婚儀乱戦 解放者
時間を稼ぐ間もなくルジャルカが飛ぶための力はすでに溜まっていた。何か、身体に不思議と力が湧いていた。まるで自分の身体が自分の者じゃないみたいに、体内に凄まじい活力が渦巻いていた。
別れの時。
ルジャルカの背に赤い翼が生える。
行かなければならない。別れの言葉は告げた。いつかまた会えるとも約束した。振り返ることはない。ただ、まっすぐ飛翔するだけでいい。自分がいた元の場所に、ただ思いを込めて飛び立てばいい。
ここは未来。
私のいるべき場所ではない。
帰る過去が私にはある。
「帰ろう、帰って…」
ハルに会えた。エレメイが生きていることも分かった。それが知れただけでもここに迷い込んだ意味はあった。
だけど、それ以上に、ここにアシュカがいること、それが何を意味するか、結果は見えていた。
だから、自分の運命も決まっていた。
それでも。
「戦おう」
元の世界に戻って自分にできることをしよう。例え自分の運命が決まっていたとしても、それはまだ運命の途中。その運命に到達するまで精一杯翔けよう。結末が決まっている物語の最後が悲劇だとしても、最後まで惨めに足掻こう。
絶望することなく、これは紛れもなく私の人生だったと、心の底から叫べるように、最後までやりきろう。
私は地面を蹴ると飛び立った。
黒い孤島には、ハルがひとり、四大神獣に囲まれていた。それにアシュカもいた。絶体絶命の状況。それでもなぜか、私の知っているハル・シアード・レイが負ける未来が見えなかった。圧倒的な何かがそこにはあった。
空へと舞い上がった。
直後、ハルが分かっていたかのように私を見上げた。
飛翔し空へと舞い上がる。
遠ざかって行く。
私が空へ飛んでも誰も何もしてこない。
不思議だった。
まるで時が止まったみたいに、私とハルだけが視線を合わせていた。
私は無邪気な笑顔で手を振った。
彼が寂しそうに笑った。
そして。
最後にハルは口を動かして私に伝えた。
音は聞こえなかった。
それでも彼が言いたかった言葉は確かに。
『さよなら』だった。
遠ざかって行く。
少しだけ不安になった。
彼が前を向く。
刀を構えて。
世界が彼を恐れる。
私だけが彼を見つめていた。
ほんの少しだけだけど、彼の本気を垣間見た。
『ハル・シアード・レイ、あなたは、やっぱり、レキの言った通り、最強なのね…』
ハルが振るった黒刀によるたった一度の斬撃。四方を囲っていた四体の巨大な神獣たちを寸分の狂いも無く同時に、その体を真っ二つにし、紅い海に沈めていた。
私の視界はそんな最強の背を最後に、真っ暗になった。
『さよなら、ハル』
*** *** ***
ルジャルカが飛んでいくのを見送ったハルは、黒い孤島にひとり立ち尽くしていた。
四方に現れた紅い四大神獣たちはすでに真っ二つに切り裂いて海に沈めた。きっと何度でも蘇って来るのだろうが、そんなこと、ハルがこれから始めることを考えたら、もう気にする必要もなかった。
しかし、アシュカは違うようだった。
「あ、ありえない…何をした!?」
「時間を止めて斬っただけだ」
正直に言った。
「嘘だ」
「本当だ」
ハルがやったことは単純だった。時を止めて、四方にいた神獣たちに向かって、黒刀で斬撃を放っただけだった。
「時を止めたら、私も気が付くはずだ。ここは私の世界。それに、時の魔法に関しても私は深く精通している。そんな私がこの状況下で時が止まったことに気づかないはずが無い」
彼女が時間を止められたことに気付けないのは、ハルが時間を重複して止めていたからでもあった。つまり彼女が認識できる時間停止の概念のさらに外側の時間まで止めていた。つまり彼女がこの世のルールに従っている以上、その二重の時間停止の仕組みを見破ることはなかった。埒外からの干渉による、不感知であった。
神性を得るにまで至っている今のハルに、時間を止めることなどいくらでもできた。この世のルールの内にあるものそれらにハルは外側から干渉していた。まさにそれは神にのみいや、この世の神にだって許されることのなかった禁忌であった。
「じゃあ、あんたは、ルジャルカよりも遅れてるんだな」
「なに?」
「彼女はもう行ったよ」
「はぁ!?」
アシュカが慌てた様子であたりを見渡すが、ルジャルカの姿はどこにもなかった。
「帰ったんだ。彼女は、元居た場所に…」
