神獣探索 底穴
鉄球のような形をしている水中研究所は、ゆっくりと、水圧を確かめるように、緑死の湖中央の底へと潜っていた。
水中研究所にあるマナ仕掛けの水深計の数値が上がって行く。もう人間の身体では耐えられな深さまで来るが、結界に守られたこの可動式の水中研究所はまだまだ潜ることができた。
「ここってどれくらい深いの?」
「緑死の湖は一番深いところで二キロはある。だけど、今回エンキウとアシュカが開けた穴と、地下に眠っていた山蛇が掘った穴でどれくらい深くなっているかは未知数だ」
「この潜水施設ってどれくらいもつものなの?」
ドロシーとエルノクスの会話に、研究者が割って入る。
「この施設は結界に守られているので、どこまでも潜れますよ。まあ、マナがなくなれば終わりですが…」
研究者の言葉にドロシーが顔を歪める。
「じゃあ、マナが無い場所とかに入ったら、この施設は水圧で潰れるってこと?」
「そうなりますね、ただ、この湖とても濃いマナで満ちているので、この施設がマナの供給ができなくなるということはないでしょうね」
神獣が生息するほどの地域だ。マナが豊富にあることは当たり前だ。彼等はそのマナを求めてその地に留まる。緑死の湖も例外なくマナが豊潤だった。
しかし、エルノクスが苦言を呈した。
「でも、ここでまたあの山蛇に遭遇したら、水中のマナもすべて吸われちゃうんじゃないかな?」
メインルームが静けさに包まれた。
「…引き返しましょうか?」
その提案にエルノクスは淡々の返す。
「引き返すというより、あなた達は、今からでも転移で地上に戻ってももらっても構いません。ここは私が引き継ぎます。あなた達のような貴重な研究者たちを失うのは組織にとっても損失ですからね」
エルノクスは水深計を見ながら、どれほど緑死の湖の中央の底が深いのかワクワクしているようだった。
「いえ、我々も最後までお付き合いします。ここの調査を陛下から受けた身である以上、引き下がるつもりはありませんので」
「そうですか、まあ、ハルさんがいるから、何も心配はないと思いますけどね」
エルノクスの隣に、ドロシーが来ると一緒に装置についている水深計を見た。すでに生身では到達不可能な深さまで、潜っていた。
「エルノクスは、彼のことを信用しているの?」
「ハルさんのこと?」
「うん」
「もちろん、彼は我々のパートナーになったからね。だから、こうして私たちの護衛として同行もしてくれている。私たちがこうして調査を進められるのはバックに彼がいるからというのも大きい、彼はどんな困難も打ち破ってしまうほどの力をもっているのだから、これほど心強い味方はいない」
イゼキアに降る巨岩を粉砕したのを目の当たりにしたことで、ハルはもはやエルノクスの中で、手に負えない存在であると同時に唯一無二の組織の守護者という立場になっていた。
「でも、どうして、エルノクスはそこまで、彼のことを信用できるの?前までは危険人物って言ってたよね」
「今でも彼が危険人物なことに変わりはないと思っているけど、その脅威が我々に向くことがなくなったから信頼できるんだよ」
「なんで急に危険じゃないって判断したの?」
エルノクスが水深計から視線を外しドロシーを見た。彼女はすでに、エルノクスのことを心配そうに見つめていた。
「それは、アシュカがハルさんのところに嫁入りしたからかな」
「え?」
ドロシーの顔が驚愕一色で塗りたくられる。
「アシュカが結婚したってこと?」
「まだ、式は挙げてないけど、彼女、もうすっかりハルさんの妻として振舞っているよ」
ドロシーがそこで腰を抜かして地面に尻を付けた。
「嘘だ…だって、あいつ、恋愛とか結婚とかはもういいって…」
「運命の出会いだったみたいだからね、なんだか、恐いくらい彼にご執心だったよ」
ドミナスの意思であるエルノクスに背くほどの執着。けれどそんな彼女のこともエルノクスは許すほかなかった。なにせ、大切な家族のようなものなのだ。妹が結婚したようなもので、エルノクスも祝ってあげたい気持ちの方が強かった。それに組織に彼を迎えられた利益は計り知れないものだった。これならどんな組織が勃興して来たとしても、何も怖くなかった。きっと世界の終わりですら彼なら救ってくれる。まさにドミナスは彼を吸収したことで裏表関係なく最強になった。
「そんな、じゃあ、僕は先を越されたってことか…」
