月は慕われ愛でられる
ほら、笑って、人々の警戒心を解く魔法。それが笑顔だ。鏡の前で何度も口角を指で押し上げる。けれど目が据わっているのはよくない傾向だ。蛇口から流れる水を顔に押し当てた後、再び鏡の前で笑う。そこには前の自分の笑顔があった。これでいい。この表情が平穏な日常をもたらす。彼女を起こしに行こう。
寝室に入り閉め切られたカーテンを開ける。眩しい日差しに目を瞑る。窓から差しこむ太陽の輝きに背を向けて、君を起こす。
「おはよう、ルナ、起きよう、朝だよ」
寝ぼけ眼を擦って目を覚ます。
彼女が嬉しそうに「おはよう、ハル」と挨拶を返す。まだ夢と現実の境にいる彼女がベットから這いだし、差しこむ陽ざしから隠れるように自分の影に隠れ、抱き着いて来た。
「ハルも一緒に寝よう」
「ダメだよ、ほら、洗面所に行って顔洗って」
「連れって」
「しょうがないなぁ…」
ベットに居たルナを抱きかかえて洗面所へと連れて行く、抱きかかえられている間、彼女は幸せそうにウトウトしていた。洗面所に着くとハルは彼女にひとつ魔法をお願いした。それは水と炎を調整してぬるま湯を出す魔法だった。ルナが寝ぼけながらも指先に水の塊を溜めていくとハルがそれを洗面器で受け取った。そして、そのぬるま湯にタオルを突っ込み絞ると、彼女の顔に優しく当てていった。
こんなに手慣れるようになったのは、朝に弱い彼女たちの世話をハルがすべて担ってきた為でもあった。
顔を洗い終わってもまだ寝ぼけていたため、お節介焼きのハルさんは、彼女の歯まで磨いた後、洗面所を後にした。
そして、リビングに行きあらかじめ作っておいた簡単な朝食が置かれたテーブルの前に連れて来る。
「ハルは私のお母さんになった……」
しかし、まだ半分夢に片足を突っ込んでいる彼女が食事もできるわけもなく。一旦彼女はリビングのソファーに移動させて、ハルは屋敷の外に出るための準備をした。身支度を終えてもまだ彼女は夢の中のハルと戯れているようだったので、ちょっと外に出かけて来るからねと言うと、彼女を残して屋敷の外に出た。
ハルが屋敷の外に出ると、外は風が強かったが雲も少なく太陽がそれでも冬の季節ということもあって弱弱しく輝いていた。
「おはようございます」
扉を出たすぐ先に、白いショートヘアーの髪に、ロイヤルガードの制服を着た兵士が立っていた。
「おはよう、フレイ」
彼女はホーテン家のロイヤルガード所属のフレイ・オリスカでハルたちのボディーガードだった。ここ数日の間、風邪で体調を崩していたようで、しかし、今の彼女の元気な姿を見る限りだと今日から復帰のようだった。
「風は治ったのかな?」
「はい!おかげさまで、この前ルナさんにお見舞いに来てもらった時は嬉しすぎて死に掛けましたが、この通り元気になりました」
「それは良かった」
「引き続き、ボディーガードの方をさせてもらってもよろしいのでしょうか?」
「もちろん、そうしてもらうと助かるよ」
「ありがとうございます!」
「早速でなんだけど、中でルナが二度寝してるから起きたら食事をとってもらって、後、俺はワイトのところにいるからって言っておいて、昼には戻るって」
「はい、承知しました!!」
フレイがビシッと敬礼した。
「それともうひとつ」
頼みはまだあったそれはルナの為にもなることだった。
「なんでしょう?」
「ルナとたくさん話してあげて」
「それなら、喜んで」
フレイがハルの意図を見抜けなくとも、彼女はそう言われると嬉しそうに屋敷の中に入っていた。
「それじゃあ、よろしくね」
ハルも玄関先の短い階段を降りて屋敷を後にした。
ハルが屋敷を出た後、ホーテン家の本館に足を進めた。その途中遠くにハルが吹き飛ばした月桂の屋敷の跡地が見えた。
ハルとルナが今住んでいる場所は、敷地内でずっと空いていた古い屋敷を借りている状態だった。随分と年季が入っていたが、ホーテン家の者たちが一晩で問題なく住める状態にまで掃除をしてくれたおかげで、事なきを得ていた。しかし、ハルは今いる屋敷の方が月桂よりもこじんまりとしており、だいぶ過ごしやすく落ち着いた家で気に入っていた。周りの建物からも距離もあり静かで、部屋数も少なく迷うこともなく快適だった。
ただし、一方で元いた屋敷の月桂は、ルナの住んでいたところということもあって急ピッチで建築が進んでおり、日夜問わず建設作業が続いているようだった。
いつも通り本館の扉を開けると広いロビーに出た。二階にあるワイトの資料部屋を目指して歩く。
日々更新される情報を集め長年情報に触れて来たワイトの意見を聞くことは日課になっていた。彼はどんなことに対しても批判的で平等な視点を持っていたため彼の助言はとても役に立った。
しかし、一点落ち度があるとすれば、恋の話になると彼の意見はとても偏り盲目的になってしまうところがあった。ここ最近ハルは彼から情報を受け取る代わりに恋愛相談に乗るというよりかは愚痴を聞かされるようになっていた。社交性パーティーに友人と出かけ周りばかり上手くいくのに失敗が続いているようで、その愚痴を聞く機会が増えていた。まあ、何でもワイトは職業柄秘密を守らなければならないことが多く、女の子と話がうまく膨らまないと嘆いていたので少し同情の余地もあった。
そんなこんなでハルも日を追うごとにワイトと親しくなっていた。
いつも通り情報局の複数ある階段の中から、彼の資料室へ最短へ行ける階段を目指して歩いている時だった。
「あれ、ハルさんじゃないですか!?」