ルジャルカ。不思議な女性だった。彼女の時空を超えた移動もまたハルと似たような外側からの干渉を利用したものではあった。ただ、帰りはハルが与えた闇による補助があった。しかし、一度目、最初に彼女がハルの前に現れた時、そこにも同様の力があったはずなのだが、いったいどうやって時空を超える力を解き放つことができたのか?それはハルにも謎のままだった。
「私の世界で私の知らないことが次から次へと…」
そこでアシュカが頭を抱え思考を巡らせていた。
「それに、私がルジャルカよりも劣っていたと…」
納得がいかないようすだった。だが、彼女はすぐに何かに気付いたように目を見開いた。
「いや、待て、帰った……待てよ、そうか、あぁ、そうか!!この場所で、ルジャルカのやつ…」
アシュカがハルのことをまっすぐ見つめた。
「ハル、お前が……間違いない、そう言うことなら納得がいく、だから、あの時……」
必至に頭を使って彼女は状況の整理をして何かの答えにたどり着こうとしていた。
「いや、待てよ。それなら、あの時の、あれは何だったんだ?」
アシュカが頭を抱えて悩んでいる。何かの辻褄が合わないようだった。
しかし、その辻褄も未来が証明する。
「【神性解放】」
「え?」
思い悩んでいたアシュカが突然、耳に入って来た言葉に顔を上げた。
「今なんて…」
ハルは彼女を無視して続けた。
「光よ、ここに」
直後、灰色のハルの身体の中心から光が溢れた。その光は決して神聖で神々しいものではなかった。
目を通して見たそのハルから溢れ出す生き物のような白い光を、アシュカの頭は理解することを拒んでいた。存在を認めてはいけない光が自身の世界に溢れている。その危機感がアシュカを絶叫させていた。
「今すぐやつを殺せ!!!」
しかし、ハルの身体からはみるみる内にその光が溢れていく。
アシュカの命令で、紅い海から次々と甲冑を着た侍と呼ばれる刀を主軸に戦う、西洋の騎士たちが、黒い小島へと上陸してきた。
さらには四方の海からは、ハルが斬ったはずの四大神獣たちが、当然のように息を吹き返し、全力でハルのいる孤島に向かっていた。
侍たちがハルに斬りかかる。だが、振り上げた刀が振り下ろされる前に、溢れ出るまる出水のような白い光に触れると、意思を抜かれたようにその場に倒れ、元の紅い水になり消えて行った。
「ハル・シアード・レイ、貴様、私の中で何をする気だ!!!」
「この世界を終わらせる」
「そんなことできるか!!」
「大人しく滅びるか、さもなければ、私を外に出せ、そうすればこの光を世に放つこともない」
「ふざけるな…まだ、戦いは始まったばかりだぞ」
「私とお前で戦う必要は最初からなかった。それにお前程度では私と戦うにも値しない」
ハルの身体から絶え間なく光が溢れて広がり始めた。しかし、それもまだ序章のように、何かもっと良くないことがこれから起こると予感させていた。
「戦うに値しないだと、そんなのこれからやってみなきゃ分からないだろ」
ハルが首を横に振った。
「今ここから出せば、このお前の世界を消すこともないが、どうする?」
「私はこれでも世界を統べる組織の魔女だぞ」
「それがどうした、そんな肩書になんて意味は無い。早く決断するんだ…」
ハルがそこで動きを止めた。
「なんだ?あんたでも無理だと思うぞ…こいうやつは一度言い始めたら聞かないから………分かったよ、なら説得してみろ…」
その突然のやり取りにアシュカは違和感を覚えていた。
「いいですか、アシュカとやら、すぐに彼をこの世界から出すのです」
ハルがそう続けて言ったが、何か様子が変だった。
「なんだ?」
「この際に言っておきますが、ここで彼が神性解放しきれば、あなたの前には、ハルが現れることになります。それも、本物のハル・シアード・レイです。これは恐ろしいことなのですが、それを理解していますか?」
突然の丁寧な口調。それでも気にせずアシュカは自分の意思を告げた。
「私は、ハル・シアード・レイという存在がどういうものなのか、この目で確かめるために来た。それにお前さえいなければ、再び私たちの時代が戻って来る。我らが王がこの地に帰還し、再び我が王の時代がこの大陸に戻って来る!!戦う理由はいくらでもある」
「あなたは愚かですね」
「愚かはどちらか、今からそれを見せてやる!!!やれ、神獣ども!!!」
