五十九、食欲魔人
「・・・もうもうしゃ、おっきぃ」
「大きいね。危ないから、ひとりで近づいてはいけないよ?ジェイミー」
「う。わあった」
カシムにだっこされて、牛を近くで見たぼくは、その大きさに度肝を抜かれた。
いや。
牛が大きいのは知っていたけどさ。
今ぼくは、人間としてもちっさいので、もし牛と生身で勝負したら、即座に蹴り散らかされて終わるっていうのを、物凄く実感しているわけである。
「へえ。牛って、可愛い目をしているんだな。俺も、こんなに近くで見たの初めてだから、何か新鮮だわ」
ぼくとカシムの隣では、クレマンも興味深そうに牛を見ている。
そして、牛を見学しているぼくたちの傍には、挙動不審になっている牧場主さんも居る。
いやあ、ごめんね?
そりゃ急に、領主と隣国の王族が来たら驚くよね?
まあ、カシムの身分は明かしていないけどさ。
領主様がこんなに傅く相手なんて、そういないもんね。
「では、ジェイミー様。牛乳を召し上がりますか?」
「あい!おにゃぎゃい、ちまちゅ!」
ちょっと遠い目になって、心のなか、牧場主さんに『ぼくの勝手ですみません』と謝罪していたぼくは、アベイタ伯爵のその言葉に、一気に罪悪感も消し飛んで叫んだ。
「にゅうにゅう!おいちい、にゅうにゅう!」
「ジェイミーって、結構、食い意地張っているよな」
「んん!ひゃっちゃ、にゃ!ふちゅう!」
両手をあげて喜ぶぼくに、クレマンが、にやにやと笑いながら言うから、ぼくは即座にそんなことはないと否定する。
なんてことを言うんだ、クレマン。
ぼくを、食欲魔人のように言うなんて。
そんなこと、あるわけないだろう。
ぼくは、普通だ、普通。
「で、では。こ、こここちらへ、ど、どうぞ、で、ごご・・ございます・・です」
ここへ到着してすぐ、アベイタ伯爵がお願いしておいてくれたお蔭で、ぼく達はこの場で牛乳を飲めることになったけど、牧場主さんの挙動は、相変わらず不審。
そりゃそうなるよな。
何かあったら、即、不敬とか言って殺されても仕方ない世界なんだから。
「あーじしゃ、あいがと!」
『失礼が無いように、失礼が無いように』と、心のなかで繰り返していそうな牧場主さんに、ぼくは心を込めてそう言った。
だって、すべてはぼくの我儘なんだから、ほんとに申し訳ない。
だから、心からの『主さん、ありがとう』だ。
「と、とんでもない、こ、ことでご・・ございます・・です」
ぼくがお礼を言ったことで、牧場主さんは、益々混乱してしまったみたいだけど、ぼくを見て優しく笑ってくれた。
うん。
素敵な笑顔だ。
「・・うーん・・・おいちい」
そして、牧場を眺めながら、ログハウスのテラスみたいなところで牛乳を貰った。
もちろん牛乳は新鮮でおいしいし、みんなで牧場を見ながら、ログハウスみたいなところで飲むというのも楽しくて、ぼくは、カシムの膝に座ったまま、足をぷらぷらさせてしまう。
「ああ。確かにおいしい。ジェイミーのお蔭で、私も美味しい牛乳を飲めたよ。ありがとう、ジェイミー」
「ジェイミー。ほら、口の周り拭いてやるから。こっち向け」
ぼくを膝に乗せながら、カシムも牛乳を飲み、クレマンは、こくこくと牛乳を飲んだぼくの口元を、そっと拭いてくれた。
おお、しまった。
これは、口の周りに牛乳のひげを生やしてしまったってことだな。
失敬、失敬。
「あいがと、きゅれみゃん」
「どういたしまして」
「牛乳を、口の周りにつけてしまったジェイミーも可愛いよね。何か、映像を残せたらいいのに」
ぼくは、牛乳で口ひげをこさえるなんて恥ずかしいと思っているのに、カシムってば、親馬鹿のようなことを言い出すから焦る。
「んん!ひゃじゅかちいきゃら、や!」
なので、もちろん即座に却下。
「恥ずかしい、って。いいじゃん、未だちっさいんだから」
なのに、クレマンまでそんな同意のような事を言い出すから、ぼくは懸命に首を横に振った。
「れも、やにゃ!」
「『やにゃ!』って。ジェイミー。ほんと、猫みたいだな。ん?」
「ううう・・うぅ」
未だうまく発音できないぼくを揶揄って、クレマンがぼくの頬をつんつんつつく。
『やめろ』と精いっぱい睨むも、ちっとも効いていないようで、それはもうすっごく楽しそう。
くっそう。
いつか絶対、見返してやるからな!
「ジェイミー様は、本当にお可愛らしいですね。クレマンも小さい頃は『おじゅしゃあ!』なんて言って可愛かったのですが、いつのまにか『伯父貴』になってしまいました」
「っ!」
アベイタ伯爵が、少し遠い目をして懐かしそうに言うのを聞いて、クレマンは焦り、ぼくは勝機を得たと瞳を輝かせる。
「きゅれみゃん!じぇいみぃ、いっちょ!」
「・・・・・はあ。やられた」
へへへと笑うぼくを苦笑して見て、クレマンは両肘をテーブルに突けた。
そしてそのまま、頭を抱え込んでしまうのが、何か可愛い。
「お、お待たせ、い、いたしました。チーズも、お、お持ちしました」
『クレマン可愛い』と、そのつむじをつついていたぼくは、チーズを持って再び現れた牧場主さんが持っているそれを見て、思わずカシムの膝の上で立ち上がった。
「ちーじゅ!ぱんに、にょしぇちぇ、ひゃみゅとぉ、おやちゃい、いっちょ、やきゅ、おいちい!」
チーズをパンに乗せて、ハムと野菜と一緒に焼くとおいしいと、欲望全開で叫んだぼくの声を聞き、クレマンがむくりと起き上がる。
「パンにチーズとハム、野菜を乗せて焼いたら美味しい、か。なんだ。やっぱり、ジェイミーは食欲魔人じゃないか」
「あ」
『まあ、確かに旨そうだけど』なんて言っているクレマンの声も聞き取れないほど、ぼくは敗北感に打ちのめされた。
項垂れるクレマンのつむじを、揚々とつついたのはついさっきなのに。
もうクレマンはすっかり復活して、再びぼくを揶揄って楽しんでいる。
ああ。
やってしまった。
食欲に、負けた。
余りに短かった栄光に肩を落とし、ぼくは、がっくりとカシムの膝に座り込んだ。
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