境界線
ハルは元気になったアシュカと長いこと、そのままベットの上で語り合った。
聞きたいことは緑死の湖でのこと。
「ごめんなさい、ハルからもらった宝玉が壊れちゃって…」
「壊れたからこうしてアシュカを助けにいけた。それに、あれは、ほら、いくらでも創れるからあげるから、今度は大事にしないでよ?」
ハルがアシュカの〈クビナシ〉のコアを渡す。
「ありがとう、大事にする」
「もう、話し聞いてた?」
「えへへ、ごめんなさい」
話しの噛み合わないアシュカの頬に触れる。見上げるハルの青い瞳に、それを見下ろすアシュカの紅い瞳が映った。
「アシュカ…」
「…ハル」
まっすぐ見つめ合う二人の顔がやがてどんどんと近づくと、二人はそのまま男女の関係に堕ちていく。窓の無い真っ白な部屋の清潔なベットで二人はお互いのことを探り合った。
数時間後。
ハルの後ろにはアシュカが眠たそうに毛布に包まっていた。
「ねえ、ハル」
「なに?」
「私、こんなに幸せでいいのかな?」
アシュカが少し声を潜めて言った。
彼女の背景を聞かされていたハルは少しばかりその言葉の受け答えに躓いた。それでもハルは断言できた。
「いいよ。俺の傍にいる間、アシュカは全部忘れて幸せそうに笑ってて、それが俺の願いでもあるから」
「ハル、私はさ、これまで自分の思うように生きてきた。そこではきっとハルが嫌がるようなこともしてきた。だから…」
「知ってる」
「え…」
「全部は知らないけど、エレメイからアシュカのことは聞いてる」
そこでアシュカの顔が一気に強張った。天国から一気に地獄まで転落したような絶望的な顔だった。
「だったら…ハルは私のこと……」
「アシュカは、初めて人を殺した時、どんな気持ちだった?」
「えっと…覚えてない……」
「俺も、最初に殺した人のことはもう覚えてない…」
「ハルも人を…」
アシュカの強張った顔が少しだけ緩む。その緩みはハルを少しでも自分と同じような立場だと知ったからだろう。
「大勢殺した。罪の無い人たちも、大勢、ここ最近でそんなことがたくさんあった」
ハルは、自分の理想の為に犠牲を積み上げていた。
「今更、この国を救ったところで、殺してきた人たちに対して、罪が贖われるわけじゃない、一度背負った殺しの跡は絶対に消えない」
ベットに腰を下ろしていたハルは項垂れる。その傷だけがハルを決して掴んで離さない。前の自分には本当の意味で決して戻れないこと、それはハルにとって大きな後悔でもあった。姿かたちが問題じゃない。どんな時でもハルはハルだった。だから、そこで犯した過ちが消えてなくなるわけじゃない。
それでもハルは覚悟はしていた。覚悟していたからこそ、実際に大勢の人間を犠牲に自分が欲しい未来を今選択し続けることができていた。
それでも悩まないわけじゃない。
覚悟した先に苦悩がないわけじゃない。
ハルはちゃんと選んだ選択の先で苦しみも味わっていた。
「俺は、すでにライキルや、エウス、ビナやガルナ、キャミルたちのような表側には立ってない」
ハルがここまで悩むのは、間違いなく、自分の存在とライキルたちとの比較だった。
彼等の為にハルはどんなことがあっても、守り、救い、幸せにすると覚悟を決めていた。そのためなら、何だってする。手段は選ばない。例えこの世が終わろうとも、ハルの愛した人たちだけは生き残って欲しかった。
そこに関してハルには譲れないものがあった。大切な人を失いたくない。その想いがハルには強くあった。
「俺は、みんなの為だからと言って、大勢殺した。これは許されることじゃない…俺はいつか、耐えられなくなって、ライキルたちとはいられなくなるかも……」
後ろから毛布を広げたアシュカがハルのことを包み込んだ。
「ひとつだけ聞きたい」
「…なに?」
「ハルは、私たちが邪魔なのかな…」
すぐ隣にあったアシュカの顔は少しだけ寂しそうだった。
「邪魔?」
「うん、私に、エレメイ、それとあのルナって子、確かホーテン家の殺し屋の三人を、ハルはライキルたちのような穢れの無い子たちに、近付けたくない。そして、自分も私たちのような血の匂いのする者たちには関わりたくない。そう、聞こえる」
ハルは、そこで酷く大きなため息をついた。
「多分、アシュカはまだ俺のこと何も分かってないんだ…」
「どういうこと…?」
ハルの片目からは涙が流れていた。しかし、その涙も頑なに片方側からしか流れなかった。
それを見たアシュカは唖然としていた。
ハルはアシュカのことを抱きしめた。
「絶対に…俺の傍から離れないで………」
「ハル…」
「いなくならないで、どこにもいかないで」
他の人間のことは大勢殺した。それでも、自分が大切にしたいと思った人たちには誰もいなくなって欲しくない。そんなの当たり前のけれども、誰しもがそうであり、そうじゃない人間はいない。
