神獣討伐 落涙
まず最初にライキルのことを抱きしめた。強く、傍に、けれど壊れてしまわないように、彼女の体温がハルの心を優しく温めてくれる。
「怪我してない?」
「はい、大丈夫です。あと、それはこっちのセリフです。ハルは怪我してないですか?」
ライキルもそっとハルの後ろに腕を回して包み込む。これが当たり前となる日々が来るように、ハルは生きていると言っても良かった。
「大丈夫、だけど無事でよかった」
「私もハルが無事で安心しました」
しばらく二人が抱き合ったままお互いの温かさを確かめ合っていると、そこで、誰かが咳払いをした。
「あの、ハル、私たちもいること忘れないでよ?」
エレメイがぶっきらぼうに頬を膨れさせていた。
ビナとガルナが今すぐにでもこっちに飛び込んで来ようとしているのを理性で押さえていた。
ルナもずっとこっちを物欲しそうに視線を送っていた。
「そうだね、ごめん…」
ハルが名残惜しそうにライキルから離れる。するとその隙に当然のように次を狙っていた、ガルナ、ビナ、ルナ、がハルの周りに群がり始めると、エレメイが憤りを露わにした。
「あぁ!ずるいぞ、お前ら!!」
ハルを抱きしめる醜い争奪戦が始まっていた。こんな状況にも関わらずみんな緊張感の欠片も無かった。ハルがひとしきり挨拶代わりにみんなを抱きしめてあげた後、すぐに現在の状況について情報を共有しておくことにした。
ルナとエレメイはある程度のことはすでに知っていたため、ライキル、ガルナ、ビナに事の経緯を知っている範囲で話した。しかし、話したところで、彼女たちは漠然とこの大陸が危険だということしか、理解できなかった。そして、ハルもそれで構わなかった。とにかくこの大陸が今どこも危険だということを分かっていてくれれば、彼女たちもこんな無茶なこともしないでくれると信じていた。
だから、ハルは救助活動にまた戻るといったライキルと二人だけで話すことにした。路地裏でハルはライキルと二人だけになった。
「ライキルの人を助けたいって気持ちは凄く尊敬してる…だけど、俺は、君には危険な目に遭って欲しくなくて……」
ハルがそこまで言うと、ライキルが目を伏せた。
「それじゃあ、私は地下にいた方がいいんですか?」
「うん…」
それがハルの本心だった。大陸を守り切った後、手が回らなかったのでライキルは死んでいました。では、ハルがこの大陸を脅威から守っても、きっと、意味がなかった。ハルにとって生きる意味はほとんどライキルに依存していた。そして、それはエウスと別れてしまったことで顕著になってすらいた。ハルを幼少期から支えた片割れがいなくなり、表向きはしっかりしていたが、今のハルの心は相当まいっていた。
「そうですか、ハルに言われたのでは仕方がありませんね……」
ライキルは、ハルのことを抱きしめた。
「少しだけ、喧嘩でもしませんか?」
「え?」
ライキルに強く抱きしめられながら、ハルは彼女の言ったことが理解できなかった。
「喧嘩です」
「喧嘩って、俺とライキルが?」
「はい、嫌ですか?」
ライキルが悪戯っぽく笑う。その表情から彼女が決して本気で喧嘩をしたいわけじゃないと分かったが、ハルにはその彼女の言動が不穏で仕方がなかった。
「嫌だよ、俺はライキルと喧嘩なんてしたくない……」
ハルは視線を落とすと、そこには満足気に微笑んでいる愛しいライキルの姿があった。
「喧嘩するほど仲がいいって、よく聞きませんか?」
「一度の喧嘩で関係が壊れてしまうことだってあると思うけど…」
「一度の喧嘩で壊れてしまう関係ならきっと、それまでの関係だったってことです。ハルにとってその人は大事な人じゃなかったってことです」
「そんなことない!」
ハルは語気を強めてしまったことに自分で驚いていたが、ライキルにはすべてお見通しのようだった。彼女は慈愛に満ちた眼差しで言った。