「なに?ハルさんを二人で狙ったのかい?」
「違うよ!どうして僕があんな化け物を好きにならなくちゃいけないんだ!結婚の方だよ、僕の方が先に運命の人を見つけられると思ってたのにって話!!」
「ああ、そっち方面か」
「もう、いい、戻ったらアシュカに本当にあの男でいいのか問い詰めてやる。ていうか、今からあいつのところに行って、僕たちのアシュカを返すように言ってくる」
プンプン怒ったドロシーを引き留めるようにエルノクスが声を掛ける。
「無駄だと思うよ、彼じゃなくて、アシュカがご執心だからね。むしろ、ハルさんの方は彼女を引き留める理由が無ければ簡単に手放すと思うよ」
「その理由っていうのは?」
「私たちドミナスの存在かな。ハルさんはアシュカを手元に置いておくことで、ドミナスからの干渉を避けた。そして、私たちはハルさんという矛を手に入れた。今の関係性はお互いにとって互いに利益が出る状況なんだ。だから、無理に現状を引っ掻き回さないでもらいたね」
今回のアシュカの件については、お互いに計り知れない利益があった。その莫大な利益を手放すほど、エルノクスという男も組織運営のトップとして、私情で動いているわけではなかった。
それにエルノクスにはアシュカがいずれ戻って来る確信もあった。
「エルノクスはそれでいいの?アシュカを取られて悔しくないの?」
「取られたという表現はあまり好ましくないけど、寂しいことは私もそう思う。だけど、人はいつか巣立つ時が来る。彼女にはただその時が来ただけなんだと割り切ることにはしたよ」
「エルノクスは大人だね、私はまだまだアシュカと遊んでいたかったよ」
「別に会えなくなるわけじゃない。私たちは彼女が巣立ったこの古巣を守って彼女が返って来るのを待てばいいんだ」
「帰って来るなんて分かんないじゃないか」
「帰って来るよ、だって、よく考えて見てごらん」
エルノクスがそこで少しだけ寂しそうに微笑んだ。ドロシーは首を傾げていた。
「アシュカはエルフで、ハルさんはおそらく人なんだから、嫌でも彼女は私たちのところに戻って来る。きっと、これは彼女に与えられたわずかな間の幸せなんだ」
「………」
ドロシーもそこで、ようやくその意味を理解してうつむいた。
「人を好きになるなんてバカだよ、アシュカは…」
エルノクスは、ドロシーの頭を軽く撫でると、水深計に視線を戻していた。
施設が揺れ動いたのは、その直後だった。
「何?」
ドロシーが周りにいた研究者たちを見ると彼等も、何が起きているのか分からず、辺りを見回しているようだった。
「エルノクス」
「うーん、水深計はかなり深く潜っているけれど、結界を張っているから強度の方は問題ない。ということは、他の要因がこの施設を揺らしていることになるね」
冷静にエルノクスは考えれるだけ考えながら、メインルームにあった窓から外の様子を見た。
当然、光が差すことはなく、そこは真っ暗な闇が広がっているだけだったが、エルノクスは魔法を使ってそこに広がっている景色を鮮明に映し出した。
そこは湖の底で、でこぼこと岩盤が広がっていたが、一か所だけ巨大な穴が開いているのが確認できた。
「湖の底に穴が開いてる。きっと、例の山蛇が眠っていた穴だ」
「ここを進むってこと?」
「…………」
エルノクスがそこで腕を組んで思考を練り始める。
「いや、水の採取だけして離れよう。この湖から分かることはそれだけで、それだけで十分だ」
淡水である緑死の湖から、規定値以上の塩分濃度が検出できれば、それだけでまた別の仮説を立てることができ、ここで無理して穴の中を進む必要性もなかった。
「それに何か、あの穴の奥からは嫌な予感がする……」
水深はすでに三キロに達しようとしていた。そして、先ほどから微細な振動を感知していた。
何が潜むかも分からない穴の奥に進むのにはリスクがあった。
研究者たちに指示を出し、水の採取だけを急がせた。
エルノクスはその間、窓から不気味さ漂う湖の底の巨大な穴を見つめていた。
途中、ミカヅチが来たので、ハルをメインルームに連れて来るように言っておいた。
数分後、ミカヅチに刀を持たせたハルがメインルームにやって来た。威勢よくしていたドロシーが、すぐに黒いフードを被り物陰に隠れてしまったのが、なんだか猫のようだった。
「何かあったのですか?」
「今のところは何も問題はありません。それより、ハルさん、こちらに来てあの穴が見えますか?」