やがてアシュカが生み出した四大神獣たちが黒い孤島に到達すると、辺りはもっと凄まじい混沌に放り込まれた。
全身が紅く染まった百メートルを超える虎が、赤い雷を全身に纏って突進して来る。同じく積乱雲のように巨大な紅い龍が嵐を纏って突撃し、太陽のように大火を纏った紅い鳥が空から落ちて来る。最後に紅い大きな津波を率いて紅い巨大な蛇が突っ込んで来た。
孤島は四方向からの攻撃の着地点として壊滅的な破壊を受ける。雷撃に打たれ、嵐の風に斬り刻まれ、大火に焼かれ、最後は濁流によって孤島は完全に消滅した。
アシュカも侍たちもその衝撃で塵となり、紅い海に還った。
一時辺りは紅い海だけが広がる静寂に包まれた。
「………」
暗い空からひとりのエルフが降りて来た。
それは、もちろん、アシュカであった。彼女の命はこの世界ならいくらでも巡った。無限ではないにしても無限に等しい命が、ここで彼女に宿っていた。それはまさに神に等しい力であった。
「さすがに、まだ生きているか…」
そんな彼女が見下ろす先には、紅い荒波が治まった後、黒い孤島が顔を出し、そして、神すら恐れる化け物が佇んでいた。無傷のハルが孤島の真ん中で光を放ちながら、少し微笑んでいた。
そして、彼の周りには、突っ込んで行った四大神獣の死体が横たわっていた。
「傷一つないのか、化け物め……だがな…」
アシュカが紅い剣を取り出し追撃を掛けようとしたが、身体が動きを止めた。
「私たちは勘違いしていました。アシュカとやらよく聞きなさい」
白い光に包まれるハルが言った。声色がどことなく女性のようだった。
「なんだ、さっきから、何かおかしいぞ?女みたいな声?」
その違和感に答えを出したのは、紛れもなくハルからだった。
「ええ、我々は【神の意思】です」
「神の意思だと…そうか、なるほど、通りで一人と話している気がしなかったわけだ」
驚いてはいたが、アシュカは神の意思というものを最初から知っているようだった。
「すぐにハルをここから出しなさい、そうじゃなければ、彼は神性を解放しようとしています。そうすれば、あなたもただでは済まないでしょう」
アシュカが首を傾げた。
「神性の解放は、神の位を捨てる代わりに奇跡を得るだろ?」
奇跡とは、神からの贈り物であり、ありとあらゆる可能性を実現することができる。魔法を越えた力であり、一時的な世界改変能力でもあった。
「奇跡は、魔法超える超常現象だ。神性の解放はそんな奇跡を意図的に引き起こせる。だが、代償に使用者は必ず、神を降りることになる秘技だろ?」
つまり神性解放後、ハルは人に戻るということになる。
「その通りです。ですが…」
ハルの身体を借りた神の意思とやらが、その間違いを指摘する。
「神性という加護を捨てて枷が無くなったハルが、人の身に留まるこれはあってはならないことです」
「なぜだ?お前たちにとってもそれは喜ばしいことじゃないのか?この世を守るために存在するお前たちが、最も喜ぶ調和じゃないのか?」
「違います。あなたが言っていることは何もかも違います」
「なんだと」
アシュカが顔を歪める。
「彼に神性を解放させれば、本物の彼が出てくるということになります。素の彼がです」
「だから、それは弱体化に違いないだろ」
「逆なんですよ!!!」
神の意思がハルの身体を借りて叫んだ。
「なんだよ…」
アシュカはハルから発せられた神の意思の怒気に怯んでいた。しかし、それはハルから発せられた怒気でもあった。
「いいですか?神性というものは,あくまで人が神に値する力を手にした時に、暴走しないようにするための枷なのです。この枷が外れた時、人は神性を失い神へ至る道も失います。奇跡を手にすることはそうですが、そんなもの本当の神になればいくらでも起こせるものです。ですが、どうですか?彼から枷が外れれば、残っているのはハル・シアード・レイ本人だけです。彼の中に巡っている力はもはや我々神々のそれを軽く超えてその力の大きさを観測することすらできません。そんな莫大な力が世に解き放たれればどうなるか?あなたが創り出したこの世界ではとてもじゃないが、彼の力を抑え込むことはできないでしょう。ですから、今すぐ、彼の言うことを聞くのです。世界が終わる前に」
長ったらしい説教を、それでも確かにその神の意思が言っていることをアシュカは理解していた。