「エウスのことで悩んでいますね?」
「わかるの?」
「わかる?ええ、もちろん、私はハルのことなら何でもわかりますよ。ハルの顔を見て、抱きしめて心臓の鼓動を聞けば、ハルが喜んでいるのか、悲しいのか、何でもわかります。まあ、これは夫を持つ妻としては当然のことですけどね」
いつも傍に居たから分かるということなのだろうが、普通は表に出さない相手の深層心理を読み取ることは不可能に近い。それでも、長年ずっと一緒にいた相手のことなら、ライキルが言いたいことは何となく理解できた。
「そう、エウス、そのこともあって、俺はライキルには安全な場所にいて欲しいと思ってる。失うのが怖いんだ…」
ライキルがそこで嬉しそうに笑っていた。彼女の笑顔はいつもハルを救ってくれていた。
「ありがとうございます。それはハルが私のことを大切に思ってくれているという証拠ですもんね」
「そう、だから、全てが終わるまで…」
ハルの言葉を遮るようにライキルが口を開く。
「私、ハルの隣に居たいんです」
「………となり?」
「はい、私はハルの隣に立っていられる人でいたいんです。そのために、必要なことは人を助けることだと、勝手に思っているんです」
「どういうこと?俺の傍にならライキルはずっといていいんだよ?というか、いて欲しい絶対に…」
ハルがそう言うと、ライキルが深く息を吸った後、そのハルが言った言葉をまるでかみしめるように笑みを浮かべそうになっていたが、あくまで真剣な話をしていると我に返り、ライキルが一歩下がってまっすぐハルを見つめた。
「ハル、それでも私はやっぱり人を助けたいんです。騎士として、立派なハルの隣に居られるような人間でいられるために、困っている人たちに救いの手を差し伸べてあげたいん です。私の力なんてちっとも役に立たないと思いますけど、それでも、ひとりで地下に籠って、全てが過ぎ去るのを待つということが、私にはどうしてもできないんです」
「なんで、だって、もしもライキルに何かあったら、俺は……」
「ごめんなさい、ハル。私、あなたに憧れてもいるんです」
「え?」
「ハルのこと愛しているのは当然なんですけど、それと同じくらい私、騎士として英雄のハルに憧れてもいたんです…」
ライキルが背筋をのばし、そして、すぐにハルの前で膝をついた。
「私、小さい頃からずっとハルのようになりたいと思っていたんです。強くてみんなを守れる頼れる存在に」
「俺は、そんなんじゃ…」
ハルが背負った罪が、ライキルの言葉を受け付けない。
「だけど無理でした。私にはハルみたいに神獣は倒せないし、世界も救えない。だけど、私の目の前にいる人ぐらいは、救えるようになりたい。それくらいには強くなりたいとずっと思っていました。だけど、それも無理で…」
凛々しいライキルの姿が、ハルにはあまりにも眩しかった。
「私の人生、全部ハルに任せっきりで、これじゃあ全然いいところが無くて、きっといつかハルに呆れられちゃうなって、私、弱いですから…」
「そんなことない、ライキルは俺なんかよりもずっと、強くて……むしろ、俺の方が………」
呪いがあった。人を殺した呪いが、ハルをどこまでも蝕む。ライキルのことですらまともに見れなくなるほどだった。イゼキアでハルが犯した罪は決して消えなかった。
ハルは、片膝をついていたライキルの前で、力なくしゃがみこんだ。
「ハル?」
ライキルが壁を背に無気力にもたれかかっているハルを見て心配そうに身を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「ライキル」
「なんですか?」
「俺は、そんなに強い人じゃない…」
弱弱しい声と共にハルが、ライキルのことを抱き寄せる。孤独を埋める彼女の温かさが、道を照らす灯のように頼りになり、そして、とても温かい彼女のぬくもりが欲しかった。ハルは弱弱しく続けた。
