一、ここは、母が男の世界
この世界には男しかいない。
ぼくがそう気づいたのは、大好きな母を初めて呼べた時。
「あーうえ」
「まあ!可愛いわたくしのジェイミー!ええ、ええ、わたくしがジェイミーの母様ですよ!」
よしよし、というには強い力で嬉しそうに抱き締められた腕のなか、大好きな母を初めて呼べたことに大きな満足を感じる一方、ぼくは困惑もしていた。
あれ?
母上、母、って女性だよな?
でもこのひとは男性。
華奢だしきれいだけど、間違いなく男性。
どういうことだ?
「ダーリン!あなたー!アレックス!ジェイが、ジェイミーがわたくしを呼んでくれましたの!」
「なんだと!?ブラッド、本当か!?」
「ええ!可愛い声で『あーうえ』ですって!もう、悶絶ものですわ!」
「父上、母上!ジェイミー・・ジェイが、どうかしたの!?」
けれどもぼくを抱いたまま嬉しそうに駆け出した母が父の執務室へ突撃し、騒ぎを聞きつけた兄三人も駆けつけると、仕事をしていた父は迷いなく執務を放り出してぼくへと顔を近づけた。
「ほうら、ジェイミー。もう一度、母様を呼んでみて?」
「あーうえ」
それでもぼくは、期待に応える男。
お望みならと、可愛い笑顔付きで母を呼べば、ぼくを見つめるその顔が、蕩けそうに緩む。
「おお。ジェイミー。なら、私はどうだ?ん?」
え。
父上まで。
いや、でもそうか。
母を呼んだなら父もとなるのは、当然か。
それにしても、凄い圧だぜ・・・。
「ち・・ちーうえ」
未だうまく動かない口や舌を何とか動かして、頑張った結果、出た言葉がこれだった。
まあ。
母上が『あーうえ』だもんな。
『いーうえ』じゃなかっただけ、よしとすべきか。
それに、母上を呼べた時は、やっと呼べたと嬉しく舞い上がっていたが、今なら分かる。
恥ずかしくも、思いっきりの舌足らずだ。
「おお!凄いぞ、ジェイ!未だ一歳にもなっていないのに偉いな!」
けれど、父は思い切り親馬鹿を発揮してぼくを抱き締め、頬擦りして来た。
「ジェイ。それなら僕は?カール兄様、と呼んでごらん」
「俺はクリフ兄様、だ」
そして、更に両側から覗き込んで来る兄ふたり。
それにしても、カラフル。
父母と兄ふたりの髪色と瞳を見て思う。
父アレックスは、見事な金髪に緑色の瞳。
母ブラッドは、長く美しい緑色の髪に碧色の瞳。
今年八歳になる長兄のカール兄様は父にそっくりな金髪に緑色の瞳で、六歳になる次兄のクリフ兄様は緑色の髪に緑色の瞳。
そして、かくいうぼくは金髪碧眼。
つまりカール兄様は思い切り父様に似て、クリフ兄様とぼくは、両親からそれぞれ譲られたような色をしている。
そこでぼくは、ひとりじっとぼく達を見ている三番目の兄を見た。
カール兄様やクリフ兄様に混ざることなく、ひとりだけ家族ではないとでもいうように少し離れた場所から見つめているその瞳の色は淡い翠で、髪は燃えるような赤。
イアン兄様。
頭のなかでその名を呼び、ぼくは彼の苦悩を思う。
両親もカール兄様もクリフ兄様も、イアン兄様を大切に思っている。
けれど父様の弟であるハロルド叔父様に余りに似ている容姿から、イアン兄様は叔父様の子ではという風評があり、それは未だ四歳のイアン兄様の耳にも届いて彼を傷つけている。
「いぃにいに」
この楽しい空間にイアン兄様にも混ざって欲しくて、父の腕のなかから懸命に手を伸ばしてイアン兄様を呼べば、その瞳がはっとしたように見開かれた。
「おいジェイミー!なんでイアンが先なんだよ!」
「年が近いからか?」
クリフ兄様とカール兄様が不満そうに言うのを聞きながら、戸惑うように傍に来てくれたイアン兄様が、父様に抱かれたぼくを見あげる。
「ほら、イアン。ジェイが手を繋いで、って言っているわ」
「おれに?」
「ええ、もちろん」
そう言うと、母様は大事そうにイアン兄様を抱き上げ、ぼくと視線が合うようにしてくれた。
「・・・じぇいみぃ・・じぇい」
「いぃにいに」
イアン兄様がぼくを呼んでくれたのは初めてじゃないかというくらいの珍事に、ぼくは嬉しくなって手足をばたつかせ、父様や母様、兄様ふたりも喜びに瞳を輝かせる。
そして、イアン兄様は大事なものを扱うようにぼくの手を見つめ、恐々と、でもとても優しく握ってくれた。
「にいにか、可愛いな、くそ。よし、次は俺だな。ジェイ。クリフにいに、って言ってみろ」
羨ましくて仕方がない、次は俺だとクリフ兄様がぼくの目を覗き込む。
「何を言うクリフ。次は僕の番だ。ジェイ、カールにいにだぞ?ほら、言ってごらん?『カールにいに』」
え。
こういう場合、どうしたら。
一番上ってことで、カール兄様を優先すべきなのか?
