表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/65

第1話:召喚されしオタクと残されし幼馴染

市立桜ヶ丘中学校の放課後。夏休みを二日後に控えた終業式前日の、熱気に満ちた教室は、すでに大半の生徒が帰路につき、まばらになっていた。遠くで運動部の掛け声が聞こえ、蝉の鳴き声が降り注ぐ。そんな喧騒とは無縁の、教室の隅。窓際の席で、八雲伊助はいつものようにノートパソコンと向き合っていた。分厚い眼鏡の奥の瞳は、ディスプレイに映し出された無数の数式とプログラミングコードを猛烈な速度で追いかけている。彼の周りには、使いかけの参考書と、無造作に置かれたビニール傘。この傘は、彼の唯一の外出用具であり、外部から自分を遮断するための結界のようなものだった。


伊助にとって、学校という場所は、不快なノイズに満ちた檻だった。なぜ自分はここにいなければならないのか。理解できない「常識」や「同調圧力」に常に息苦しさを感じていた。彼の唯一の救いは、彼自身の頭の中に広がる、無限の論理と情報の世界だった。


「…このアルゴリズムなら、魔力消費を理論値の0.001%まで削減できる。既存の魔法陣の構造を根底から見直す必要があるが、その先に最適解があるはずだ」


伊助はぶつぶつと独り言を呟きながら、指を高速でキーボードの上で走らせる。彼が今、解析しているのは、どこかのウェブサイトで見つけた、ファンタジー小説に登場する「魔法陣の構造」に関する考察だった。現実には存在しないはずの「魔法」を、数学と物理学、そしてプログラミングの観点から解析し、その「ことわり」を解き明かすことこそが、彼の最高の娯楽だった。彼は、「もし魔法が現実にあるとしたら、それはどのような『コード』で書かれているのか」という問いに、常に魅了されていた。


その時、教室の扉が大きく開いた。伊助は、びくりと肩を震わせ、眼鏡の奥から顔を上げた。そこに立っていたのは、クラスの「王様」である桐谷隼人、そしてその取り巻きたちだった。


「よお、ヤクモ。まだいたのかよ、こんなところでジメジメと。夏休み前だっつーのに、相変わらず陰気くせぇな」


桐谷が、サッカーボールを指先で回しながら、嘲るように言った。その隣には、いつもニヤついた笑みを浮かべる佐々木健太、脳筋の田中勇一、そしておどおどとしながらも彼らに追従する山田太郎。彼らはいわゆるクラスの「陽キャ」グループだった。彼らの視線が、伊助に、そして彼のノートパソコンに注がれる。


伊助は何も言わず、ただうつむく。彼らが何を求めているのか、嫌というほど分かっていたからだ。反抗すれば、さらに酷い目に遭うだけだと。


「おいおい、俺たちに挨拶もねぇのかよ、ヤクモ?せっかくお前みたいなキモい奴に声かけてやってんのにさ」 田中が、伊助の机を蹴る。パソコンがガタッと揺れ、伊助は反射的にディスプレイを庇った。


「よせよ、田中。ヤクモは今、異世界と交信してる最中なんだろ?なあ、ヤクモ?」 佐々木が、からかうように笑う。その瞳の奥には、冷たい侮蔑の色があった。


(まただ…また始まった…)


伊助は唇を噛み締める。彼らの言葉一つ一つが、ナイフのように伊助の心を抉る。自分が彼らに理解されないことは知っていた。だが、それでも、この理不尽な暴力と嘲笑に、伊助はただ耐えるしかなかった。


しかし、このいじめグループを真に動かしているのは、その場にはいないもう一人の存在だった。


同じ頃、柔道場では、石畑 強介が弟の恭弥と共に汗を流していた。顧問教師と他の部員はすでに帰路につき、二人だけが残って黙々と練習に励んでいる。強介の巨体からは湯気のように汗が立ち上り、その眼鏡の奥の瞳は、ひたすらに冷静な光を宿していた。一方、恭弥もまた、兄の指示に従い、体重120kgを超える巨体から繰り出される破壊的な技を、何度も繰り返し放っている。その技は粗野だが、その威力は間違いなく全国トップレベルだった。


「恭弥。今日の投げ込みはここまでだ。お前の動き、まだ無駄が多い。特に重心移動。地球の物理法則とこの世界の魔力の流れを融合させれば、もっと効率的な動きができるはずだ」


強介は、恭弥の柔道の動きを、まるで複雑な物理現象を解析するかのように分析し、的確な指示を与える。彼は柔道の全国大会で優勝するほどの実力者だが、その真の才能は、武術だけでなく、あらゆる事象を論理的に解き明かす知性にある。