「弱いんだ…脆いんだ…。エウスがいなくなっただけで不安で仕方ない。ライキルが危険な目に遭うんじゃないかって思うと怖くて仕方ない。みんなが戦場にいると思うと、誰も彼も助けなきゃいけないって、焦る。どうすればみんなが幸せになれるかいつも悩んでる。なあ、ライキル、俺はこんなだ………」
ハルの目から涙が零れていた。
「いいとこなしだ……」
怖いどこまでも、何をするにしても、自分がどうにかしなくては、みんながいなくなってしまう。ハルはそう思っていた。けた外れの力を持っているがゆえに、ハルはそのような強迫観念にかられていた。救い出せなかったら自分のせい、何でもかんでも自分ができるはずなのにそれができなかった。だから、ハルは、失敗することを何よりも恐れていた。そして、そんな失敗をしないために、ハルの力は常にハルの要望に応え続けていた。だからハルは不可能と思われることでも、ずっと、可能にしてきた。限界を決めないで、できるはずだからと、常に無理に挑んでいた。
しかし、ハル本人からすれば、できて当たり前として、何もかもを認識するものだから、手を出さなくていいところまで手を出すし、無関係のことにだって首をつっこみ、それらの責任を一身に背負っては、できないと自分を責め続けていた。それは日に日に悪化しいつしかハルの中で矛盾をはらむことにもなっていた。
「ハルはやっぱりとっても優しい人ですよね」
「え…」
困ったように驚くハルに対して、ライキルは目を細めて優しく微笑んでいた。
「だって、自分ばっかの私と違って、ハルは、いつも他の人のことばかり考えているんですから…」
ライキルがハルの唇にキスをした。
「やっぱり、私なんかじゃ、ハルには到底及ばないということです…」
ライキルがゆっくりと立ち上がった。
「まあ、なんですか?だから、やっぱり、私は、その、ハルのことが、ますます好きになってしまいそうで困りましたね、フフッ」
ライキルがいたずらに笑うと、ハルに手を差し伸べた。
「ハル、大丈夫ですよ。あなたが弱くたって、きっとすべてうまくいきます。それは私が保証します。だって、ハルのことなら私なんでも知ってるんですから、だから、だからですね、ハルはハルが正しいと思ったことをしてください。私も、そんなハルのことをずっと後ろから支えられるように頑張りますから」
ライキルは終始ハルの好きな笑顔のままだった。まるでこちらを元気付けるために無理してでも笑顔を崩さないでいるのかと疑ってしまうくらいだった。そんなひねくれた思考すら彼女の笑顔の前では無力だった。
ハルも分かっていた。長いこと一緒にいるから、ライキルがこういった非常事態の時、人助けをすることは、道場の教えがずっと深く根付いていることを、道場の師範であったギンゼスの教えがライキルの中でちゃんと生きていることを、知っていた。
ハルもライキルと言葉を交わすことで、ずっと勇気をもらい前を向くことができた。
ハルはライキルの手を取ると、立ち上がった。
「ライキル」
「はい?」
「ありがとう」
「ああ、いえいえ、私は何もしてないです。ただ、その、まあ、なんですか、ハルと二人っきりでベタベタできて良かったなぁと思っていたので…」
ライキルが照れくさそうにしていた。
「ライキル、皆を引き続き助けてあげて」
「え、ああ、はい!もちろんです」
「頼んだよ…」
ハルはライキルを地下に閉じ込めておくことを諦めた。それが正しいかどうかは関係なく、ハルが絶対に守ると覚悟を決めればいいだけの話しだった。
そして、そう、覚悟を決めた時だった。
涙が一粒、落ちる。
その涙は、ハルのものでも、ライキルのものでもなかった。
その涙を流したものは、青々と広がる空にあった。
無限に広がる空に、無数に広がるものそれは星。
大陸に星の涙が落ちた。