闇の片鱗 後編
真夜中。
ルナが眠った後、フレイはハルと屋敷の前で落ち合った。
夜に見る彼はどこか昼間に見る彼とは違って見えた。夜を全身にくまなく注ぎ込まれたような闇と一体化した真っ黒な黒衣姿の彼がどこか人間離れした存在に見えて仕方がなかった。それは暗闇の奥に潜む未知のように、人々が炎を求め逃げまどった原始的な恐怖そのものといった具合に、彼が存在していること自体がまるで禁忌であると決めつけた方が世界の為なのではないかと、思考が勝手に飛躍していくことをフレイの中で止めることができなかった。しかし、それも彼の人間らしい声で霧散していくことになる。
「それじゃあ、行こうか」
「行こうってこんな時間にどこに行くんですか?」
まさか開き直って密会していた女たちに自分を会わせる気なのか?なんのために?しかし、まだ彼が夜遊びをしていると決まったわけでもなく、むしろそれどころか、そんなふしだらな雰囲気とは程遠い、今宵の夜と一緒の重たさがあった。
「場所は着けばわかると思うけど、それより心の準備はいい?」
「何がですか?」
瞬き一回だった。
瞬き一回する間に、フレイの視界には満天の星空と、下には深い闇と真っ白な地面が広がっていた。
「は?」
何が起きたかなど理解するまでもなく頬に吹き付けた冷たい風が痛かった。
気が付けばフレイは周りを山脈に囲まれた山頂にハルに抱きかかえられていた。
「い、意味が分からないです」
「分からなくていいよ、ただ、見ていて欲しいんだ。フレイには知っておいて欲しい…」
彼が何を言っているのか分からなかったが、とにかく、ひとつ分かったことはこれが夢ではないということだけだった。
「少し寒かったかな?俺の上着貸すね」
ハルが黒衣を脱いでフレイに纏わせる。
「あ、あの、ここどこですか?それにさっきまで私たち屋敷の前にいましたよね?」
戸惑いを隠せないフレイが落ちないようにハルの身体にしがみつく、一歩踏み外せば山の麓まで真っ逆さまの断崖絶壁で、その下では大きな闇が口明けてまるで足を踏み外し転落するのを待っているようだった。
「ここはスターダスト山脈の中央部らへんかな、それも山道から外れた山だから人が来ることもない、いるとすればそれはインフェルの山岳部隊か、それかなんだろうね?」
ぞっとした背筋を震わせてフレイはこの混沌とした状況の中、ひたすらに冷静でいる彼のことが異常すぎて、理解が追い付かずにいた。
「フレイにはこれから見せたいものがあるんだけどいいかな?」
ここまで来るともはや彼の意見に従うしか先が無いと思った。それもこれもフレイの眼下に広がる無限の闇から吹き上げて来る強風だけで、脚がすくんでしまいそうだったからだ。きっと飛行魔法が使えたとしても底なしの闇の上を飛ぶのは怖いという錯覚すらあった。下から何か這い上がってくるかもしれないという未知の部分が呼び起こす恐怖、そんな妄想に思考を支配されてしまうほどの自分の存在のちっぽけさに、たじたじになるばかりであった。
フレイは彼の問いに無言で首を縦に頷いた。
「よし、じゃあ、少しまた移動するから抱きかかえてもいいかな?」
こんな危機的な状況もはや頼れる存在は彼しかいなかった。フレイがハルに抱きかかえられると、自然と絶大な安心感を覚えることができた。だが、それとは反対で、信じられないことに彼はそのまま、山頂から闇が広がる闇を超えるように地面を蹴って飛んでしまった。
「…………!?」
声にならない悲鳴と最悪の浮遊感に晒されたフレイは彼に抱き着くようにしがみつくしかなかった。移動が始まってから、凄まじい勢いで風を切っているのが分かったがもう目を瞑っていたフレイには落ちているのか上がっているのか、それはもうハルに委ねられていた。
しばらくそんな急上昇急降下が続いていたが、だんだんとスピードが落ちて来ると、ある地点でピタリと止まり、フレイもようやく目を開けることができた。
「着いたよ、ここが多分一番見やすいかな」
フレイが目を開けると、さっきまでいた山頂と景色が変わっていたが、そこは相変わらず山の中で冬支度をした岩肌むき出しの山々が連なっては雪に覆われていた。
そこもかなり見晴らしが良く、白い息を吐きながら、空を見上げればそこには満天の星空が美しく夜空に宝石箱の中のようにキラキラ輝いていた。
「綺麗…」
思わずそんな感想が出てしまうほど、絶景だった。
