六十二、もしかして、ぴんち。
「うーん・・・まじゅい」
未だ夜の闇のなか、ベッドに潜ったまま、ぼくはそう呟いた。
何も、ベッドのなかで隠れて何かを食べているわけではない。
ただ、目が覚めたら、ご不浄に行きたかっただけだ。
いや、ご不浄に行きたい生理現象が、目を覚まさせたのかも知れないけど、今はそんな、卵が先か鶏が先かなど考えている場合ではない。
ちっさいぼくの我慢の限界は早いので、急ぎご不浄へ向かう必要がある。
・・・・・ある、のだが。
「かちむ」
となりのベッドで眠っているカシムを控えめに呼んでみるも、呟く程度の声では起きてくれそうもない。
カシム、よく寝ているよな。
そりゃ、ずっと旅をしていて疲れてもいるだろうし。
ぼくが寝るときにも、未だ何か用事が残っているみたいだったから、未だ寝て間もないのかもしれない。
だとすると、寝ばなってやつか。
疲れれば抱えてもらい、眠ければ寝てしまうぼくと違って、カシムはここに来るまで仕事もしているし、気も張っていると思えば、折角よく寝ているのに、こんな夜中に起こすのは忍びない。
「よち。いきゅか」
幸い、今日泊まっている宿のベッドは、これまで泊まらせてもらった別宮やお邸のものと比べると格段に庶民的で、高さもそこまでないから、ぼくひとりでも何とか下りられそうだと、意を決して腹ばいになり、シーツに捕まって、そろそろと足から下りた。
「ちぇいこう」
成功といったって、ただベッドから下りただけなのだが、ぼくにとっては大冒険だと満足にひたりつつ室内履きを履く。
そうっと、そうっと。
寝ばななら、物音で起きちゃうかも知れないからな。
静かに、静かに。
「しゃて、と」
そろりそろりと、続いて扉まで歩き、ここで第二の難関。
ぼくの背では、扉の取っ手に届かないので、扉横にある棚に足をかけて鍵を開け、取っ手を掴んで扉を開いた。
この棚。
たぶん、花とか活けた花瓶なんかを飾るための物だと思うんだけど、何にも乗せてないんだよね。
旅人は、ほとんど泊まらない町だというから、宿屋の経営状況が思わしくないのか、あのおじさんが業突く張りだからかだと思うけど。
まあ、お蔭で廊下に出られたからいいかと、ぼくはご不浄を目指す。
「く、くりゃい」
そこまで思い至らなかったぼくが馬鹿というか、いつもなら、何を考えるまでもなく、暗ければ灯りを点けてくれる誰かと一緒なので、うっかり失念していたというべきか。
ひとりで歩く真夜中の廊下は、当然の如く暗く、今夜は、この宿を貸し切りにした関係で、護衛の騎士さん達も交代で休みながら、建物内ではなく、入口の警護にあたってくれている。
つまり、ぼくとカシムが寝ている部屋の前には誰も居ない。
「うう・・・ぎゃんば」
それでも切羽詰まっているぼくは、頑張れと自分を励ましながら、壁伝いにご不浄へと向かった。
こうすれば、万が一にも迷わないし、扉を通り過ぎることも無いだろう。
「ふぇ。きょ、きょきょも、くりゃい」
おいおい。
ここもこんなに暗いとか、有りか?
灯りはどうした!?
しかし、何という事か。
ご不浄全体に灯りは点かず、本当に必要な部分にだけ、ほんのり灯る仕様で、ぼくはひとり慄きながら、それでもなんとか用を足すことが出来た。
よかった。
間に合った。
「あちょは、きゃえるだけ、あちょは、きゃえるだけ」
しっかりと手も洗い、後は部屋へ帰るだけだと、ぼくは、暗いが故に感じる怖さを吹き飛ばすように、楽しく、けれど小声で歌いながら階段を下りる。
真夜中だからな。
大きな声で歌うわけにもいくまい。
だがしかし怖くはあるので、小さな声で歌うのは、許してほしい。
「あちょは、きゃえるだけ、あちょは、きゃるだけ、きゃいだんおりて、きゃえるだけ・・・ん?」
階段下りて帰るだけ、って。
ぼく、部屋からここまで階段なんて、使っていない、よな?
それになんか、下がうっすら明るいような。
「おい、さっさとしろよ」
「偉そうに言うんじゃねえよ。てめえこそ、さっさと運べや」
はて?と首を傾げた時、階段の下からお世辞にも品がいいとは言えない会話が聞こえて来て、ぼくはぴたりと立ち止まった。
この状況って。
ぼく、かなりぴんちなのでは。
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