ハルがエルノクスの隣に来ると同じように小窓から外を眺めた。
「真っ暗で何も見えません」
「おっとそうでした。それなら、見えるように魔法を掛けますがいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
エルノクスがハルに魔法を掛けると、ハルの目にもその湖の底に開いた穴が見えていた。
「何か、感じませんか?」
「いえ、特に何も…」
「私には、あの穴からとても嫌な感じがしているんです。また、あの山蛇がいるんじゃないかと思いまして…それに何かあの穴からはとても嫌な気配も感じるんです。ですが、こちらの様子を見ているだけで何もしてこない…」
「そうなんですか?」
ハルにはさっぱり何も見えなかった。ただ、ここで、自分の光の天性魔法が使えたらその正体も把握することができたが、今、ハルの内側には闇の感覚しかなかった。
「もしも、ここで山蛇に襲われたとしたら、ハルさんは私たちを守れますか?」
「そのために私を連れてきたのでは?」
ハルが平然とした調子で答えた。姿かたちが分からなくても、そして、たとえ水中だったとしても、あの巨大な山蛇程度だったら、刀無しでも討伐は余裕だった。
「そうですね…」
エルノクスは少しばかり意表をつかれてしまった。すぐに微笑みを取り戻す。
「とても心強いお言葉です」
しかし、エルノクスは水を採取し終えると、すぐに水中研究所を湖の上へと引き上げた。その湖の穴への探索は水質の結果が出たことで不要になったからだ。
水中探索を終えたエルノクス一行は、地上に戻って来ると、ハルをイゼキアの地下施設に帰還させることにした。
「何事も無くて良かったです。それで何かわかりましたか?」
ハルが、返って来た緑死の湖のほとりにあるキャンプ場で、エルノクスに尋ねた。
「ええ、あの地下の大穴がどこに繋がっているのか、そして、山蛇がどこから来たのかも、大まかですが、居場所に確信は持てました」
「それって、どこですか?」
「海です」
「海?」
「ええ、我々はこれからイゼキア近辺の海を中心に捜索を始めます。ハルさんは来るべき時のために、準備のほどをお願いします」
なぜ海岸から遠く離れた海と緑死の湖が繋がったのかハルには分からなかったが、エルノクスたちが調査した結果そうだったなら、そうなのだろうと、考えを放棄するというより、ハルも彼等のことを少しは信頼を寄せるように努力をしていた。
「分かりました、必要な時はいつでも声を掛けてください」
そうして、ハルが刀をミカヅチから受け取り、ドミナスの兵士の瞬間移動の転移魔法で飛ぼうとしていると、エルノクスは言った。
「そうでした。今回の報酬はハルさんの預金に入金しておきますので、後でご確認ください」
「え、これって金銭が発生していたんですか!?」
「当然です。私はハルさんを雇って護衛をしてもらったのですから」
「いや、えっと、今回は遠慮しておきます…俺、何もしてませんし…」
ハルは今回全く何もしておらず、ミカヅチと楽しく会話し、潜水施設へと遊びに来ただけのようになっていたので、金銭が発生していることに後ろめたさを感じていた。
「ハルさんが何もしていないという結論に至るには、少し、ハルさんは物事を一側面からしか見ていないと言わせてもらわなければなりませんね」
「どういうことですか?」
「ハルさんがいらっしゃったおかげで、穴の奥にいた何かはこちらを攻撃してこなかったと考えることはできませんか?」
何とも雲をつかむとうな意見だったが、ハルも今後のことを考えると手元にお金が少しでも欲しかったので、その提案を受け入れることにした。
「わかりました。エルノクスさんが、そうおっしゃって下さるのなら、報酬はいただきましょう。その代わり、今度、俺からもお礼ぐらいさせてください」
「それはそれは、楽しみにしています。ですが、それもまず、四大神獣を討伐してからですね」
「ええ、そうですね」
それからハルはドミナスの兵士の転移魔法で緑死の湖を後にするのだった。
***
ハルが去り、残ったエルノクスが部下たちに指示を出していた。それも慌てた様子でだった。
「ミカヅチいますか?」
「はい、ここに」
「全員すぐにここを撤収させてください。あの穴の奥におそらくまだ、例の山蛇がいます」
「誠ですか?」
