01話 海月
拝啓お父さん、お母さんへ。
僕はこれまでに至極健康で思慮深く聡明に、一寸の罪も犯したことがないほど健全に生きてきました。
ただ一時の気の迷いか、はたまた反抗心が生まれたからか、僕は自分自身でさえ存じ上げないことなのですが。
深夜に家を出た後、化物の娘と『くちづけ』を致しました。
何を言っているのかさっぱりだと思います。
僕でさえさっぱりの出来事だった故に流されてこのようなことになってしまったのです。
行方不明となった兄に示しがつけられない限りです。
この親不孝者をどうか、何卒、どうか、叱りつけてはくれないでしょうか。
頭に浮かぶありったけの罵詈雑言を僕に。
どうか、どうか。
謝罪ばかりでは致し方ありません。
本文に入っていきます。
真夜中、僕はなかなか寝付けずにいました。
暗闇の中に孤独を覚えました。
まるで世界で唯一人取り残されたかのような気分でした。
枕元に置いた読みかけの小説もまったくと言っていいほど退屈しのぎにもならないのです。
そこでふと僕の心の奥底の悪心が僕に向けて囁いたのです。
『外に出てみよう。』
もちろんこんな夜更けに外へ出てしまえば、僕は悪行を一つ犯してしまうわけです。
子供はもう寝る時間、そう言い聞かされて育ったものですから当然ためらいます。
これまで真摯に生きてきた自分を否定してしまうのですから。
ですが人というのは恐ろしいもので頭で駄目、と分かっていても堕落の方へと進んでいってしまうようなのです。
ですから僕は両親に気づかれないよう、慎重に、つま先から歩みを進め、玄関ドアに手をかけました。
そうなのです。
僕は存じ上げないです。
話に戻りましょう。
辺りには黒曜のような夜、灯りといえば近くに設置されていた自動販売機ぐらいなもの。
毎日見るような景色なのに僕のこの衝撃は新しい星を発見する以上の出来事だったのです。
気分が高揚した僕は夜の町を駆けました。
畑に立つカカシは冥闇を門番するかのように佇み。
闇夜を照らす電灯は光源向けて蛾が群がっていました。
暗澹たるこの世界にて悪餓鬼は唯一唯一人誰からの縛りを受けることもなく、尚且つの自由を満喫していたのでした。
僕は歩みました。
そこで肥満体型な酔っ払いが自動販売機に寄りかかってグーグーといびきを上げて眠りこけているのです。
心底滑稽な姿だったため笑いだしてしまいそうになりましたが、なんとか抑えて次なる未知へ歩みを進めようとしました。
ですが。
自動販売機の取り出し口をふと見てしまったのです。
缶ビールを。
なんでかは分かりません、ただ未知を知りたかったとしか言えずに僕はその手を真っ黒に染めるだけなのです。
この悪餓鬼の中には踏み止まる、という選択はもはや一寸もありませんでした。
自動販売機の鈍い明かりに照らされ僕は缶を勢いよく開けました。
そのせいかはたまた別の理由か。
泡が勢いよく吹き出しました。
罰が当たったのでしょう。
僕の服に麦の香りが漂い惑わすように鼻を突き刺すのです。
気分の低下が見られる。
仕方がないので僕は余った残りカスを口に飲み込んだ。
初めての味。
初めての苦み。
僕には心底合わない味だったのでした。
口の中がくたびれた猿の口内と感じ、思わず吐瀉物と共に吐き出してしまいました。
喉が焼けるように痛く舌にまだ吐瀉物の風味と雑が残っていると感じるのです。
好き好んで飲めるような代物ではないこの飲み物を飲む大人達に僕は甚だ疑問に思いました。
「気持ち悪い…。うっ…。」
僕の夜の町での発する初めての言葉に呼応する人だなんていないと思っていました。
だけど覆すように、明らかに僕へと向けられた言葉だったのでした。
「ビール…嫌い?」
僕はハッとしました。
肥満体型の酔っ払いと僕以外にも、もう一人いたのです。
無造作にボサボサとした髪を風に流して僕と同じくらいの背をした、僕の学校の制服を着た女子生徒に。
「見られた。」
彼女の目は僕の悪行の一部始終を目撃したということが書いてあったのです。
淀んだ目をした生気がなく死体のような目の下にドス黒い隈ができてました。
とても痛々しい目でした。
「ピース。」
「…え?」
「だからぁ、はーいピース。」
「ぴっ…ピース…。」
突然意味のわからないことを言われ、言われるがまま指でピースを作りました。
その瞬間、死体の目をした女は僕の人差し指の第一関節から第二関節の中間部分に向かって喰らいついたのです。
「ぐあっぁぁ!?」
何が起きている。
思考を巡らせるわけなのですよね、でもいくら考えたところで現実は覆らない訳ですので僕は特に意味のないことをしているのでした。
だがすぐ噛んだ人差し指を離して。
「ありがと。」
と言いました。
「ふっっ。」
僕は彼女に向かって拳を振り上げほっぺたへと衝突し殴り抜けました。
彼女は吹き飛び自動販売機に頭をぶつけました。
ですが何事もなかったかのように立ち上がるのです。
僕は人を殴ったことなんてあまりないので拳がジンジン痛むのに。
「ははっ。」
彼女の乾いた笑いが僕にとっては恐怖の対象でしかありませんでした。
「私は山城海月です。」
「ちょっと待ってくれ!意味が分からない!何なんだお前はぁぁ!?」
「海月です。海月と呼んで欲しいです。」
「だから…!」
「呼べよ。」
身の毛がよだつほどの低音の発声に冷や汗が溢れ出そうになった。
「白白…鏡花…。」
彼女は舌を舐め回し缶ビールに手を伸ばした。
それを口に含むと僕の口に無理やり流し込んできた。
つまるところ、『口づけ』です。
化け物との物語ここに刻まれり。