神獣討伐 陸神
「どうしてここに居るんですか?」
尋ねるべきことはまずそのことだった。レゾフロン大陸からおよそ数百キロは離れた何もない海のど真ん中にレキというエルフがいた。漁業ですらこんな遠海までは来ない。そんな彼が船も無しに海面に立っていることは、不思議でたまらなかった。マナも無く魔法が使えない現状で、彼は海面に足を付けて立っていた。マナに頼らない生まれ持っての魔法、天性魔法を使っているのなら話は別だが、彼がそのような天性魔法を持っているようにはハルには見えなかった。もっと何か別の力で彼は海の上を歩いているような気がしてならなかった。
「それは君に大事なことを教えるために来たんだ」
「………」
ハルは涙を拭いてレキの言葉を待った。
「ハルくん、君は今すぐ、大陸に戻らなくちゃいけない」
「待って下さい、世界亀の討伐が先のはずです。元凶を倒してしまえば、今、大陸を襲っている魔法も止まるはずです」
魔法を行使している術者を倒せば、発現した魔法も消える。これは誰もが最初に思い浮かぶ魔法の対策の常識であった。
だからこそエルノクスたちも、ハルに元凶であるはずの世界亀の討伐に行かせた、はずだった。
「エルノクスさんたちと約束したんです」
「本当にそうですか?」
「え?」
「本当に世界亀を討伐したからといって、今、大陸で進行中の魔法が止むと?」
「違うんですか?」
「ハルくん、君はエルノクスという男に選ばせられなかったかい?」
その時ハルの頭の中にはエルノクスの言葉が蘇っていた。
『ハルさん、今すぐに選んでください。この大陸を守りにいくか、それとも今からすぐに世界亀ワールドタートルを討伐しにいくか』
ハルはそこで確かにエルノクスにそう言われたことを思い出す。
「言いたくはないけれど、彼ほどの魔法に詳しい人物なら、この状況をおおよそは即座に把握したと思うんだ。厄介なことに彼は、彼で、僕よりも遥かに先が見えないのに先を見ているからね……」
レキがどこか悔しそうに言うが、ハルはすぐにレキに尋ねた。
「答えを知っているなら、どういうことか、今すぐ説明してもらってもいいですか…俺には時間がないんです…」
ハルは自分が動くことで一体どれだけの事態が動くか自分でも自覚していた。だからこそ、答えを急いでいた。
「そうだね、悪かった、手短に話そう。だけど…うん、その前に、まずは僕を守ってもらってもいいかな?」
「え、なんですか?」
その時、突然、ハルとレキの足元の海面から大きな地響きのようなくぐもった音がした。直後、大気が震え、周囲の波が荒れ始めた。何かがハルたちの下にいた。巨大な何か、暗い影が海の底に佇んでいる。何かがいる。何かが鳴動している。海面が大きく割れた。しかし、その海面の割れ方も異常な光景と共にハルとレキの目に飛び込んで来た。海面から、水の塊がいくつも宙に向かって落ちていく。その水の塊はやがて、海面の水を削り取って、空へと大きな、大きな、水の塊を築き上げていた。あっという間に空に大きな水球がひとつ現れると、海面が無くなった足元に対してハルは天性魔法の闇を足場に、レキは相変わらず何もない空中に浮いていて、今の場所に留まった。
海からごっそりと水が無くなったその穴に、周りから新たな海水が流れ込んで来ることはない。まるで見えない何かが海水をせきとめているかのように、海の壁が出来上がり、海面に穴が開いた後も、それが維持され続けていた。
ぽっかりと開いた穴は、巨大なスプーンで海面を抉りくり抜かれた後のように、次々と海の底が露わになった。それは何千、何万、あるいはもっと古くから水圧に押しつぶされていたであろう、焦げ茶色の海床がむき出しになり、空気に触れて呼吸をしていた。
やがて、海面が空へとめくり上がって行く光景を目の当たりにしていると、その水球がいくつも、ハルたちの頭上で形成され、気が付けばすっかりと完全に空には海が広がっていた。
圧倒的な光景に、ハルとレキが頭上を見上げる。だが、そこには海が広がっていた。
そうやって上ばかりを見ていると、気が付けばハルとレキの足元には、深い大穴ができており、そして、それはさらに遠くへと続き、海の無い道が現れていた。
「レキさん…」
「間違いない、お出ましというやつだ。ほら、あそこだ…」
レキが指し示す方向。それは海に開けられた大穴が続く先の、海の無い道の終着点。抉られた海がまるで壁となってそびえ立つ場所。
そこでようやくハルは、最後の神獣をその目で目撃することになった。
海の壁に隠れてまだ姿の半分も見えていなかったが、青い海ではよく映える緑の甲羅の表面がハルの視界に映った。
やがて、突如として緑の陸、おそらくは世界亀の甲羅が、その海の壁を突き破ってまるで陸のようにせり上がり、そのまま、その緑の甲羅は山となって、天に広がっていた水球すらも突き破っていった。
そして、さらにそこから岩盤にひびが入り、その地面が裂けると、その緑の甲羅を背負っていた世界亀の顔が露わになった。龍のような顔つきに、太古の時代を映して来た古びた緑の瞳。真正面から見てしまえば、常人なら狂ってしまいそうなほどの迫力のある恐ろしい顔つきで、おおよそ、想定していた亀の顔とはまるで違った。そこには明確な殺意を宿す野性味すらあり、本来なら亀に対するおっとりとしたイメージなど欠片も感じられなかった。そこにあったのは圧倒的な脅威ただそれだけだった。
世界亀が、敵であるハルとレキを視認すると、容赦なく、その口から吐き出された。超高密度な魔力弾のようなエネルギーの塊を放出して来た。
ハルとレキの前に、真っ青な青い巨大な球が飛んで来る。
ハルはその弾がこちらに来る前に、足を軽く振り上げると、その風圧だけで、世界亀から挨拶代わりに飛んで来た球を軽々とはじき返していた。
「相変わらず、君はめちゃくちゃだね…」
レキは、ハルのあまりにも人間離れした行動に、感心するというよりもすでにあきれ返っていた。
しかし、ハルが返した弾が世界亀に命中することはなかった。
世界亀の数キロ離れた場所で、その青い弾は見えない壁にぶつかり消滅してしまった。
「あれって、もしかして、結界か何かですか?」
ハルが蹴り返した弾が世界亀に命中しなかったことに疑問を覚えた。そして、一太刀浴びせようと手に持っていた大太刀を振り下ろそうとしたが、レキに止められた。
「待って、欲しい、ハルくん、時間を無駄にしたくないなら、ここは一度撤退しよう」
「やはり、レキさん、あなた何か知っているんですね?」
「それは戻ってから説明するよ、だけど、今はここから離脱することだけを考えた方がいいね、もう、すでに僕たちは、あの世界亀の術中だ…」
すると、ハルたちの頭上にあった球状の海、側面に広がっている断崖の海、そして、奥で待ち受ける世界亀から、水状の光線が、ハルとレキめがけて死角のない全方位から無数に発射されていた。
ハルが刀を片手で持ち直し、レキを小脇に抱えると、すぐに駆け出していた。
逃げ場のなかったはずの水の光線を掻い潜り、ハルは一度口惜しいが討伐を諦め、レキの助言に従いレゾフロン大陸へと、帰還を始めた。
遠ざかるハルを世界亀の古びた緑の目がずっと執念深く追っていた。