目を疑う
それはわずか数分ほどの出来事だった。エルノクスはまだそのありえない光景に目をしばたたかせていた。
空にあった四つの巨岩が瞬きをする暇も無く塵となったのだ。そこら辺の岩ではない、誰が放ったかは分からないが、エルノクスから見ても、王都シーウェーブの上空に突如出現したあの巨岩には何重にも強力な結界が張られていた。ここに集まっていたドミナスの魔法使いたちが結集してもびくともしない巨岩だ。それが四つもあったにもかからわず、まるで魔法のように、四つの巨岩はすべて遥か上空で塵となってしまった。
『この恐ろしさは形容しがたいな…』
まず、そもそも、人類の手に余るほどの異常な結界に守られた巨岩が、突如何の前触れもなく出現した時点で、エルノクスはこの場に何かとてつもなく恐ろしい人類の存亡を脅かす事態が起こってしまったと、確信していた。その異変はこのエルノクス率いるドミナスでも対処は絶望的で、あの巨岩はまさに人智を越えた一撃であった。さらに、それが四つも降って来たとなると、この街を捨てるという選択肢が一番無難だった。
しかし、そんな異常から、さも当たり前のように、生身一つで解決してしまった青年を、見て、エルノクスは、もう彼のことを言葉で言い表せない恐怖を覚えていた。これは今まで感じたことのない類の恐怖だった。
『今までいろいろと怖いものは見てきたが、これはもはや、我々には理解など到底及ばないものだ…』
エルノクスの周りでは、巨岩が破壊されたことで喜びの声を上げている者たちが大半で、さらに、驚きを固まっている者たちもいた。しかし、ここで一番正しい感情の抱き方は間違いなく、恐怖でなければならなかった。そうじゃなければ、あの青年がこの世の者であると認めているようなもので、エルノクスは自分が何かとんでもないものと関わってしまったと後悔するほど、巨岩を破壊した青年に完全に屈服してしまった。
『あぁ、なんで、龍の山脈が消滅した時点で気付かなかったんだ…彼は、人間でもバケモノでも、ましてや神でもない、神すら彼の前では塵あくたに過ぎないのかもしれない……』
エルノクスは四つの巨岩を破壊し終わり、空から降って来る青年に、怯えていた。
彼を出迎える歓声が聞こえている。
やめろと言いたかったが、言葉はでなかった。
祝福が周りを包む。
そんな中、エルノクスだけが、彼の正体を掴みかけていた。
『この世のものじゃない…彼は……』
身体の震えが止まらなかった。
エルノクスは歓声が上がる中、ひとり顔を下に向けていた。
*** *** ***
瓦礫広がる上に急遽設置された巨岩の対策本部に戻った。ハルはさっそくライキルたちにもみくちゃにされた。ライキル、ビナ、ガルナの三人に勢いよく飛びつかれた。
「おっと」
ライキルが正面から抱き着き、続いて負けじと側面からビナとガルナに拘束されるように抱き着かれた。
「無事でよかったです」
ライキルが言った。
「うん、ありがとう、だけどちょっと大げさすぎませんか?三人とも」
ハルがそう言うと、ビナが言った。
「それでも、こうして戻って来てくれることは私たちにとっては何よりも嬉しいんです」
「ハルはもうちょっと私たちの気持ちを考えるべきだぞ」
ガルナがハルの顔に頬をすり寄せながら言った。
大げさだと思ったが、これは間違いなくハルがここ最近みんなを置き去りにしている影響でもあった。
それはライキルだけじゃなく、ビナとガルナの二人も、全くふざけている様子が無く、本気で戻って来たハルのことを心配し、同時に喜んでいた。
『そうか、ずっと俺は彼女たちの気持ちを裏切り続けていたんだな…』
自分がどれだけ彼女たちの気持ちを考えてこなかったが身に染みた。
ハルは三人のことを強く抱きしめた。
たかが数分の出来事、しかし、三人からしたら、またハルがどこかに行ってしまう。何かに変わってしまう、そう言った恐怖があったのかもしれない。だから、何事もなく普通に戻って来ただけで、ここまで喜んでいた。それも怖いくらいに。だが、すべてはハルが蒔いていた種でもあった。
「ハルさん、お疲れさまでした」