「要は、ハルを今すぐここから出さないと、世界が終わるって言ってるのか?おそらく、お前たちが言っていることならそれは本当なんだろう」
「あなたが聡い魔女で助かりました。では…」
「では、じゃねえ、それじゃあ私の渇きが治まらねえんだよ!!!」
アシュカが、紅い剣でハルを斬りつけようとしたが、すでにハルを包み込む白い光に阻まれてしまう。
「いいか、私は自分が納得しない以外には王の命令しか聞かない。神がなんだ?ハルがなんだ?それが私のこの渇いた戦闘意欲を抑える理由にはならない。それに、人間に身勝手に神性を与えるお前たちが私は気に喰わない。いい機会だ。お前たちもろともここで葬り去ってやる」
「なんて愚かな…あなたがこの世を終わらせるのですよ?」
「世界が終わったところで、私は私の望むものが手に入らないと気が済まないんだよ、人間だからな、私もお前たちとは違う。世界よりも大切なものがあるんだ」
そこでハルが一度肩を落としてうつむくと、まるで人格が変わったかのように、明るいハルが戻って来た。
「ほら、無理だっただろ?人ってそういうものなんだよ、結局はさ…」
神の意思がハルに語り掛ける。
『あなたはどうして、人間性を失っているのに、そうやって、平気でいられるのですか?』
神性を得たハルはすっかり人としての在り方を失っていた。それは神性を得た代償でもあったが、ハルは着実に人間性を取り戻しつつあった。それは何よりも大切な人達と過ごせたことが大きかった。
「平気じゃない。それはあんたらがやってくれたおかげですっかり人としての感性は失っている」
『ならなぜ?』
「だが、記憶はあった」
『記憶?』
「ああ、みんなの温かい記憶が心の無い私を支え続けてくれた。その記憶は再び私をハルにしようとした。ただ、それだけじゃない。ライキルが、エウスが、キャミルが、ガルナが、ビナが、ルナが、フレイが、他にも大勢の大切な人が、私の傍にいてくれた。だから、こうして俺はまたハル・シアード・レイになった。面白いことに、人の心が宿る場所って別に一つじゃないと思うんだ。それは身体にも宿るし、意思にも宿る。言葉にも仕草や行動にも、場所にだって、そして、もちろん、記憶にだって、この世に存在していた痕跡が、俺をいくらでもハルにしてくれた。みんなを思い出して戻って来れた。だから、あんたらが俺の心を殺しても、操ろうとしても、俺は何度だって戻って来れる」
『すべてを失ってもそう言えるか?』
「ああ、たぶんな。記憶や心を奪われたとしても、俺はまた俺でいられるって自信がある。みんなのところに帰れるって絶対的な自信がだ。それほど、俺がこの世に生まれて得たみんなからの愛は大きく、俺が求めるものだった。愛する人達の為なら俺は、どんな時だってハル・シアード・レイでいられる」
神性を得たところで、所詮は人間であるということだった。人は成長する。生まれて死ぬまで一生成長し変化し続ける。失ったものが一生戻ってこないなんて、そんな絶対などもない。人の前には必ず可能性があった。人が前に進むための可能性が無限に広がっていた。だから、愛する人達が幸せになるための未来へと続く可能性をハルはいつだって選んで来た。たとえ世界に否定されようと、愛する人たちの為ならハルは光にでも闇にでもなってきた。
「さっきから何を独りでしゃべっている、神の意思よ!」
紅い剣で光の壁を切り裂き、必死に近づこうとしているアシュカに、ハルは優しい笑顔で微笑んだ。
「今はハルだ。遅くなって悪かった。アシュカさん、今、終わらせる」
『後悔しますよ、ハル・シアード・レイ。もしも、あなたのその内に眠る力を解き放てば、あなたですら制御は不可能なのです。そうなればすべてを失うことになるんですよ?あなたの愛した人たちもすべて』
「それはどうかな?」
『これは我々神の意思からの最終通告でもあるのですよ!!?』
ハルの内側にいる神の意思。そんな彼らとも別れの時が来た。ずっと内側に抑え込んでいたから彼らが表に出る機会は全くと言っていいほどなかったが、やはり、それでもハルを少しは支えてくれた存在でもあった。
「神様は人が持つ可能性を否定しすぎだ。少しは信じるということを覚えた方がいい。それに俺はこの自分の内にある力のことをずっと考えていた。結局、これが何なのかは分からなかったけど、多分、みんなを守るためにあったんだと俺は思ってる…」