しかし、そんな夢見る少女のような気持ちでいられるのもわずかな間だった。その星々が突然黒く塗りつぶされたかのように姿を消し去り続けていた。
何が起こっているのか理解するよりも、ハルが言った。
「あそこに砦があるの分かる?」
ハルに指さされた視線の先に、確かにぽつぽつと明かりが灯っており砦らしきものが見て取れた。
「見えます。見えますけど、なんでこんな山奥に、あんな立派な砦が?」
「不思議だよね、だけどさ、まあいろいろ置いといて、フレイならあの砦どう攻略する?」
「攻略ですか?」
「そう、どうすればあの砦を攻め落とせる?フレイが司令官でホーテン家の部隊を指揮するとしたら、どうする?」
「えっと…」
色々なことが重なって混乱中のフレイだったが、それでも急に出された問題にもしっかりと優秀な兵士らしく思考を巡らせることができた。
こんな山奥に何百と人を収容しておけるほどの巨大な砦を築くのはまず魔法の力を借りなければ難しい荒業だった。しかし、たとえ魔法で創られていたとしても、かなり堅牢な造りで手は抜かれておらず、その砦の特殊な立地も相まって難攻不落にみえフレイの思考をかき乱した。
まず、その砦は崖に囲まれており、なおかつ砦の入り口の門までは、細く幅の狭い一本道しかなく、大勢で攻めることは不可能であり、なおかつ高い壁が砦を囲んでいることから周囲からの侵入も絶望的であった。
『待てよ、それなら空からならどうだろうか……』
見たところ空からの侵入は容易そうだったがたいてい、こういった弱点が少ない砦は、唯一の弱点に対して対策をくまなく施していることが多かった。よって、対空用の魔法などで空からの侵入は対策済みなのだろう。
そう考えると、フレイが作戦を立てるとすれば、一点突破これしかなかった。
「私なら、まずあの門まで張り付けるようになるまで、人員を投入し続けますね。防御魔法を展開しながらあの細い道を進んでいればいつかはあの砦に張り付くことができるはずですから」
「砦に張り付けた後はどうするの?門は開いてないよ?」
「それなら、事前に砦の中の者を買収しておくか、変装させた仲間を忍ばせておくかして、内から門を開城させますね」
「そうか、なるほど、だけどまずその門まで近づくためには多大な犠牲を払いそうだね」
砦に向かうまでの一本道どうあがいても遠距離魔法などの的でしかなく、彼の意見にはフレイも頭を悩ませるしかなかった。そして、この大きな砦を落とすのにはそれ相応の犠牲は覚悟のうえで戦を仕掛けなければ、何も始められないことは誰が見ても明らかだった。しかし、それでも当然いくつか選択肢はあった。
「奇襲を仕掛けます。見張り達の対応にも限界があると思うので、その奇襲が上手くいけば門にはそれなりの犠牲で到達できると思います」
不意打ちならば相手が態勢を立て直す前に砦の門に取り付くことくらいはできると確信していた。
ホーテン家の部隊にはそれを可能にする実力者集団が勢揃いしていた。奇襲を仕掛けるなら血気盛んなブレイド部隊が、作戦前の事前準備をするならインフェル部隊のような便利屋が、魔法の補助が必要ならば魔法のプロフェッショナルが揃う暗月が、それぞれ役割をこなせば、この砦を落とすことは容易だった。
そしてなにより、そこにルナ・ホーテン・イグニカというホーテン家きっての殺戮者がいれば、どんな砦も怖くはなかった。
「じゃあ、もうひとつ例えばあの砦の中に入った途端魔法が使えなくなるとしたら?」
「え…」
「だけど敵は当然のように魔法を使ってくる」
「それは…」
魔法が使えなければ戦力は半分以下に落ち込む。
そのような条件を付与されると、いくらホーテン家のメンバーだったとしても骨が折れることは間違いなかった。
新たな問題に頭を悩ませた。
「そうなったらあの規模の砦を攻め落とすのは困難になるとおもいます。戦闘を仕掛けるだけこっちの被害が広がりそうです…」
フレイの答えは諦めるという選択だった。相手だけ魔法を使える状況などまず戦いにすらならない。そうなった場合簡単な炎魔法でも、脅威になってしまう。
「だけどそれはありえないです。そんな状況を創り出すのは無理だと思います。まだ、双方魔法が使えなくなるならわかりますが、特定の人たちだけ魔法が使えるなんて……たとえばですが、もちろん結界に魔法を付与して使えばそれっぽいことはできるかもしれません。ですが、それにはかなり高度な魔術的技術が必要で、それにこんな大きな砦を覆うとなると、一体どれほどの魔導士を動員しなくちゃいけないか、もしかしたら、百、いや千でも足りないかもしれません…」