「エルノクスさん」
エルノクスが、身動きの取れなくなったハルの元にわざわざやって来てくれた。
「見事なお手並みでした。私もまさかあの岩をおひとりで砕くとは思いませんでした」
「すみません、いろいろと準備してもらったのに、徒労に終わってしまって」
エルノクスが首を横に振った。
「人々の安全を考えれば、やり過ぎということはありません。ハルさんも我々も最善を尽くしたと言えるでしょう」
「そうですね…」
エルノクスがこちらをジッと見つめていた。超高身長である彼には見下ろされるという方が正しいが、何か圧のようなものがそこにはあった。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、すみません、あなたのどこからそんな力が出ているのかなと思いまして、なにせ、あの巨岩、並大抵のことでは砕けないものだと思っていたので…本当に砕いたところを見てふとそのような疑問が浮かんだ次第です」
力の源。その所在。ハルは自分の身体に他の人とは違う力が宿っていることは小さい頃から嫌というほど分かっていたし、悩まされてもいた。そして、その正体は今も分からなかった。ただ、自分の奥底には何かある。それだけは、今もはっきりと分かっていた。
しかし、それを言葉で表すことは難しかった。
「なんていうか、昔から力が強かったんです。だから、子供の頃は苦労もしました。怪力であるだけで、他の子とは違うので」
「しかし、あなたの力は何というか、本当にこの世のものなのでしょうか?」
エルノクスのその問いに頭を傾げた。
「それは、どういう意味ですか?」
「例えば、普通の人は拳で岩は砕けませんよね?」
怪力のドワーフなら…と、ハルは口を挟もうとしたが、今はそう言う話ではないということをしっかりと噛みしめて、軽く頷いた。あくまで純粋な人族であるハルを見て彼は言っているのだ。それはエルノクスも当然分かって言っている。
「そうですね」
「しかし、そこに魔法で強化した拳なら岩を砕けるかもしれません。そのように、本来なら普通の人の素は、とても非力で脆い存在なのです。しかし、ハルさん、あなたはあの岩を素手だけで砕いていた。魔力も消費せずに、ただ、膂力だけで、あの結界に包まれた巨岩を砕いた」
確かに素手で砕いた。他に特に力は使っていない。普通に殴って破壊した。
「ですが、天性魔法という手段もありますよね?俺が天性魔法を使って…」
天性魔法は魔力を使わない己が身体に宿る魔法だ。消費するのは体力のみ、これなら、岩を破壊できる者は他にもいると証明できるし、ハルだけが特別じゃないという説明もつく。
だが、しかし。
「使ったんですか?」
「いえ」
ハルの反論はあっけなく散った。別にだから何だとも思っていたが。
それでも、ハルは本当に素手だけであの巨岩を砕いていた。強く殴ったら案外脆かったので、普通にそのまま、殴りまくって粉々にした。それだけだった。しかし、エルノクスの目にはそれが異常に映ったようだった。その気持ちは分からなくもなかった。ただ、強いからという理由で今までみんな流して来たハルの力に、彼だけは流れに抗っていた。
「あなたのその素の力が、私にはとても不気味で、もっと現実的な言い方をすれば、あなたのような人間が存在しているのはおかしいと思ってしまうのです。なんというか、この世の法則を無視している気がしてならないのです…」
ハルはエルノクスの言葉に聞き入っていた。今まで考えたこともない視点で話してくれる彼にハルは少し興味が湧いていた。
『エルノクスさんの話は面白いな…』
「あの、エルノクスさん、良かったら、もっと一緒に…」
ハルがそこでもっとお話をしたいと言いかけた時だった。
「おい、おまえ、ハルをいじめるなよ!!」
ガルナが険悪な顔で、エルノクスに指をしていた。
「そうですよ、あなたなんて、私たちのハルに掛れば一撃です。マジで一撃ですよ!!」
ビナもチンピラのように抗議の拳を上げていた。
そして、最後にライキルが、ガルナの声を聞いて、振り向いてエルノクスを睨むと低い声で唸るように言葉を吐いた。