ハルの灰色の肌がみるみる剥がれ、その内側から陶器のように美しい白い光を放つ肌が姿を見せる。それはまるで、星であった。夜天の闇をどこまでも照らす星の光であった。
「俺は皆を守るためならどこまでも強くなりたい、たとえ、あなた方、神を敵に回してもね」
『あなたもまた愚かということですか…』
「さて、どうだろう、きっと、それも見方による。生きるってことはそう単純なことじゃないから…」
この世に生を受けて悪にでも善にでもなれる。ただ、そこには各々の正義があって、叶えてい願いよりも、起こって欲しくない悲劇を防ぐためには、想像を絶する努力が必要で、ハルはずっとそのことだけを考えて生きていた。愛の奴隷。それでも良かった、ハルは愛する人達のために犠牲になるならどんな未来だって選択した。
「俺は、その答えを見に行くよ」
これもその一つだった。
ハルの放つ光が一気に強まった。すると、その光はアシュカの世界にみるみるうちに広がって行った。
「なんだ、これは、私の世界が…」
暗い空が白い光に焼かれ永遠の夜に夜明けが訪れる。紅い海が引いて行き、渇いた紅い大地が姿を現す。そして、ハルを中心に広がる光が何もかもを飲み込んでいく。
「答えろ、ハル。私の中でお前は何をしようとしてる?」
「ここから出る。それだけだ。そのためには君を殺さなくちゃいけない」
「私は死ぬのか?」
「君が言ったんだ。ここから出るには私を殺せって、それに君はここで死ぬんだろ?それも君が言ったことだ」
「そう、私はここで死ぬんだって、知ってたんだ。本来ならこの選択はしなかった。だけど、ずっと渇いていた私の心をお前なら満たしてくれると思って、それが……」
「こんなはずじゃなかった?」
「ああ、もっと満足して死ねるかと思ったんだ。だって、こんな結末あっけなさすぎる。それに私はまだ渇いている…」
「満足する死なんてない。死ぬときはみんな少なからず必ず後悔が残る。だけどそれはあなたが人である証でもある。だけどあなたは渇いたままここで死ぬ。外でどうなるかは分からないけど、あなたはここでは必ず死ぬ。それは避けられないことだ」
アシュカの身体の内側からも白い光が放たれる。そして、彼女の身体がみるみる崩壊していく。彼女はハルに未練がましく手を伸ばしていた。
「こんなの私は認めないぞ、ハル!!!絶対にお前とは決着をつけてやる。それが私の渇きを潤す唯一の手段なんだ!それをこんなつまらない決着で…」
白い光がアシュカを飲み込んでいく。それはハルの白い光が彼女の世界に広がれば広がるほど、ハルの前にいたアシュカからも光が放たれていた。迫るアシュカが倒れるところをハルは両手で支えた。すでに彼女は白い光に蝕まれて抵抗する力を持ち合わせていなかった。彼女の世界が無に還り始める。
「やめろ、これ以上はやめろ…やめてくれ……」
白い光に呑まれるアシュカが嘆いた。すでに彼女の言うつまらない決着が着いてしまったことに、気づいたようだった。すでに勝敗は決し、今はそれ以上に重要なことが始まっていた。
「もう、遅いよ」
「嫌だ、死にたくない、嫌だぁ!!死にたくないよ!!!」
「死もまた、人の生だと思う」
「嫌だ、死にたくない。誰か、助けてくれ、私はまだ生きていたい…」
アシュカがハルに縋りつくように抱き着いた。もはや、彼女は変化を怯える子供のようだった。
「死にたくないよ…」
「………」
ハルは静かに彼女のことを抱きしめた。そこで彼女の動きが止まった。愛だけがあった。生まれる直前には愛しかない。だから、今のハルはアシュカのことも愛してやれた。
自分が生まれ変わるそんな気がした。ここで自分は生まれ変わるのだと、そんな予感があった。それはさらなる飛躍であるとともに、完全無欠な自分でもある気がした。この世のどんな悪意をも退ける万能。神なんて、程度の知れた存在でもない。もっと何かもっと外側に目を向けられた絶対的な存在で、この世にはない隔絶された域外の力。それが自分の内側にはあって、それを放つことは、世界の終焉を意味していた。
「始めよう」
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
アシュカの世界が白い光に包まれた。
*** *** ***
この渇きを満たしてくれるのは誰なのか?