魔法を使用する際の元となるマナという存在。
そのマナがある場所では、空気の様にそこら中にマナが満ちて魔法が使えたが、マナが無い場所では一切マナを用いた魔法を使うことができなかった。
魔法の中でも、マナを完全に遮断する結界などのようなものも存在するが、それでも特定の人間だけ魔法を使えるようにするという効果は極めて異例中の異例であった。
まだ魔獣など神獣のような体内にマナをため込む【魔蔵】を持っている存在なら、それに似たような状況を創り出すことはできたが、人間のような魔蔵も持たない魔法的には弱者がそう簡単になせる現象ではなかった。
「そうだね、だけどあの砦内では実際に魔法が使えない人間を選べるとしたら?フレイはどうする?」
少し悩んだすえフレイの答えはやはり変わらなかった。
「無理ですね、撤退です。こっちだけ魔法が使えないとなると、戦うだけ無駄ですから…外に出てくるのを待ちますね」
それ以外選択肢がなかった。籠城されるなら食料が尽きるのを待つだけで問題なかった。
「それも一つの案だね。だけど、こんな砦がまだまだ十、二十とたくさんあって、レイドに対して敵意を持っていたらどうかな?」
フレイは少しだけ不安になっていた。何か彼とのこのやり取りに不安を感じていた。
「ハルさん、これはあくまで想像の話ですよね?」
「………」
彼はその問いかけに何も答えずに、こちら側の答えを待っていた。
「そうなったら、レイドからしたら脅威以外のなにものでもないですよ、というかもしそれが本当だったら、一個一個潰して行かなくちゃいけないですし、そのたびに多大な犠牲が出ていたら、こっちはやってられないですよ……」
ただの仮定の話だと信じて、フレイは冗談めいて言った。
「そう、その通りこんなリスクしかない砦に誰も足を踏み入れたくなんかない、それに砦にいるのはタダの人間たちじゃない。彼等は他の地域で犯罪を重ねて来た悪人たちだ。どいつもこいつも根絶やしにしなくちゃ、悪の華を咲かせる粗悪な種ばかり…」
ハルの顔からどんどん優しさが消えて凍り付いて行くように、鋭さが増していく。
「フレイもそんなクズたちのために、ルナのような優しい女の子に武器を持たせたくはないでしょ?」
「ええ、もちろん……」
次第に目の前の彼のことがよく分からなくなっていた。砦に灯るか弱い炎をまっすぐ見つめて、フレイはそんな彼の横顔に恐れを抱いてしまっていた。
そして、気が付けば辺りは深い闇に覆われて、空は輝きを失っていた。
「やっぱり、フレイなら分かってくれると思ったんだ。だってフレイも俺と一緒でルナのことが好きなんだもんね」
今に思えばフレイは今まで見落としていたのかもしれない。しかし、それは誰しもがそうだった。
「だからもう血を見るのは俺だけでいい」
空の闇が蠢き、風が止んだ。
「愛する人にはさ、どこまでも幸せになって欲しいんだ…」
彼が右手を前に掲げ、手のひらを上に向けると、その手のひらから無数の黒い脂肪のようなドロドロとした肉が溢れ出した。
「何をしてるんですか…」
こわばらせた口元でなんとか声を絞り出した。だがその問いに彼はただ笑顔でひとこと告げるだけだった。
「見てて」
黒い脂肪がどんどんと溢れてやがて彼の姿を覆うほど大きく成長し一度肉団子のように歪な肉の塊が出来上がると、そこから、その闇の塊は徐々にぬらぬらと膨れ上がっていき、人の形を取り始めた。さらにその体の至るところから無数の黒い触手が生え、その先が割け無数の牙が生え並ぶと、獲物に飢えたかのようによだれを垂らしながら辺りをなめまわすようにくねり気配を探り始めた。
肉体の方はさらに成長を続け、人の形がはっきりしてくると、それはまるでうずくまった胎児のようだった。
だが、その胎児には無数の触手が生えては蠢いており、それはもはや見ているだけで吐き気を催す光景で、それはどこか生命に対する冒涜を体現しているようにさえ見え、さらにその胎児の右腕だけが急速に発達していき剛腕となったが、左腕が全く成長を見せず触手たちによって隠されてしまうと生命の不平等さを体現しているような気さえした。
やがてゆっくりと発達した筋肉質の両脚を開いて立ち、身体を前かがみに倒しアンバランスな右腕を前に出してその巨人は自身の体を三点で支え、這いつくばったような姿勢を取った。
その直後のことだった。