「ハルをいじめる?誰がぁ?」
ハルに寄生虫のようにしがみつく三人がエルノクスを睨んでいた。
エルノクスが苦笑いする。
ハルはため息をついた。
「みんな、エルノクスさんに失礼しないでくれません?せっかく、面白い話をしてたのに…」
そこでライキルが軽くジャンプするとハルの腰に足を回して張り付き、両手でハルの顔を捉え、強制的に自分と向かい合わせる。エルノクスとの間にライキルの顔が割り込んで来る。
ライキルの目が血走っていて怖かった。
「それならもっと私たちと楽しい話をしましょう、たとえばこういう話はどうですか?」
「!?」
そう言うとライキルがそのまま強引に唇を重ねてきた。そして、ハルの魂を吸いつくすようにその口づけは深かった。
「……待って、今、それは違うんじゃない…んん……」
それを見ていたビナとガルナもハルの顔に手を伸ばす。ハルは三人に襲われ地面に倒れ込むと後はもう手が付けられなくなり、なすがままにされていた。
エルノクスは、女性体に群がられている青年を見下ろしていた。そこに居るのはどこからどう見てもただの青年だった。それでも、あの得体の知れない巨岩を砕いたのもまた彼だった。まるで同一人物には見えなかった。
『やはり、距離を置いた方がいい、彼は危険すぎる…』
エルノクスは自分の目でハルを見て確信した。
『あの巨岩が地球の天災であるなら、ハル、彼はもはや宇宙だな…』
突如現れた巨岩が、なぜ脅威であるか?その仕組みを魔術的に分解していけばエルノクスでも理解できた。だがハル・シアード・レイという人物に関しては、なぜそうなるかが全く解明できなかった。彼の正体は目の前に居るにも関わらず真っ暗でエルノクスの心眼でも見抜くことができなかった。
ハル・シアード・レイ。
ドミナスという組織にとって完璧な不確定要素。
『殺すか…』
エルノクスの手に黒い刃が宿る。
その時だった。頭の中に直接響くように言葉がねじ込まれて来た。
『何してるんだ?我が王よ』
エルノクスの隣にはアシュカがいた。わずかながら良くない気を彼女は発していた。そんな気を彼女から向けられるのはエルノクスも初めてだった。
『驚いた、私を殺す気だったのか?』
『場合によってはそうした。ただ、あなたが人に殺意を向けるのも珍しいと思った。そこは私も驚いている』
『そうか、アシュカ、君は本当に彼の闇に呑まれてしまったんだね?』
エルノクスは少し残念そうにアシュカを見た。
『闇?どう考えても、ハルは光だ。私の闇を照らしてくれた。彼は私を母にし、そして、妻にした』
『君の闇は相当深かったんだね、気づいてあげられなくて悪かった』
エルノクスにとってアシュカも家族であり、自分の妹のように大切に思っていた。だからこそ、アシュカがこんなに彼という特異な存在に夢中になってしまい本当に残念に思っていた。
『いいんだ、ノクス、あなたには随分と世話になった、だけど、独り立ちするときが私にも来たんだ。だから、ノクス、ここは私に免じて、彼らを殺さないで欲しいお願いだ』
エルノクスは深く息を吸うと、手に宿そうとしていた黒い刃を消した。
『だったら、アシュカ、君が彼を支配するんだ』
『うん、支配したいだけど、あの輪の中に入って行く自信は少しないかな…』
アシュカが深いため息と共に目を閉じる。
『どうだろうな…案外、ほら、彼は、人間なのかもな……』
『ん?』
アシュカがゆっくりと目を開けると、彼女の前には、三人の女性を引きずるハルの姿があった。
「アシュカ、助けて…」
ハルが縋るようにアシュカの脚に抱き着く。
寄生虫のように群がっていた三人の女たちから、アシュカがハルを抱き上げて救出する。
「ありがとう、アシュカ、あの三人全然場をわきまえないから、さっき、脱がされそうになったし…」
ハルがアシュカの首に手を回して下を見下ろす。下ではアシュカの足元にゾンビのようにハルを求めて三人の女性たちが手を伸ばしていた。
「それじゃあ、今度は私とそういうことがしたいってことだね、よく分かった、それじゃあ、ベットに行こうか」