何もかもが真っ白に染まった世界で、アシュカはただそう思った。
身体は宙に浮いているのか、落下しているのか、右も左も上も下も分からなくなった世界で、ひたすらに追い求めるのは心の潤いだった。
思えば、ここに至るまで、さまざまなことがあった。
この世に生まれ落ちてから、私は愛されたことがなかった。生まれ持ったこの紅があったせいで自分は周りとは違うんだと忌み嫌われ、村からも忌み子として追い出された。そうやって、いろいろな場所を転々としながら生きていた私の止まり木になったのは、王に会った時だった。それは今でも忘れない。彼が私に道を切り拓いてくれた。そこで私は魔女になって、孤独だった私はずいぶんと繋がりを持つことができた。傍にはいつも仲間や部下がいるようになり、私は一人ではなくななった。だが、それでも、私の渇きが癒えることはなかった。どこまで人々と関わっても最終的にはみんな私より先に死んでしまった。王や、エンキウ、ドロシーなんかはずっと変わらず傍にいてくれたが、それでも彼らでは満たせない渇きがアシュカにはあった。
それが、愛だった。
王にはエンキウがいた。二人の間に入ろうとはとてもじゃないが思えない。何人か生涯を共にできそうなパートナーもいた。けれど、みんな先に死んでしまう。そうやって、大切な人々が死んで逝く中で私の心は酷く渇いていった。そして、そんな渇きを一時でも満たしてくれるのが殺し合いでもあった。それをしている間は自分の渇きを忘れることができた。返り血を浴びている時、断末魔を聞いている時、敵の悲愴な顔を見ている時、自分は満たされていると自覚することができた。
しかし、それも一時のものでしかないということは十分わかっていた。私は歳を重ねるごとにすり減っていた。そして、いつしか死に場所を求めるようにもなっていた。それでも死ねなかった。ここに来るまで最後に死闘を繰り広げたのはやはりルジャルカで最後だった。大きな深手を負ったが、それでも、永い眠りから目覚めると、やはりそこにはいつもと変わらない退屈で渇き切った自分の世界が広がっていた。
けれど、今日、ここで私はついに私を殺してくれる人に出会った。
ハル・シアード・レイ。
彼と対峙した時、身体が恐怖と興奮で震えていたのを自覚した。それは初めての圧倒的な格上だった。
この人なら私の渇きを満たしてくれる。そんな気がした。しかし、結果はあっけなかった。死力を尽くす前に、終わってしまった。
『苦しい…』
渇いた心が私を蝕み続ける。
『もう、死ねるのかな…』
この渇きから来る苦しみが止むことを願っていた。
だけど、それが死ではないことをアシュカは知ることになる。
「アシュカ」
名前を呼ばれた。
そこには真っ白な人がアシュカの傍に佇んでいた。
その人は何もかも真っ白で純粋で厳かで近寄りがたい神々しさがあって、常に光を放ち輝いていた。優しい眼差しでじっとこちらを見つめていた。
「あなたは…?」
「ハルだ」
「ハル?でも、そうは見えないな、なんか神様みたいに見えるんだけど…」
「見た目だけなら、そうかもね」
彼のその発言にどういう意味があるのかは分からなかったが、とにかく、彼は人ならざるものへと変貌していた。言い表すなら彼は純白の神であった。
「お礼を言いたかった」
「お礼?」
「俺はあなたの世界を破壊して生まれ変わることができた」
「生まれ変わる?」
「そう、俺はようやくこれでみんなを守り抜くことができるようになれるんだと思う」
「そう、それは良かったわね…」
もう、終わってしまった自分に、これからのことなんてどうでもよかった。
