こんばんは、暗殺者さま。私を殺す前に少しお話しませんか?
「こんばんは、暗殺者さま」
月明かりが照らすベランダで、椅子に座る聖女エクレアが虚空に語り掛けた。
その視線の先には、なにもない。広大な庭の向こうに王都の街並みが広がるだけだ。
「出てきていただいて大丈夫ですよ。私には逃げる気も、抵抗する気もありませんから」
エクレアが淡々と続ける。
鈴がなるように美しい声だ。
「……驚いたな。隠密を見破られたのは初めてだ」
ぐらり、と空間が歪んだ。
次の瞬間、ベランダの手すりの上に黒装束の男が座っていた。
顔は布で隠していて、見えない。
片足を手すりに乗せ、膝を立てている。
腰にはナイフを携え、いかにも暗殺者、といった風貌であった。
「これでも聖女ですから」
「そうか。なら、俺がなんのために来たのかもわかっているよな」
「はい。もう覚悟はできています。……ですが、その前に少し、お話していきませんか?」
「話?」
怯えた様子の一切ないエクレアは、にっこりと笑みを浮かべた。
彼女の仕草に毒気を抜かれたのか、男は動かない。
「はい。だって、私はこれから死ぬのでしょう? 最期に、ちょっとくらい思い出話でもさせてください」
「それは……」
「いえ、いいんです。死ぬことに恐怖はありませんし、むしろ、私が生きていたら多くの方に迷惑をかけてしまう。それなら、あなたのような手練れの暗殺者さまにひっそりと殺されたほうが幸せですから。ただ、少しの間だけお話がしたいんです」
彼女の言葉に、男は押し黙る。
もしかしたら、誰かが異変に気が付くまでの時間稼ぎかもしれない。普通ならそう勘ぐるところだ。しかし、エクレアの纏う雰囲気からは嘘の気配が一切感じられなかった。
「思い出話というより、愚痴、でしょうか。ずっと品行方正な聖女を演じてきましたから、人の目を気にせず愚痴を言える機会なんてないんですよ。あるいは、懺悔かもしれません」
「……わかった。聞こう」
「ありがとうございます」
そして、滔々とエクレアは語り始めた。
「私が聖女の力に目覚めたのは十歳の時でした。聖女と呼ばれるほど神聖力に満ちた方は他にも多くいらっしゃいましたが、私は彼らが束になっても到底及ばないくらいの才能だったそうです。歴代でも最高峰だとか」
えっへん、と胸を張る。自慢しているはずなのに、なぜか悲しげだ。
「最初は喜びました。王国は私を召し上げる代わりに家族への莫大な支援を約束してくれましたし、王子様と結婚するなんて、まるでおとぎ話のようで……。とても浮かれたことを覚えています」
両手を胸に当てて、目を伏せる。
周囲は静かで、風で枝葉が揺れるかさかさという音が聞こえるのみだ。彼女の小さい声は、しっとりと夜闇に溶けていく。
「でも、すぐに後悔しました。私の力は人々を助けるために使われる。そう思っていたのに……私は十歳にして、戦場に駆り出されました。当時の王国は帝国との戦争の真っ最中で、私を戦力として見ていたのです。私は最前線で、傷を負った兵士たちを癒し続けました」
男はなにも応えない。
顔を隠しているから、どんな感情でそれを聞いているのかすら、窺い知れなかった。
「でも、治さないほうがよかったのです。だって、私の元まで帰って来られる兵士さまは、どこか欠損していたとしても、生きておられるのですから。治してしまえば、彼らはまた戦場に戻ります。そして、誰かを殺し、あるいは自分が死ぬのです。私は、その手助けをしていた」
「ちが……」
「いいえ、そうなのです。……私の後悔はそれだけではありません」
咄嗟に否定しようとした男の言葉は、エクレアによって遮られた。
「戦争が終わったあと、今度こそ私は普通の生活を送れると思いました。ああ、やっと解放されるんだって。でも、国で待っていたのは、私の力を利用しようとする人たちでした。いえ、王国の方だけではありません。敗戦国となった帝国から、あるいは、遠くの国から……私を手に入れようと、争いが起きました」
エクレアは自らの身体を両手で抱き、うずくまった。
よく見ると、小さく震えている。
「私の力はそれほどまでに有用だったのです。私を守るために、多くの人が死にました。良くしてくれた護衛の騎士、メイドさん、私を囲っていた貴族。同時に、親しいと思っていた人から、何度も裏切られました。こんなことになるなら……私は聖女になんてなりたくなかった。いくら傷を治せたって、死んだ人は蘇らないのですから」
エクレアは間違いなく、歴代最高の聖女だった。
生きてさえいれば、たちどころに傷を癒し、どれだけ重傷でも次の瞬間には走り回ることができた。
ケガでも病気でも同様だ。
まさしく、人知を超えた力だ。