アシュカがハルを赤子のように抱いたまま、連れ去ろうとすると、足元にいたゾンビ娘たちが、彼女の脚を掴んで止めにかかっていた。
「待ってください、抜け駆けは許しませんよ」
「ライキル、君たちは今まで十分に彼を堪能してきたはずだ。だから今度は私の番だよ」
「嫌です、ハルはいつだって私のものなんですぅ!!」
「アハハハ、じゃあ、取り返してみな」
アシュカが、超高身長を生かしてハルを高く掲げていた。
三人が必死になって、ハルを奪い返そうと、飛んだり跳ねたりしていた。
その時のアシュカは、エルノクスも見たことも無いほど、愛に満ちた顔で笑っていた。それが、得体の知れない彼と、まわりの取り巻きたちがそうさせているとするなら、それはとてもエルノクスからしたら悔しいことではあった。だが、その笑顔はエルノクスが一生かけてもさせてあげられない顔だということも分かっていた。
『最初から、私じゃ、無理だったのかもな…』
エルノクスがひとり、ハルたちと戯れるアシュカを見守っていると、後ろからエルノクスにとっての絶対が現れる。
「あらあら、とても楽しそうですね」
「ああ、アシュカがあんなに楽しそうにしているところ、始めて見た」
「私は結構あの子のああいうところ、見てましたけど?」
得意げに言ったエンキウが笑顔を向けた。
「そっか、エンキウには心を開いていたということか…」
「いいえ、ノクス。アシュカはあなたにもちゃんと心を開いていましたよ」
「そうか?」
「そうよ、だって、今までこんなに長く私たちと一緒にいたじゃない、それが何よりの証拠だと思うんだけれど?違うかしら?」
エルノクスの頭の中でこれまでアシュカと共にいた時間が蘇る。そこにはちゃんと笑っているアシュカもいた。ただ、それはずっと昔のもので、最近は見れていないだけのことだった。
「ありがとう、エンキウ、君がいると大切なことを思い出せる」
「記憶は忘れても、無くならない、ちゃんとあなたのここにいつでもあるわ」
「ああ、そうだな…」
エルノクスが、エンキウを抱き寄せて口づけをした。短いがしっかりと愛が伝わる口づけだった。
「ところで、ノクス」
「なんだ?」
「あれって、さっきと同じ岩じゃないかしら?」
「え?」
エンキウが空を指さした。その方向にエルノクスが顔を向け、空を見上げた。
そこに映ってしまった光景に、エルノクスは目を疑った。
「あ、マズイ……」
空には巨岩があった。それもひとつや二つではない。十、二十どころではなく、百はゆうに超える数の巨岩で、それも直径数キロメートルはくだらない超大型の岩石。さらに当然のようにそのすべての巨岩は何重にも重ね掛けされた結界に守れていた。そして、最悪は重なる。先ほどの四つのゆっくりと降って来ていた巨岩よりも、何倍も速く、この地上に降り注ごうとしていた。スピードがあればあるほど地上で衝突した時の威力は計り知れない。これは王都シーウェーブの消滅どころでは済まない規模であり、イゼキア王国の一国、いや、レゾフロン大陸の西部消滅の危機といってもいいくらい、その降り注ぐ巨岩の数と規模はまさに異次元であった。
地上が巨岩の影で埋め尽くされる。
誰しもが歓喜から一転、絶望の底に叩き落された。
あまりの衝撃に誰も言葉が口から出てこなかった。
ただ、それでも、当たり前のように諦めない男がひとりいた。その男はアシュカの元から降りると、怯えていたライキルの頬に優しく触れた。
「ハル…」
「大丈夫だよ、何も心配しなくていい。ライキルはみんなとここにいて、あれは全部俺が砕いて来るから」
みんなが空を見上げて絶望する最中、彼だけがそうやって、愛する人を安心させていた。
「それじゃあ、行ってくる」
軽い口調と共に、再び禍々しい空へと飛んでいった。
エルノクスはそのハルの後姿を見て、今までの自分が彼に対して抱いていた恐怖が、畏敬へと変わっていることに気付いた。
まさにそれは誰もが認める英雄の後ろ姿だった。
「ハルさん、あなたはいったい…」
英雄が最初に降って来た岩を砕き塵にしていた。