「ギゼラさん」
声のした方に振り向くと、そこにはウェーブがかった金髪の女性がいた。制服で身をと唱える者が多い中、場に似つかない明るいオレンジ色のお洒落な外套を身に纏っていた。それは完全にオフの日の格好であった。
「こんなところで会うとは何か用でもあるんですか?」
「うん、少しここの情報局員の人に用事があってね」
「この先の情報局に用ですか?それなら一緒に行きませんか?私も呼び出されて、オフの日なのに出て来たんですけど、なんだかちょっと面白いことになってるらしいんですよ」
ホーテン家本館に隣接している『ブラックボックス』という建物の二階に情報局があった。しかし、ワイトの資料館はハルが今いる建物の二階にあった。彼女とは行先が違ったが、特にワイトとの約束の時間も決めていなかったため、ついて行ってもいいと思った。それに面白いこととは何なのか気になった。
ギゼラと共に、本館から行先を変えてブラックボックスの一階のロビーへ移動する。
「ハルさんひとつ聞いてもいいですか?」
通路を移動中ギゼラが下から覗き込むように話しかけて来た。
「いいですよ」
「ルナさんとは上手くいってますか?」
「俺は上手くいっていると思っていますが、どうなんでしょうね…」
自信なさげに言うが、それは客観的に見れば間違いだった。二人っきりの生活で彼女の愛は常に四六時中休む暇なくハルという器に注ぎ続けられていた。ハルもそれに応え言うなれば二人は相思相愛の関係にまで短期間で昇華されていた。
「ハルさんがルナさんのことを想っていただけているなら、何も問題ないと思いますけど…あ、まさか」
そこでギゼラが少しまずいと言った感じで口元に手を当てて囁くように言った。
「もしかして、ハルさん、求められすぎてもうルナさんにうんざりとかしてませんか?」
恐る恐る聞くギゼラに、ハルは砕けるように笑いながら否定した。
「ううん、ルナのことちゃんと今でも大好きですよ、むしろどんどん彼女に惹かれていく自分がいるような気さえします」
「良かったです。正直わたしもルナさんとハルさんがくっ付いてくれてホッとしていたんです。だって多分ですけど、あの人のことだから、こんな風にハルさんと結ばれていなければ、いずれ勝手に暴走して、貴方を殺して私も死ぬって厄災みたいな女になってましたよ」
ハルは少しばかり心当たりがあるなと思いながらも黙って彼女の話に耳を傾ける。
「それがまさかルナさんの隣にハルさんがいる未来があるなんて思ってもいなかったので、正直、今のルナさんは人生の絶頂期ってやつなんでしょうね、最近たまたま顔を合わせた時もルナさん惚気話しかしない普通の女の子になっちゃってましたもん」
「そうなんだ…」
棘だらけだったルナがそのように丸くなっていたことが嬉しかった。
「鋭いナイフみたいな覇気のあったルナさんはぶっちゃけもう死にましたね、ハルさんあなたの色気でもう彼女、常に鼻の下伸びっぱなしですよ」
ギゼラも楽しそうに語る。
「彼女をダメにするのが俺の今の役目かなとも思ってる」
「ええ、ダメにしてあげてください。ダメになれなかった彼女をダメにできるのはハルさんあなただけなんですから」
ギゼラという女性がとことんルナという女性のよき理解者であるのだなとハルはこの時思った。
ハルが思っていることを彼女も望んでいるようだった。それはホーテン家のリーダーとしてではなく、ルナが普通と呼ばれることに、彼女はとても好感を抱いていた。それはある種の愛情でもあった。
「ギゼラさんって、本当にルナのこと思っているんですね」
「そうですよ、彼女と仲良くしておけば何かと生きやすいですからね」
ハルは彼女の強気で隠された嘘をすぐに見破った。
「飾らなくていいですよ」
「え?」
「顔に出てますよ」
「…………」
ギゼラの顔がほんの少し赤くなっていた。彼女はそれを隠すように少し前を足早に進んでいくが、彼女は途中で振り向くと言った。
「そう言えば、ハルさん、ここに戻って来てから連絡は取っているんですか?」
「え、連絡?」
「はい、だから、ライキ……」
その時、ギゼラの言葉を遮るようにハルの耳に騒々しい人々の声が聞こえて来た。
「…なんだろう?」
「ロビーの方からですね、行ってみましょう!」
それは本館からブラックボックスへ繋がる一階の渡り廊下を進んでいる時だった。ブラックボックスへ続く扉を開けてロビーに出ると、そこには大勢の人々が集まっていた。
「うわあ、何事ですかこれ…」
「あそこにいるのは、君の隊長じゃない?」
「ちょっと持ち上げてくれませんか?」
「え…」
あんまり恋人でもない女性の身体に触れることは躊躇いがあったが、どうにも急を要しそうだったので、群衆で出来た壁を超えるように彼女の身体を持ちあげて注目が集まるロビーの中心が見えるように掲げた。
「あぁ…あれはうちのグラニオス隊長と、ブレイドのキングス隊長ですね」
「どんな感じ?」
「なんか揉めてるみたいです。まあ、いつものことですね」
群衆の壁へ超えたギゼラの視線の先には、どうやらインフェルの隊長とブレイドの隊長がいるらしかった。
「ハルさん、行きましょう。こういう時、私が行けばだいたいことは治まります。なんせ私のバックにはあのルナさんがいますから顔が利くんです。さあさあ、皆の者!わたくしことギゼラ・メローアを通さんかい!!」
ギゼラがハルの腕から飛び降り、群衆を手でかき分けて進んで行く。
ハルも人が避けた彼女の後を追った。