「こんな力、人が持っていてはいけないものです。世の理を乱すだけ。私さえいなければ死ななかった人たちが大勢いる。私が生きているばっかりに、癒すための力で、間接的に人を殺しているのです」
「……君は悪くないと思うけどね。君は誰かを助けようとしたはずだ」
「ふふ、暗殺者さまなのにお優しいのですね。でも、自覚がなければなにをしてもいいというわけではないのですよ。実際に、私のせいで人が死んでいるのですから」
お前のせいで……そう言われたことも、一度や二度じゃない。
事実、聖女の力が争いの火種となり、それで人の命が失われたことは事実だ。
「本当ならね、暗殺者さま。私は聖女になんてなりたくなかった。生まれ育った小さな農村で、ただゆったりと、幸せに暮らしたかったのです。ふふ、もしかしたら、彼と結婚していたかもしれません」
「……彼?」
「同じ村で仲の良かった男の子です。生まれた日も同じで、漠然と、ずっと一緒にいるものだと思っていました。王子様と婚約なんてせず、彼と結婚していたほうが……ずっとずっと、幸せだったのに」
その王子も、聖女を巡る戦いで欲をかいて死んだ。
「彼は身体を動かすのが苦手で、農業も狩りも、あまり好きではない人でした。でも、山菜を見つけたり、お野菜の病気にいち早く気づいたり……とても聡明でした。そしてなにより、とても優しかった」
一転、穏やかな表情になって、愛おしそうに話す。大切な思い出を手放さないように、胸の前でぎゅっと両手を握る。
「叶うなら、もう一度会いたい……。でも、それはできません。彼に迷惑がかかってしまう。だから私は……このまま思い出を抱えたまま死にたいのです」
夜空を凝縮して丸めたような美しい瞳が、まっすぐに男を見つめた。
「なので、暗殺者さまが来てくれたこと、とても嬉しいのです。やっと終わりにしてくれるんだ、って」
「ちなみに、どうして俺が暗殺者だと?」
「ふふ、それはですね。聖女の力を求めている人が、なんとなくわかるようになったんです。これも聖女の権能なのでしょうか。ぎらぎらとした欲望が、手に取るようにわかるんです。でも、あなたにはそれがない。きっと、違う理由」
エクレアは得意げに人差し指を立てて、そう言った。
「しかも、黒づくめで、隠れながら私に近づく。これはもう、暗殺者以外ありえませんっ」
ね、すごい推理でしょう? と小首を傾げた。
「……さて、お話が長くなってしまいましたね。聞いていただきありがとうございました。ぜひ暗殺者さまの手で、この悲劇を終わらせてくださいませ」
エクレアは立ち上がり、ゆっくりと歩みを進めた。
黄金色の髪が、月光を反射してきらきらと輝く。
やがて男の前に立つと、無防備に立ち尽くした。
男がナイフを抜けば、一秒以内に首を掻き切れるだろう。
聖女の癒しの魔法すらも間に合わない。
「どうぞ、お手を煩わせてしまいますが、自分で死ぬことはできない祝福ですので」
「その前に、俺も話してもいいか?」
「ええ、もちろん。私ばかり聞いていただくのは、フェアではないですからね」
立場が代わり、男が語りだした。
「俺には昔、好きな女の子がいたんだ」
「まあ。素晴らしいですね」
「けど、その子は突然、いなくなってしまった。遠くへ連れ去られてしまったのだと、後から知った」
「なんてこと……誘拐ですか?」
エクレアは口元に手を当てて、悲しそうに眉を下げる。
「似たようなものだ。俺はその日から、彼女を連れ戻そうと必死で訓練をした。好きだった山菜取りを止め、苦手だった狩りを必死に克服し、兵士になり、暗殺者に弟子入りした。……人は殺していないけど、その術は叩き込まれた。全ては、彼女を助け出すためだ」
「え……?」
「もしかしたら俺のことなんて、もう忘れているかもしれない。遠い地で幸せに暮らしていて、助けなんて求めていないかもしれない。何度もそう思ったけど、聞こえてくる噂話を聞くたび、絶対に助け出さないといけない、と決意した」
「あの……それって」
男が顔を隠していた黒い布を、ゆっくりと外す。
「うそ……」
彼の顔を見た瞬間、エクレアは目を大きく見開いた。一歩、二歩と後ずさる。
信じられない、とばかりに口を強く抑える。
「エクレア、助けに来た。聖女じゃない、一人の女の子の君を、攫いに来たんだ」
男がそう手を差し出した瞬間、エクレアの眦に涙が浮かんだ。
「聖女エクレアは今日ここで、暗殺者に殺されて死ぬ。でも俺は悪い暗殺者だから、死体を持ち去ってしまうよ。もしかしたらその中には、聖女じゃあないエクレアが残っているかもしれないね。どうかな」
男は優しい笑みを浮かべて、提案する。
「俺に殺されてくれますか? 聖女様」
「……はい、暗殺者さま」
遠くの国にある小さな集落で、ちょっとだけケガを治せる女性と、妙に身体能力の高い農夫が幸せに暮らすのは、別のお話。