自分の愛する人より他者を選ぶ人間などいるはずが無い。自分たちの未来を捨てて、他人の幸せを喜ぶ人間などいるはずがない。それは選べなかった選択を選ばされただけで…。
『またね、ハル』
そんなことを誰かに言われたような、気がして、そこでようやく、ハルのもう片方の目から涙が流れていた。
ハルはアシュカの胸元でしばらく泣いていた。何が悲しいのかも分からず、ただ、ひたすらに泣いていた。
ひとしきり泣き終わると、ハルは落ち着きを取り戻していた。
「ごめん、取り乱しちゃって…」
「ううん、全然、いいんだ。辛い時は私の胸を貸してあげる。それに、私はあなたのママでもあり、妻でもあるんだからね…」
頭をそっと撫でられる。
「………」
ハルは前からの、そのアシュカがハルを我が子扱いをする理由が全く分からなかった。
「えっと、アシュカは別に俺の母親じゃないよね?それに俺に母親はいないし…」
「私がハルを産んだのよ、お腹を痛めて」
「え、違うと思うけど…」
子供の頃の記憶は十歳から前はないので、完全な否定はできなかった。
ハルは自分の本当の母親がどんな人なのか考えたことはなかった。それでも、育ての親はシルバ道場のじいちゃんと、おばあちゃんがそうであり、自分を産んでくれた母親のことを今更考えることはなかった。
「じゃあ、これから私がハルのママになってあげるから、これから思う存分甘えて欲しい」
「いや、だってアシュカは俺の妻でしょ?だから、母親は…」
「兼任してあげる」
「えぇ…」
「まかせて、愛しい我が子」
アシュカがハルの頬にキスをする。
ハルは困惑させられるだけ困惑すると、そろそろ、この部屋を出て行くことにした。
身支度を整えて、ハルがアシュカの部屋を後にする。
「一緒にこないの?」
「うん、何となくだけど、私は今日ハルと話して自分の立ち位置が分かった気がする」
アシュカはまだベットの上にいた。
「ハル、やっぱり、私や、エレメイ、ルナのような子たちと、ライキルたちは分けるべきだ」
「分ける…」
「あぁ、そこにはやっぱりどうしても明確に違いがある。そして、その壁は埋めるべきじゃないし、埋めたところで、ハル、あなたが不幸になるだけ、だから、境界線でも引いて区切るべきだ」
「でも、それだと…」
「きっと、ハルが目指しているみんな仲良しは無理だと思う。特にエレメイは私を絶対に許さないと思うし」
二人の間には深い因縁があった。それをハルもエレメイから聞かされていた。
「今度、アシュカの口からも聞かせてエレメイのこと」
「ハル、いいんだ。分かろうとしなくても、きっとその時、私は絶対的な悪で、エレメイたちが絶対的な正義の立場に立ってた。それでハルにも納得してもらえれば」
それではアシュカの印象はだいぶ悪くなることになるが、彼女はそれを否定せずに受け入れていた。
「アシュカはそれでいいの…」
弁明しない彼女にハルはそう尋ねた。
「いいよ、ハルが傍にいてくれって言ってくれたから、私はさっきのハルの言葉を信じさせてもらう」
アシュカはベットの上から、ハルに向かって微笑んでいた。
「そうか…」
実際のところハルは今のアシュカしか見ていない。そして、アシュカがどれだけ極悪人でも、ハルは彼女を愛さなくてはならない。
そう、すべては表側にいるライキルたちの安全のため、ハルは裏側の脅威となる芽は摘まなければならなかった。
これまでもそうしてきた。レイドのホーテン家のルナしかり、四大犯罪組織がひとつのバーストのエレメイしかり、そして、ドミナスのアシュカしかり、裏側の脅威となる者たちはすべて、手中に収めたといっても良かった。
ハルが裏側の人間を本気で愛するのはそういうところにも起因していた。
しかし、だからといって、ハルが与える愛が偽物というわけじゃない。
もしもそうなら、アシュカのことをここまで気に掛けない。真剣に向き合わない。裏側にいた彼女たちのことを真剣に愛するということは、表側の彼女たちを守ることに繋がる。たとえ、表側のライキルたちがハルに愛想を尽かしたとしても、ハルは手に入れた駒を手放すことはしない。
裏も表にも顔を持ったハルに、もう、どちらに傾くなどということはない。
きっと、境界線の上をこれから先ずっと歩いて行かなくはならない。
絶対的な正義と絶対的な悪の間を、バランスよく、休むことなく。
「ハル」
振り向くとベットにいたはずのアシュカが目の前に居た。
瞬間移動の魔法。本当に使い勝手がよさそうだと思った。
「また、私のところにも戻って来てくれるよね…?」
「もちろん、じゃあ、またね」
そういうと、ハルが背伸びをしてアシュカに口づけをした。
甘い挨拶をしたあとハルは真っ白い通路へと出ていった。