36 引導
「…………陛下」
「……ああ……ああ、すまない。……すまない」
「いいのです」
「……レベッカよ。この老いぼれにどうか、どうかもう引導を渡してはくれないか」
暗い声でそう言われて、レベッカは瞳を瞬く、彼は感情を吐露することができ、一時の正気を取り戻しているように見える。
レベッカの肩をか細い手で撫でて謝罪をしつつも、希望に縋るように言う。
……それは……でも本心ではそれを望んでいないのではないの? あなたはもう失いたくないのではないの?
引導を渡してくれとは、きっと王座から退かせてほしいという意味だ。
具体的にはどうするべきかは示されていない、けれどもそれがヴィルヘルムの本当の望みだとは思えないのだ。
「どうして?」
静かにレベッカは問いかけた。まだ何も知らない、今だってやっと愛おしい娘の代わりに情をもらっていたことを知ったばかりだ。
なにもわからないままではすれ違ってしまう、独りよがりで傲慢になってはきっと親しいままではいられない。
それは寂しいのだ。レベッカは人が好きだ、特に善良で前を向いて、その価値観を共有してくれる人が好きだ。
だから打算もなにもなく、彼を思ってただ知りたい。
「……」
「……」
その意図が伝わるかどうかはわからないけれど「教えて欲しいのですよ、陛下」と心のこもった声で言った。
すると彼は静かに、椅子に座り直して深くソファーに沈み込む。
深く息を吐きだすとそのまましぼんでしまいそうだとレベッカは思う。
「……最近は、もうまとまらないのだ。自分の思考が、不安と恐怖にさいなまれて眠ることすらままならない、いくら酒を飲んでも収まらない、もうああ、もうダメなのだ……レベッカよ。なにも信じることが出来ないのじゃ」
深く沈み込んで口を開けたまま、涙が次から次に頬を伝って落ちていく。
静かに泣く、老人の姿がこうも苦しいものだとレベッカは初めて知った。
「ただ、これ以上奪わないで欲しいと願っているのだ。わしはずっとただ……ただ、このままならない世界で、身近なものもそうでないものも、幸の多い人生であればと神の教えを王笏とともに守ってきたのだ」
「……はい、存じているわ」
「手ごたえもあった、しかし零れ落ちる。指の隙間から、どんなに注意していても手で水を掬い上げた時のようにいつの間にか滑り落ちて、っ、もう二度と手を取れない」
「……」
「なにから始まったのかわからないのじゃ、レベッカよ」
うつろな瞳のまま、レベッカのことを呼ぶ。
「わしの魔力が定まらなくなったのか、わしが信心を失ったからか、娘すら信じられなくなったからか、もうなにが始まりでこの一族の誇りが応答しなくなったのか……わからぬのじゃ」
そう言って椅子のそばに置いてあった王笏を手に取る。
……つまり儀式は行えなくなった……のね。
豊穣の王笏を扱い、儀式をするには潤沢な土属性の魔力が必要になる。
魔力がまとまらなくなった時点で、利用もできないし、王笏は神からの許しのようなものだ、このソルンハイムを統治する許し。
それが得られなくなったとなればヴィルヘルムの正当性が揺らぐ。
そうした懸念から、エレノアからの介入があった。
なにを心配しているかは正直なところわからない。
レベッカはそこを詳しく知らないが、正しく儀式がおこなわれるのかという点か、ヴィルヘルム自身に対する心配かは、判断が難しい。
むしろ大衆に公表されている情報ではエレノアが王の力を疑ってという、戦争をするために悪く見える様なことしか出ていない。
しかし娘すら信じられないと言ったヴィルヘルムの言葉から、きっとヴィルヘルムにとって悪い提案は書かれていなかったのではないだろうか。
「誰もかれもがわしを追い立てようとしておる気がする、わしはただ怖いのじゃ、ここまでやってきたことは何だったのかと、信じられず、神はわしに手を差し伸べることをしない」
「わからなくなってしまったのね」
「ああ……あぁ、ただ……レベッカよ」
とても心細そうな声でヴィルヘルムは、呟くように言う。
「それでも、信じたい。……信じることが出来れば、疑うことなどなければ、コルネリアからの打診も、この王笏を起動することも、できるのに」
その肩をレベッカはねぎらうように撫でて、掛ける言葉を探した。
「……」
「たった一つでいい、信じされてくれ」
その言葉はレベッカへのお願いではなく、それは彼の願望だった。
「無理な願いだ」
「だから、引導を……欲しているのね」
「ああ……ああ、すまない」
小さく肩を落とす彼に、レベッカも無理な願いであることに同意したくなった。
神の存在を証明できるならばそれは歴史に名を遺す偉業であるし、望んでできるものでもない、同時に遠くにいるコルネリアからの打診がどういう意図で介入を望んでいるのかをレベッカが知って信じさせることはできない。
……私になにかできるの? この人を変えるにはどうすればいい?
必死に考えるけれども答えは出てこない、ただ無言の時間が続くだけだ。
ヴィルヘルムには恩を返したい、そうしたいと思うのに、気負えば気負うほど自分にできることはわからない。
それでも無理を通してでも向き合おうと考えた。
しかし、そうしたところでレベッカではいきずまってしまう気しかしない。
そういう時にはどうするか、どうしたのか思い出してまずはフォルクハルトの顔が浮かんだ。
……そうね。私一人では、なにもできないもの。ヴィルヘルム国王陛下でもダメなことを一人でできるわけがないもの。
そう思うと楽になってレベッカは「時間をください、陛下」と言ってまた後日、次の国防会議の前に必ず来ることを約束してその日は別れたのだった。
帰り道、レベッカはどのようにすればこの問題を解決することが出来るのかと考えながら馬車に乗った。
なんとなしに窓の外を眺めていると、とある馬車とすれ違った。
その馬車にはレーゼル公爵家の家紋が刻まれていて、妙な胸騒ぎがしたけれどもそれでも後ろに連なる馬車を見てお見舞いを献上するために足しげく通っているのだろうと思う。
それは決しておかしなことではないけれども、彼らの目的はわからない。
……次に会いに来る時までどうかなにも起こりませんように。
そう願ったのだった。