「ちっ、わかってるよ、兄貴。俺は兄貴みたいに頭良くねーんだよ。まあ、伊助よりはマシだけどな」 恭弥は苛立ちを隠せない様子で答える。彼の顔には、兄に対する強い劣等感が滲んでいた。彼にとっての「強さ」は、あくまで物理的な暴力に限定される。伊助をいじめるのも、自分が伊助よりも強いことを証明し、兄に認められたいという歪んだ願望からだった。伊助の「知性」は、彼にとって理解できないものであり、だからこそ、その存在を排除することで、自分の優位性を確認しようとしていたのだ。


強介は、恭弥の言葉に何も返さなかった。彼の脳裏には、伊助の姿が浮かんでいた。伊助の持つ、数学と情報処理に関するずば抜けた才能。かつて、強介が完璧だと思っていた数式の誤りを、伊助がごく自然に、そして正しいと証明してみせたことがあった。その時の屈辱感は、彼のプライドに深く刻み込まれていた。彼は、伊助を自分の支配下に置きたいという歪んだ願望と、同時に、その才能を乗り越えたいという強い競争心を抱いていた。


(八雲伊助…あのオタクは、この世界の「ことわり」の根源に触れている。だが、彼はそれに気づいていない。この世界は、力こそすべてだ。そして、私はその力を支配する者になる)


強介は、冷徹な笑みを浮かべた。彼にとって、桐谷たちはいわば「手駒」に過ぎない。伊助をいじめさせることで、その反応を観察し、彼の心理や才能の深淵を探ろうとしていた。彼らは、伊助とは別の「目的」のために、この中学校にいたのだ。


教室の入り口には、もう一人、心配そうに様子をうかがう生徒がいた。青井遥。八雲伊助の幼馴染だった。


彼女は、伊助がいじめられていることを知っていた。いつも、どうにかして助けてやりたいと思っていたが、桐谷たちの暴力を前に、何もできなかった。彼女は、伊助がどんなに「変な奴」だと周りから言われても、彼の純粋な知性や、他人には見せない優しさを知っていた。そして、彼の心を深く傷つけているいじめを、止めることができない自分を、歯がゆく思っていた。


(伊助…また…)


遥は、意を決して教室に入ろうとした。その時だった。


伊助の足元に、突然、奇妙な紋様が描かれた魔法陣が、床にぼうっと浮かび上がった。それは、誰も見たことのない、複雑で不可解な光の線で構成されていた。伊助も、桐谷たちも、誰もがその異様な光景に目を見開いた。


魔法陣は、瞬く間に光を増し、教室全体を包み込むような、眩い白光を放ち始めた。その光はあまりにも強烈で、遥は思わず目を閉じた。全身が、ねじれるような、骨の髄まで響くような不快感に襲われる。身体中の細胞が、バラバラに分解され、再構築されていくような、形容しがたい感覚。


「な、なんだこれ…!?」 桐谷の声が、光の中でかき消されていく。


光が最も強く輝いた瞬間、伊助が空に手を伸ばした。その手は、まるで何かを掴もうとしているかのようだった。彼の顔には、驚きと、そして微かな高揚感が浮かんでいた。彼は、その瞬間、自分が何を掴もうとしているのか、本能的に理解していたのかもしれない。


そして、光が収束すると共に、教室から彼らの姿は完全に消えていた。伊助も、桐谷、佐々木、田中、山田も、まるで最初からそこにいなかったかのように、跡形もなく消え失せていた。残されたのは、倒れた椅子と、点灯したままのノートパソコン、そして伊助のビニール傘だけだった。


「伊助…!?」


遥は、呆然と立ち尽くしていた。彼女の記憶には、あの眩い光と、足元に現れた奇妙な魔法陣が鮮明に残っていた。他の誰もが忘れてしまったであろう、その瞬間を、彼女だけが覚えている。そして、その光に包まれた時、彼女の身体には、まるで何かが流れ込んできたかのような、微かな、しかし特別な感覚があった。それは、普段の彼女には感じられない、空気中の微細な「揺らぎ」のようなものだった。風が吹くと、その風の中に、目には見えない「線」が見えるような。木々が揺れると、その葉の一枚一枚から、ごく微かな「音」が聞こえるような。それは、彼女の身体に宿った、新しい「五感」のようだった。


遥の叫び声が、誰もいなくなった教室に虚しく響いた。


白い光の渦の中を、八雲伊助は落下していた。いや、落下しているという感覚すらなかった。ただ、空間そのものが、無数の情報粒子となって、彼を包み込んでいるようだった。彼の脳内ディスプレイには、この世界の物理法則を示す膨大なデータが、これでもかとばかりに流れ込んできた。それは、地球のあらゆる科学知識を凌駕する、圧倒的な情報量だった。


(…これは…重力定数の違い…?いや、違う。空間そのものが、多次元的に歪んでいる…?魔力粒子?これが、この世界の『物理法則』の根幹をなすもの…!?)


