葉に耳を傾け、彼の思考の「歪み」を、自身の感覚で捉えようと努めた。
「伊助、今の魔力の流れ…少しだけ『歪み』を感じるわ。もっと、こう…『滑らか』に、ね。まるで、水面を滑る小石のように、抵抗なく進むべきなのに、どこかで波紋が乱れるような…」
リアーナは、目を閉じながら指示を出す。伊助が傘を通して行使した微細な風の操作を見て、その魔力の流れの「不調和」を感知するのだ。彼女の言葉は詩的で抽象的だが、伊助の脳内ではそれが具体的な数値や波形として瞬時に変換され、プログラムのバグが特定されていく。
伊助はすぐに脳内のプログラムを修正し、再び傘を振るった。
風が、訓練場に立てられた古びたダミーの表面を、かすかに撫でる。その動きは、先ほどよりもはるかに洗練されていた。伊助の脳内ディスプレイには、空気中の魔力粒子が、より洗練された、まるで数学的に完璧な軌道を描いて動く様子が可視化された。無数の光の点が、寸分の狂いもなく配列され、一方向に流れていく。
「なるほど…この『歪み』は、魔力粒子の配列における微細な『乱れ』、あるいは『ノイズ』ですね。僕のプログラムの、特定の『関数』の呼び出し順序か、または『引数』の設定に問題があったようです。リアーナの感覚は、それをエラーとして検知している…まさに、生きているデバッグ機能ですね」
伊助は興奮気味に語る。リアーナの抽象的な表現が、彼にとっては最新の物理シミュレーションにおける誤差検出のようだった。彼は、この「滑らかさ」が、魔法の「効率」と「精度」に直結することを理解し始めていた。それはまるで、プログラミングにおける最適なアルゴリズムを見つける作業に似ていた。
そして、彼らは、土の塊から不純物を取り除き、純粋な鉱物だけを抽出するような、錬金術の基礎的な練習へと移行した。これは、伊助にとって、この世界の物質の「原子構造」に直接干渉する、最初の実践的な試みだった。
手のひらサイズの粗末な土の塊を、伊助は傘の先端で軽くつつく。脳内では、その土塊を構成する元素の結合状態が立体的に解析され、不要な元素が赤い線で、必要な元素(例えば鉄や銅の微粒子)が青い線で表示される。彼は、その赤い線(結合)を断ち切り、青い線(結合)を再構築するための最小限の魔力操作を行う。最初は数分かかった作業が、今では数秒で完了する。土の分子構造から不要な元素を切り離し、必要な元素だけを再構成する。それは、伊助にとって、まるで複雑なパズルを解くような、純粋な知的な快楽だった。そして、彼の能力が、この世界の「理」を書き換える可能性を秘めていることを、彼自身が実感し始めた瞬間でもあった。
「凄い…伊助。本当に、何でもできるのね。まるで、無から何かを生み出しているようにも見えるわ」
リアーナは、目の前で粗末な土の塊が、ほんの少しの輝きを帯びた銀色の砂粒へと変わる様を見て、ため息をついた。彼女の瞳は、伊助への深い尊敬と、ほんのわずかな嫉妬の色を帯びていた。伊助の能力は、彼女が教えられた魔法の常識を遥かに超えていた。彼の知性は、この世界の魔法の限界を打ち破り、新たな可能性を切り開いている。彼女は、自分には決してできないであろう、その圧倒的な知的な探求心に魅了され始めていた。伊助の地味な、しかし確実に成果を上げる「魔法」は、彼女の心を掴んで離さない。彼の隣にいることで、自分自身の「異能」にも意味が見出せる。それは、孤独だった彼女にとって、かけがえのない喜びだった。
一方、王城の公式訓練場では、桐谷隼人たちが連日、派手な魔法を放ち、周囲の喝采を浴びていた。
「ハハハ!どうだ!この圧倒的な力が、真の勇者の証しだ!魔王など、この俺の炎で一瞬にして灰にしてやるぜ!」
桐谷は高らかに笑い、巨大な火炎球を宙に放った。その炎は訓練用の岩を瞬く間に蒸発させ、周囲の騎士たちから「おおーっ!」という感嘆の声が上がる。
佐々木健太は、桐谷の隣で冷笑を浮かべ、水流の渦で訓練用のダミーを吹き飛ばした。 「せいぜい頑張れよ、隼人。俺の水の壁があれば、お前は無敵だ」 彼の魔法は、直接的な破壊力よりも、敵の行動を制限したり、味方を支援したりするのに優れていた。
田中勇一は、風の刃を連続で放ち、訓練用の標的を寸断していく。その一撃一撃は荒々しく、力任せだった。 「へへっ、どうだ!俺の風は、どんな奴も切り裂くぜ!」
山田太郎は、分厚い土壁を瞬時に作り出し、桐谷の炎から他のダミーを守っていた。彼の魔法は防御に特化しており、その堅牢さは騎士たちも目を見張るほどだった。 「これなら…どんな攻撃も防げる…」 おどおどしながらも、自分の役割を全うしようとする。