それとも、カール兄様より年少ってことで、クリフ兄様を呼ぶべきなのか?
むむむむむ。
どっちだ?
「ふふ。ジェイミーが混乱しているわ。ジェイ、どうする?どっちの兄様を先に呼ぶ?ジェイの好きにしていいのよ?」
そんな、母上。
煽るようなことを言わないでください。
「俺だよな、ジェイ!俺の方を好きだろう!?クリフにいにだ!」
「いや、僕だろう?ジェイ。カールにいにが先だよな?」
「ふ・・ふぇ・・っ」
抱き着く勢いで僕を見つめるふたりの熱心な瞳と圧に、ぼくの小さな脳は大混乱で、これ以上は無理、整理不可能とばかりに涙が出て来た。
これも、幼さゆえか。
泣くまいと思っても、うまく感情をコントロールできない。
「えっ!?わああっ。泣かなくていいんだぞ、ジェイ。ほら、いいこいいこ、よしよし」
「ああ、もう分かった。じゃあ、クリフから呼んであげて。ごめんな、ジェイ。泣かないで」
流石長男と言おうか、カール兄様がそう言ってぼくの頭を撫でてくれる。
「かぁにいに・・くぅにいに」
「「かわいい!!すっごくかわいい!」」
カール兄様の優しい手と、クリフ兄様のいいこいいこが嬉しくて、ふわりと笑って呼べば、ふたりが声を揃えて言い、床に転がって悶絶した。
いや。
大げさだから。
ぼく、名前呼んだだけだし。
しかも、ちゃんと呼べてないし。
「ああ・・・弟に、にいにって呼んでもらえるの最高・・・・というわけで、イアンも呼んでみようか」
「え?」
「僕のこと、カール兄様って呼んでごらん?」
カール兄様が、イアン兄様としっかり目を合わせて言えば、自分に振られるなど思ってもいなかったらしいイアン兄様が、戸惑うように母様を見る。
「ふふ。イアンは、ちゃんと呼べるかしら」
「・・・かーるにいさま」
「おお。カール兄様だぞ、イアン。ああ、可愛いな僕の弟たち!ほらほら、クリフも」
「なんで俺まで。いつも呼んでるんだからいいじゃん・・・って。分かったよ。兄貴」
続けてクリフ兄様を見たカール兄様に、呆れたような目をしたクリフ兄様が、捨てられた犬みたいな目でカール兄様に見られて根負けするも、最後の抵抗とばかり兄貴呼びをした。
「クリフ。どうして」
「うっせえな!俺の兄っつったらカール兄様だけなんだから、兄貴で充分なんだよ!」
怒ったように言いながら、それでもちゃんとカール兄様と言うクリフ兄様の首筋が少し赤くて、照れているだけなんだなと、ぼくはなんだかほっこりする。
「じゃあ、次はイアンが俺を呼ぶ番な。イアン、クリフ兄様って言ってみろ」
「・・・くりふにいさま」
「よっし、良く言えたな!流石俺の弟だ」
恥ずかしそうにクリフ兄様を呼んだイアン兄様の頭を、クリフ兄様が少々乱暴に撫で、カール兄様も同じようにかいぐりと撫でまわした。
そうか。
こんなあたたかな家で育って行けるのか。
「「「おおおおお!ジェイは、本当に可愛いな!」」」
両親にも兄弟にも恵まれているとは、なんて幸せなことだろうと思ったぼくは自然と笑っていて、またもみんなは大騒ぎになった。
ありがとうございます。