「あなたのことも救ってあげる。一緒に出口まで行こう」
ハルがアシュカの手を握った。
「待て、私はあなたの敵なんだ。私を連れて行けば、必ずまた、ハル、あなたを殺しにいく、それを分かっているのか?」
「…なんでそうなる?」
「私の渇きは、あなたを殺すか、殺されるかでしか満たされることはない。だから、私を外の世界に連れて行けば必ずまたあなたと殺し合いをする。それに今度は本気の殺し合いだ。そのためなら、私はあなたの大切な人たちを辱め、皆殺しにし、あなたの怒りを買うようなことだってする。今度の私は生ぬるいことなんて絶対にしない。大切な人たちを失った怒り狂ったあなたと、私は自分の渇きを満たすために……」
「もういいよ、そんな言い訳は…」
ハルが彼女の言葉を遮って言った。
「言い訳だと」
「さっきまでは死にたくないと叫んでたあんたが、生きたくない理由を並べるほど無意味なことはない。それにたぶん、あんたのその渇きは殺し合いでは決して満たされない」
「じゃあ、何が……何が、私を満たすというんだ?」
「そんなの本当は自分でもわかってんだろ?」
その時ハルが、アシュカのことを力強く抱きしめた。
「愛だ」
「愛…」
抱きしめられたアシュカが最初に抱いたのは、優しさや温かさではなく、恐れだった。触れてはいけないものに触れている気がした。
「戻ったら誰かを心から愛してやれ、それも生涯をかけてあんたが愛せる人をだ。それでお前は渇くことなく死ぬまで潤い、幸せになれる」
「そんなバカなこと…」
「バカでいい、深く考えるな、それが愛だ。愛にもいろいろあるが、お前の人生をお前の望む愛で満たしてやればいい」
最初に頭に浮かんだのは王のことだったが、なぜかすぐに頭の隅に追いやられてしまった。
「無理だ、私にはできない…」
「できる」
「できない…」
「できるんだよ」
ハルがアシュカを身体から離すと彼女の目をまっすぐ見据えた。アシュカもハルの目を見た。真っ白なおよそ人ではなくなった目だ。それでもその目はとても深い慈愛で満ちていた。
「誰であろうと愛は最初からみんな持ってる。ただ、自分を愛してもらうとすることをみんな怖がってるだけなんだ。自分の持っている愛をさらけ出すのが怖いだけなんだ。でも、大丈夫、そんな怖がる自分を愛してくれる人はこの広い世界に必ずいる」
アシュカの目にはもうその時から、ハルしか映っていなかった。
「広すぎるこの世界で、アシュカ、きみを選ぶ人は必ずいる。だから、安心してこれからの世界で自分の愛を探せ、困ったら俺のところに来い、その時は相談に乗ってやるよ」
アシュカは、ただただ、ハルから目を離せずにいた。
やがて、アシュカの世界が音を立てて崩れ始めた。
「時間だ。ほら、一緒に行くぞ」
ハルは彼女に手を差し伸べる。
取るかとらないかは彼女次第だった。
「私…」
アシュカがうつむきながらハルの手を取った。
「よし、いい子だ」
「私、たぶん…」
アシュカが顔を上げて、ハルに何かを告げようとした時だった。
ハルがアシュカを抱きかかえると、一気に飛翔した。
その速さは本来なら人間が体感できない速度であったが、ハルと共にいたアシュカがバラバラになることもなかった。
世界が白い光に包まれて消滅する前に、ハルとアシュカの二人はこの崩壊する紅い世界から離脱した。
目が覚めるまでアシュカはずっと、その純白の神のことだけを考え続けていた。
目を開けたとき、どんな自分がいるのか、アシュカは心躍った。
『そうか、これが…』
アシュカは満ちた心で深い眠りに落ちていった。
そして、意識が覚醒するとき、世界には…。
埒外の神が降臨していた。