ラットレースの人生、しかし血は巡りて
人生はラットレース。
いつからかそんな風に思えて仕方なかった。
初めて自覚したのは、多分小学生の時。
日曜日の夕方、庭のコンクリートの上で遊んでいて酷く憂鬱な気持ちになった。
さっきまでスカートが汚れるのを躊躇って庭の草木にも極力当たらないように遊んでたのに、夕方の時報を聞いた瞬間に憂鬱で憂鬱でコンクリートにぺたんとお尻をついて座った。
そしてざらざらのアスファルトに指を無意味に指をなぞって暇を持て余してた。
思えば、あれは暇過ぎていたのかもしれない。
幸い実家は裕福な方だったから、習い事や欲しい物につあてお金を理由に制限をかけられた事はなかった。
だからか、欲しい物を手に入れる事の簡単さに、その物もいつかはゴミになって何年かおきの断捨離で楽しく捨てるためだけの対象に移り変わっていく事の儚さに気付いてしまったようだった。
そうして物欲は次第になくなった。
今でもブランド物には意地を張るように興味がない。本当に無い。
消費の儚さに気付いた私は、早く大人になって生産する側の人間になりたいと思った。
生産できる人間になった上で、消費の喜びを堪能したかった。
そして今、私はモノに限らず人生そのものが儚くて無意味で無駄なものと思ってしまうようになった。
いつもじゃない。
友人とたわいもない話で心通わせた時、
仕事で患者さんに喜んでもらえた時、
5年目になる人生初の彼氏の腕に包まれている時、
スーパーで好きな果物が安くなっている時、
とびきり美味しいラーメンに出会えた時、
美しい映像や絵画の作品を見た時
これが人生の喜びだと感動する瞬間を感じている。
でもどうして、
朝目覚めるとこんなにも憂鬱で
ベッドから出た瞬間に今晩ベッドに潜るその瞬間を夢見てしまうのは、
あんなに心待ちにしていた休日が暇で暇でしかし疲れていて空白の時間が苦痛に思えてしまうのは、
仕事終わりのこの徒労感は、
なんなんだろう。
平日は休日を楽しみにしてやまないのに、
いざ迎えた休日は私を満喫させてくれない。
出かける体力や気力もない。
もはや平日の方が楽しいんじゃないかとすら思わされる。
こんな時たびに思う、人生はラットレースだと。
課題と目的、
挑戦と達成、
暇と多忙、
苦痛と解放
私達はネズミのようにこれらを回転して回転してぐるぐる巡っている。
どちらかにずっと傾いてはいけない。
暇過ぎると死にたくなるので忙しくならないと、
でも忙し過ぎると精魂尽きるので暇を与えないと、
そんな苦痛からの解放を味わって、また解放を味わうために苦痛に呑み込まれて。
私はいつ、ラットレースから解放されるのだろう。
この血の回転が止まる時だろうか。