彼らは、王族直属の騎士団長アルドリック・ヴァルデオンから直接指導を受け、最高の魔石と訓練施設を与えられていた。彼らにとって、強さとは目に見える力であり、派手な魔法こそが「勇者」の証だった。そして、彼らがこの世界を救う唯一の存在だと、固く信じ込んでいた。彼らの間には、すでに「この世界は自分たちが救うのだ」という強烈な選民思想が芽生え始めていた。
「あの落ちこぼれどもが、隅っこで何をしてようと、俺たちには関係ねぇな。せいぜい、薬草でも選別してろってんだ。あんなヒョロヒョロのオタクに何ができるってんだよ」
佐々木が冷たく言い放つ。彼の口元には、伊助たちを見下す冷笑が浮かんでいた。彼らの脳裏には、伊助が教室でパソコンに向かっていた「キモい」姿が焼き付いており、彼の地味な存在は、自分たちの輝きを際立たせるための引き立て役に過ぎなかった。彼らの優越感は、日ごとに増していく。
騎士団長アルドリックもまた、桐谷たちの成長に目を細めていた。彼らは、まさに魔王討伐の切り札となるだろう。伊助の存在など、彼の思考の片隅にもない。彼にとって、戦力にならない者は、雑用をこなすだけの存在でしかなかった。それが、彼の冷徹な現実主義だった。
その頃、地球では、中学校の教師たちが慌ただしく校舎内を巡回し、警察官が鑑識作業を行っていた。終業式前日の放課後に生徒5人が突如として姿を消したという未曽有の事態に、学校は完全にパニック状態だった。校内には張り詰めた空気が漂い、翌日の終業式も中止が決定した。警察はあらゆる可能性を視野に入れ、大々的な捜査に乗り出していたが、何の手がかりも掴めずにいた。まるで、彼らが空間そのものに飲み込まれたかのように、跡形もなく消え失せたのだ。
伊助の父親、八雲巌は、自身のオフィスで電話を耳に押し当てていた。彼の顔には疲労の色が濃く、目元には深いクマが刻まれている。 「…そうですか。やはり、何の手がかりも…。防犯カメラにも、不審な人物の影一つない、と。…分かりました。引き続き、全力を尽くしてください。私も、あらゆる手段を講じます」
電話を置いた巌は、深くため息をついた。彼の頭の中は、息子の安全と、この異常事態の原因究明で埋め尽くされている。彼は会社の全リソースを投入し、情報網を駆使して伊助の行方を探していた。しかし、どんなに論理的に分析しても、今回の事件は説明がつかない。彼のような現実主義者にとって、それは存在しない「バグ」のようなものだった。息子がいじめられていたことは知っていたが、それが失踪に繋がるとは思えない。まるで、空間そのものが彼らを飲み込んだかのように、彼らの存在は世界から消え去ったのだ。
「伊助…一体どこへ…」
普段、感情を表に出さない巌の顔に、深い苦悩が浮かんでいた。彼の権力や財力をもってしても、息子を見つけられないという事実が、彼を深く苛んでいた。
遥もまた、孤独な戦いを続けていた。自宅の部屋にこもり、伊助の母親の書斎から持ち出した異世界ラノベを貪るように読んでいた。ページをめくるたびに、彼女は自分の記憶と、物語の中の記述を照らし合わせる。
「『聖なる儀式によって、異世界の勇者を召喚する』…やっぱり、これだ。私が体験したのは、これだわ…。魔法陣…光…そして、召喚された勇者たち…」
彼女だけが覚えている「光と魔法陣」の記憶。その手がかりが、まるでファンタジーの世界に隠されているとでも言うように、伊助が読み込んだであろう物語の中に存在していた。ラノベの描写に、自分の身体が感じたあの「ねじれるような不快感」や「身体中の細胞が再構築される感覚」が、驚くほど合致する。彼女は、この物語が、伊助が飛ばされた異世界についての手がかりであると確信し始めていた。
そして、彼女の身には、あの時以来、奇妙な変化が起きていた。時折感じる空気中の微かな「揺らぎ」。それは、風が吹くと、その風の中に、目には見えない「線」が見えるような。木々が揺れると、その葉の一枚一枚から、ごく微かな「音」が聞こえるような。それは、彼女の身体に宿った、新しい「五感」のようだった。彼女はその「揺らぎ」を、まるで追跡すべき光の筋のように感じ取っていた。
「この『揺らぎ』が、きっと伊助と繋がっているんだ。私にしか見えない、この手がかりが…」
遥の瞳は、悲しみと、そして揺るぎない決意に満ちていた。彼女は、異世界ラノベを閉じて、静かに拳を握りしめた。伊助がどこにいても、彼女は必ず彼を見つけ出すと、心に誓った。
夏休みは始まったばかりだが、遥にとって、それは伊助を探し出すための、孤独で、そして危険な旅路の始まりでもあった。彼女の静かな決意は、異世界で「理」の探求を始めた伊助、そしてその影で暗躍を始める石畑強介、そして後に伊助たちの前に立ちはだかる恭弥の存在に、まだ届くことはなかった。