「ハルさんの存在を感知して鳴りを潜めていますが、我々だけで刺激をすればまた暴れだすでしょう…」
「しかし、いったいいつ召喚されたのですか?ここではマナ場の乱れもありませんでしたが…」
「ですから海です。世界亀は海に居ます。この緑死の湖はあの穴からイゼキア周辺の海まで繋がっています。あの穴の近くで採取した水に基準値以上の塩が確認できました。山蛇は海で再び召喚されて、この湖の豊富なマナを摂取しにきた可能性が高いんです。だから、皆に撤退を急がせてください。ここは危険です」
エルノクスの深刻な顔にミカヅチも緊張が高まっていた。
「それなら、なぜ、ハル殿にこのことを伝えなかったのですか?」
「ここでの交戦に意味はありません。我々が撤退してこの場に平穏が戻るならそれでよし、さすがに山蛇もまた王都に向けてあの魔弾を撃つことも無いでしょうから」
「その確信、エルノクス様は持てるのですか?」
「ええ、穴の奥でハルさんを警戒して出てこなかったのがその証拠です。山蛇あるいはそれを操る世界亀はハルさんの脅威に気付いているはずです」
エルノクスには山蛇と世界亀には深い繋がりがあると確信をしていた。そのひとつとして、緑死の湖で巨大な山蛇を討伐した後、岩が止んだことが確信する理由でもあった。
「それに一度、水中で大きな揺れがありましたよね?」
「ええ、ありました」
「おそらく、山蛇が魔弾を放とうとしていたのでしょう。あの魔弾は周囲のマナを根こそぎ奪うほど、撃つためには大量のマナが必要でした。あのままいけばおそらく、我々の乗っていた潜水施設は、結界の維持に必要だったマナがその魔弾の生成に奪われ、結界が形を維持できず、私たちは魔弾でどうこうの前に、水圧で潰れていたはずです。施設が揺れ動いたのはその前触れだったのでしょう。そうじゃなければ、結界が急に水圧に耐えられなくなるはずがありませんからね」
エルノクスたちは先ほどまで死と隣合わせの場所にいたということになり、それに気づいているのはエルノクスだけだった。
「私はエルノクス様の護衛失格です」
「何をいうのですか、あなたは護衛ではなく私の友でありパートナーじゃないですか」
「しかし、私はあなた様に忠誠を誓った身です。主を守れなくして何が侍か…」
「ミカヅチ、あなたが今回のことで責任を負う必要は何もありません。ただ、今回ハルさんを連れて来て大正解だったということです。彼がいなければみんな死んでいたかもしれませんからね」
エルノクスもなんとも難しい表情で苦笑いをしていた。
「彼は例外なんです。彼は常に私たちの常識の外にいて、それを私たちが比べたり測ったりすることができない、唯一の例外なんです。だから、彼と自分を比べてはいけません。それはなぜ自分が火山や海、星や空になれないか悩むようなものだからです」
「ハル殿は、一体何者なんですか?」
エルノクスはそこで一度黙った。そして、静かに言った。
「さあ、もしかするとそれすら私たちは知ってはいけないのかもしれません」
「どういうことですか?」
「秘密というのは、その秘密を守っている者がいる。そう思いませんか?」
「ええ、確かに」
「その秘密を暴いて怒る者がいるかもしれない。ハルさんほどの秘密を握っている者となると、それはもはやこの世のものではない。違いますか?」
「筋は通っていますね」
「だから、私は彼に関していえば、表面上だけ付き合っていくと決めたのです。もう、決して彼に関しては探求しないと、彼に秘められた真実はきっと我々の手に余るものだと、そう思っているからです」
そこまで言うと、エルノクスの元にドロシーがやって来た。
「エルノクス、私たちも早く戻ってご飯にしよう、お腹空いてきちゃった」
「おっと話が長くなり過ぎました。ミカヅチ、後のことは任せてもいいですか?」
ミカヅチは首肯した。
エルノクスたちが去ると、ミカヅチが緑死の湖からの撤収を指揮していた。
人々が去り、緑死の湖にようやく平穏が訪れた。
自然豊かな土地に、食物連鎖の頂点に君臨していた山蛇がいなくなったことで、野生動物たちも、緑死の湖で水を飲んでいた。
イゼキアの西にあった緑死の湖に穏やかな時間が流れる。
しかし、これからこの大陸に待ち受ける試練は目の前に迫っていた。
ずっと眠っていた神話が、やがて現実のものとなる時が来た。
それは歴史の転換期であり、世界の亀裂でもあった。
目覚めの時が来る。