オタク的な興奮が、恐怖を凌駕する。彼のプログラミング能力と、数学的思考が、この異世界の「コード」を貪欲に解析し始めた。脳内のCPUがフル回転し、未知のデータを解析し、新しい「関数」を生成していく。


気がつけば、彼の体は、硬く冷たい石の床に立っていた。目の前には、荘厳な大広間。巨大なステンドグラスからは、見たことのない色の光が差し込んでいる。周囲には、豪華な衣装を身につけた人々が並んでいた。中央には、玉座に座る威厳ある男と、その隣に立つ優雅な女性。そして、武装した騎士たち。


「おお…!まさか、一度にこれほど多くの勇者が…!」


玉座の男が、感動に打ち震えた声で叫んだ。国王エドワード・アークス・リスタルニアだった。


伊助の隣には、見慣れた顔があった。桐谷隼人、佐々木健太、田中勇一、山田太郎。彼らもまた、呆然とした顔で周囲を見回している。


「ここは…どこだ…!?」


桐谷が、狼狽した声で呟いた。その顔には、いつもの傲慢な笑みはなかった。


「ようこそ、勇者たちよ!我らがリスタルニア王国へ!私はこの国の国王、エドワード・アークス・リスタルニアである!」


国王の声が、大広間に響き渡る。その言葉は、伊助の脳内ディスプレイに、瞬時にこの世界の言語として翻訳されて表示された。


その後、騎士団長アルドリック・ヴァルデオンと名乗る老騎士が、勇者たちの魔力適性を見るための儀式を開始した。勇者一人一人が、円形の魔法陣の上に立つと、その足元から光が放たれる。


「桐谷隼人!炎の魔力に適性あり!その輝き、まばゆいばかりだ!」 「佐々木健太!水の魔力に適性あり!」 「田中勇一!風の魔力に適性あり!」 「山田太郎!土の魔力に適性あり!」


騎士団長の宣言と共に、桐谷たちの足元からは、それぞれ炎、水、風、土の属性を示す鮮やかな光が放たれた。彼らは、自分たちが「勇者」として選ばれたことを理解し、その顔に傲慢な笑みが戻ってきた。周囲の騎士や文官たちも、その魔力に感嘆の声を上げる。


そして、伊助の番になった。彼は、緊張しながら魔法陣の上に立つ。しかし、足元からは、何の光も放たれなかった。


「…無…か。魔力適性、なし。これは…」


騎士団長アルドリックの声に、周囲のざわめきが起こる。国王の顔には、深い失望の色が浮かんでいた。伊助の脳内ディスプレイには、「ERROR: 魔力適性未検出」という文字が赤く点滅している。


(まさか…この世界の魔力とは、僕の理解とは別の概念なのか…?いや、そんなはずは…)


伊助は焦った。せっかく異世界に来たというのに、ここで「役立たず」の烙印を押されるのは、地球でのいじめの記憶を呼び起こすようだった。


「残念ながら、彼には勇者としての適性はないようだ。国王陛下、いかがなさいますか?」 騎士団長が、国王に伺いを立てる。


国王エドワードは、深いため息をついた。 「致し方あるまい。勇者召喚の儀式で召喚された者だ。無下に扱うわけにはいかぬ。彼には、王城の雑用係を命じる。衣食住は保証しよう」


「雑用係…!?」 桐谷が、嘲るような笑いを漏らした。佐々木や田中も、伊助を蔑む視線を向ける。山田だけが、どこか居心地が悪そうに目を逸らした。


伊助は、その言葉に絶望しかけた。地球でも「役立たず」だった自分は、異世界に来ても「役立たず」なのか。目の前で輝く「真の勇者」たちと、自分との間に、埋めようのない溝があるように感じた。


その時、広間の片隅から、一人の少女が伊助を見つめていた。リスタルニア王国の第三王女、リアーナ・アークス・リスタルニア。彼女もまた、王族としては魔力が少ないとされ、「落ちこぼれ」の烙印を押されていた。彼女の瞳は、他の誰とも違う、深い光を宿していた。


(この少年…何の輝きも放たなかったけれど、私には見えた。あの魔力適性診断の光が、彼の足元で、ほんの僅かに、そして誰にも気づかれないほど微細に…『振動』していた。それは、この世界の魔力とは異なる、もっと根源的な『ことわり』に触れる光だ。彼こそが…本当にこの世界を変える、真の勇者なのかもしれない…)


リアーナは、その直感に強く導かれていた。彼女は、伊助の「適性なし」という評価に、静かに、しかし明確な異議を唱えるかのような、決意の光を瞳に宿していた。彼女の心には、伊助という存在への、深い好奇心と、そして彼と同じ「異端」であるゆえの、共感が芽生え始めていた。


伊助の、異世界での孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