その化け物は闇の夜空に咆哮していた。
ごぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。
フレイは目の前で起きた光景を受け入れられずにいた。
「………」
その咆哮はもはや生命の防衛本能が正常に機能しないほどの恐怖が詰まっており、フレイの身体は震えることすらやめて、ただ呼吸をし、その化け物が次に何をするか見届けることしかできなくなっていた。
化け物が一度咆哮し終わると、その胴体をフレイの方に向けた。
するとそこで目の当たりにした姿にフレイはさらなる衝撃を受けた。
首が無い。
その人型の化け物に本来ならばついているであろう頭の部分が、その化け物には備わっていなかった。かわりに首の付け根にあったのは禍々しい大きな口だった。ぬらぬらとした液体が口の中に分泌されては唾液の様で、口の中には鋭く細かい牙が生え揃い、一度噛まれればぐちゃぐちゃの肉塊になることは必須だった。そんな大口がフレイに向かってにやりと口角をあげて笑って見せたが、そんな笑顔は邪悪以外のなにものでもなく、フレイの頭の中を恐怖で埋め尽くすのに苦労しなかった。
しかし、恐怖以前にもはや死すらも忘れてしまうほどのその目の前に現れた災いに、言語も知性も忘れてただ崇めたて祭ることだけがこの場で自分ができる最善だと気狂いするほどの狂気的な光景だった。
「…あ、ああ、ああああ!!!」
狂ったように叫ぶとフレイはただひたすらにその場にひれ伏した。
何をどうすれば人はこのような極致に辿り着けるのか?
いや、違う、どのような罪を背負えば人はこのような呪われた姿を体現できるのか?
フレイは地面に頭を擦りつけながら考えて、考えて、考え抜いたが答えは出てこなかった。
『私は間違っていた。多分、彼は人間じゃない、そうだ、そうだよ、なんで気付かなかった?なんかよくわかんないけど、私は神様のボディーガードをしてたんだ。なんじゃそりゃ?マジでダメだ。薬入れた時よりも比べ物にならないくらい、い、いってるよぉ!!』
「…フフフッ」
頭もおかしくなってしまったフレイの口元からは小さな含み笑いが聞こえてきていたが、
だが、その時、フレイの頭を何かが当たっていた。
顔を上げると、それは一本の黒い触手だった。
その触手はフレイに噛みつくこともなくただ、ひたすらに彼女の頭を優しく撫でていた。
「…………」
フレイはその触手を手に取った。
その触手は彼女に触れられると気持ち悪く動くことも噛みつくことも無くただジッとしていた。
その時、フレイは確かにその触手を通じて、ハルという人間を感じ取ることができた。
「ハルさん…」
その触手がさらに伸びてフレイの頬を軽く「大丈夫だよ」と言わんばかりに優しく撫でた後、するするとフレイの元から離れて、主である化け物の元へと引き下がっていった。
その優しさにフレイは思った。
彼は変らずそこに居ると。
「化け物じゃない…あなたは……」
フレイが駆け寄ろうとした時だった。
遠くの砦から大量の光球が打ち上げられ、星一つ無い夜空が昼間のように照らし出されると、化け物の姿が酷く目立った。
それを見た砦の番兵が、けたたましい鐘の音をあたりに響きわたらせた。多くの人影が慌てた様子で砦の建物から出てくるのが見て取れた。
夜を焼き尽くす炎があった。砦の方向から大量の炎魔法による大火球が大量に飛んで来ていた。
そして、そのひとつがフレイと化け物にも直撃する勢いで飛んで来ていた。
化け物はすぐさま、フレイの前に立つとその炎を身を挺して盾となった。
「ハルさん!!!」
その首なしの化け物はフレイに背を向けると、燃えさかる身体のまま、迫りくる大量の炎の火球たちを右手の一振りで鎮火させた。
そして、その右手の一振りの余波は留まることを知らず、そのまま砦の半分を削るほどの威力となって牙を剥いた。
たった一度空間を振るった拳が、巨大な円状の砦の敷地の半分を根こそぎ削り取ってしまったのだから、その後どうなったかというと、砦からは緊急の鐘の音から一変して、一瞬の静寂が訪れたかと思うと、すぐさま砦周辺は悲痛な悲鳴で満たされていた。
やがて、フレイがその神話に出てきそうな神の裁き後のような地獄の光景を見ていると、首なしの化け物は、そこにいた全ての人を殲滅させるためなのか、その砦へと飛び出していった。
そして、そこからフレイが見た光景は、首なしの化け物のによる蹂躙だけであった。